※今回、前回は共に霧子(仮)の壮大なバックポーンが明かされる回となります。要は答え合わせ回みたいなものなので、まだ前を見ていないお方は一通り事件収束までをご覧になってからどうぞ
アル・アジフ。一般的な呼び名を使うならばネクロノミコンというべきか。世界一有名な魔導書の一つとして数えられる代物であると同時に、いまだその全容が知られていないという曰く付きの代物である。8世紀初頭、狂気に堕ちたとあるアラブ人によって書かれたかの書物は、記述者が読者に対してある種の魔術でも仕掛けたのではと思えるほど読者の精神を狂わせるとされ、大きく世紀をまたぐ前に禁書となる。だが裏ではその膨大な魔術の知識を求むる者たちの手により幾度となく表の世に出ては消されを繰り返し、現在残っている書物はたいがいが写本、ないしページの部分部分が欠損した不完全品であるといえる。
ともあれ、この書物の何が問題かといえば、記載されている魔術全般にわたるものが恐ろしく神話的狂気と隣接していることにある。読者が発狂するというのは、すべからく書かれている呪文、召喚されるだろう神性や神話生物、発動に用いられる宇宙的規模の概念などが人間のキャパシティを容易に消し飛ばすためであろう。完全版のそれが現代に残っていないのが一つの救いなのかどうかは定かではないが、少なくとも残っていたところでまともな代物でもあるまいという予想が真尋にはあった。
「つまり、オレはまともな奴じゃないってことか」
そしてそうつぶやいた瞬間、猛烈な速度でSANチェッカーがうなりを上げる。詳細を霧子(仮)から聞く以前の問題として、真尋の想像力はここ2日、いやもう3日となるか、その分すべての「嫌な予感」が直列で接続されたかのごとき悪寒を感じ取っていた。なにせ霧子(仮)は少女らしく笑いながら、こんなことを言い放ったのだ。十三世紀くらいかけて真尋を作ったと。十三世紀……、十三世紀? 百三十年とかじゃなく、千三百年? 邪神からすれば大したスケールではないのかもしれないが、もういっそ殺してくれといわんばかりに真尋の精神は疲弊しはじめていた。それでも倒れず立ち続けられるのは、SANチェッカーがひたすらに彼の狂気を請け負っているためなのだろうが、もはや一種の拷問である。と、そんな真尋の内心に対して、霧子は楽し気に笑った。
「そう落ち込まずにですねぇ。……あ、ちなみにSANチェッカーでお辛そうにしてますけど、実際間違ったことではありませんよ? SANチェッカー、ハスターあたりの信仰組織はMADロッカーとか読んで拷問具として使ってますし」
「は? いや、何だそれ。SAN値直葬されるのを防ぐ道具じゃないのか、これ」
「だってSANチェッカーが肩代わりするのは正気度だけですから。精神的な疲弊とか、脳の負担とかまではみてもらえません。んー、たとえば、SANチェッカーをつけた状態で私の
おそらくアザトースあたりのことだろうと、あえて上司なんてもったいつけた言い回しをとった霧子(仮)から察する真尋。
「すると、どうなんだ?」
「脳みそが破裂します。頭がパーン! ですね」
複数つけても破裂するとかいう話ではなかったろうか。
「んー、こう言うと変かもしれませんけどね。狂ってしまうっていうのは、人体の作用としてはある意味で正しい挙動なんですよ。人格を負担する器官たる脳に、無茶をさせ続けてそれでもなお停止させることもなく動かし続けると、挙動そのものがおかしくなり正常に機能しなくなります。しかし、これはその状態に適応しようとするからこその動きですので、狂うことで狂う以前の状態からは解放されてる部分もあるわけです。SANチェッカーによって精神を安定させられると、そんなことおかまいなしに常に正常稼働となりますので、結果、物理的に人体が破損します」
「しれっと何言ってるんだアンタ」
「大丈夫♪ 真尋さんの場合は他の人よりはSANチェッカーと相性が良いので、そのままで大丈夫だと思いますよ。なにせアル・アジフですから」
「だから、なんでオレが魔導書なんだよ。っていうか完全版って……、あー」
そういえば、クトゥグア召喚をおそらく意図的に失敗させて召喚させた、ヤマンソだったか。ノーデンス老と別な体の霧子(仮)に対して襲い掛かったかの炎の邪神を、退ける何かを真尋から取り出した霧子(仮)だ。ということはつまり、彼女の言っている言葉の正式な意味合いはともかく、実際それを成せるだけの魔術が記載されていたのだろう。確かにそんな話をちらっと見た覚えがあるような、ないようなという真尋である。霧子は一度咳ばらいをすると、超然とした微笑みを浮かべる。
「――――――ことの始まりはそう、ちょうどあのアラブ人が、かの戯曲を書いている時だったかな」
霧子(仮)では回想しきれる範囲にない情報だからか、声、態度ともにおそらく「ニャルラトホテプ」の状態になった。一歩後ずさる真尋に微笑む、霧子(仮)の姿をしたニャルラトホテプ。おそらくそのアラブ人とやらは、アル・アジフ原作者だろう。ニャルラトホテプは何が楽しいのか、思い出し笑いのように目を細める。
「そうだね。私が彼と出会った頃。丁度その頃、私は何をしていたか……。中国のあたりで水銀をすすめて為政者を何人か裏から暗殺していたかな? そんな私の様子を、彼は『窓を作って』見ていた」
「窓? ……当然、普通の意味合いじゃないよな」
「ああ。時空間に穴をあけていたわけだ。彼は本来、イスラーム圏ないしアラブ圏の人間だったからね。そちらの人間として神々に帰依するべきであったのだが、どういう訳かヨグ=ソトスに帰依したらしくてね。そんな彼は何を思ったのか、ヨグ=ソトスの力の一端、というか『肉片の一部』だろうね。それを通してあらゆる時代、あらゆる時空間の観察をしていたようだった」
最初の水銀の話を聞いた時点でロクでもなさ満載のニャルラトホテプであったが、邪神の肉片を使って魔術を行使していたそのアラブ人もアラブ人である。
「彼も私に後ろを向かれるとは思っていなかっただろうが、ふと気になってね。そしてついアドバイスしてみたわけだ。せっかくだから記録をつけてはいかがかとね」
「記録……?」
「そう。最初はちゃんとした記録として書いていたようだったが、少なくともその記録を私が改めて目にした時には、もはやまともな代物ではなかった。彼はあらゆる時代の『私たちの側の』神話や魔術を集め始めていた。彼が何を思ってそんなことをしていたかはまぁ知ってはいるが、それさえ無駄だと知っていてもやらざるを得なかったのだろうね」
「……んー、性善説にのっとれば、アンタらに対する対抗策として残したってことか?」
「さすがの理解力だ、と言っておけば『霧子っぽい』かな? まあそれを残したからと言って、後世、とくに私の目に留まった時点で彼が予定していた通りの使われ方をするとは限らなかっただろうが」
戯曲、戯曲といっていたか。つまりそのアラブ人は、あらゆる時代における邪神たちが起こしうる物語と、それに対抗するための魔術を集め記載していたということか。ただそれが後世正しく理解されることはない。当たり前だ、著者自身が狂ってしまうような内容のそれが読者に正しく理解されるわけはないだろう。またおそらくその紛失したページについても、この眼前の相手が一枚どころでなく絡んでいるに違いないと真尋は半眼でにらんだ。
「そう怖い顔をしていると、将来的にモテないぞ? 女の子っていうのは、たいがい見た目が九割だ。怖い顔、不細工な顔、挙動不審な顔がモテるには別なステータスを足さなければならない。意外と面倒なんだぞ? 真尋」
「そんなことはどうでもいい。どうでもいいが……、さてはアンタ、その戯曲から魔術以外をにおわせる記述のところだとか、戯曲として成立しうる部分とかを適当に紛失させたんだろ」
「…………いやぁ、さすがにわかるよね。ただ、真尋はその直感が『どこに端を発するものなのか』を十分に理解しているのかな?」
「何に端を発するって――――えっ」
真尋の想像力は、ニャルラトホテプのその一言により、結論に到達した。
「まあ、その話はあとに回そう。ともあれそれが一度世に出回りかけたとき、私は直感したのだ。嗚呼、これ原本残したいけど残せないなぁ、と」
「アンタの都合でな。いわば、攻略本みたいなものだってことだろ」
「嗚呼、そんなところだ。パワーバランスが滅茶苦茶なところで人間が抗うからこそ、それはキラキラして、はかなく、せわしく、美しく、そして悲しくて、どんな結末を迎えても大爆笑できるのに。攻略本を見られたら面白みが半減以下じゃないか」
「なんで大爆笑する必要があるんだ」
どう考えても人間の感性にないニャルラトホテプである。真尋のそんな反応を受けて、霧子(仮)の身体のまま楽しそうに笑った。いや、嗤ったが正解か。
「勘違いしてもらっては困るが、私は案外、人間という知性を高く評価しているんだよ。ショゴスの例にもれず、人間のような存在が安定して私たちに立ち向かうっていうのは、この宇宙全体でみると結構珍しい方でね。だからこそ記録として残しておきたいと思う私の心理が、わかるかなぁ、わからないかなぁ。……まあともかくだ。そして私は、その記録を残す方法を考えた。物質的な書物として残すことはできない。というか、あらかた私が手を加えてしまったからね。写本してる背後から油をかけて火をつけたり、ずたずたに切り裂いたり」
「つまり原本残ってないのはアンタのせいだろ」
「ああ、私のせいだ。そして丁度そのあたりで、かのアラブ人がいかにして死んだかを思い出したんだ。端的に言えば時空間を覗きすぎて、『猟犬』の目に留まってしまったわけだね。一度狙いすまされれば、よほど優れた魔術師でもなければ太刀打ちすることは難しいが故に、最後は影も形も三次元には残らなかった。血痕くらいは残ったかもしれないが。ともあれ、そう。彼はヨグ=ソトスを使用して時空間に穴を開け、私たちを観察していたのだ。だとすれば――――同様の方法をとり、完全版の内容にアクセスし、その知識を引き出せば良いとね」
だがそこからが大変だったと、ニャルラトホテプはスケール感の違いすぎる苦労話を始める。
「肝心のヨグ=ソトスはなかなかこういうことに理解のある存在ではないからね。コミュニケーションも取り辛いし、そもそもアレの手前に立つご老公は私のことをいたく毛嫌いしてるから話さえ取り合ってもらえない。となるとあれが産み落とさせたものに手を加えるなり、アレが関係したアーティファクトを改良するなりという方法を考えるべきになったのだが、これも中々集まらない。さらに言うと、大概のアレが関係したものは、知識欲こそあれど自分の特異性を利用しようという腹積もりを持たない上に、初めから正気じゃないのが多かったからね。化身するにしても私とて中々それに合わせるのも大変だし、『取り込んでみはしたが』意外とアレに近い能力を持っている個体と遭遇しなかったというのもあって、割と八方手詰まりになってしまった」
「……なあ、オレ、すごく嫌な予感がするんだが。もしかして、アンタそれ理由に――――」
真尋の続く言葉に、ニャルラトホテプは首肯した。
「ああ。だからこう考えた――――『そうだ、都合よくヨグ=ソトスの能力を継承した存在を作ろう!』とね。というわけで、生まれた存在が
「って結局それもアンタのせいかっ!」
「ああ、私のせいだ」
平然と言ってのけるからに、やはりこれは霧子(仮)の元になる存在には違いあるまい。いや、むしろ自然体で言ってのけるあたり、こっちの方がより性質が悪いかもしれない。
「半分がアレの遺伝子であると、アレそのものが様々な領域に接続しているせいか、形質性質共に一定じゃなくなってしまった。だから後付けにして性質を安定させるように決めたのだが、これも意外とうまくいかない。いうなれば特異点とは、時間から干渉を受けないかわりにそれ自体が時空に空いた一種の『穴』だ。時間の奥底に封印された存在に干渉する触媒にもなりうるが、私の意図としては、その穴がどこに繋がるかが問題だ。しかしこれ、調整が難しくて難しくて……。人種に関係するってことに気づいたときは、日本にもキリスト教が伝播していた頃になっていた」
そういえば織田信長が這い寄る混沌ではないか、とか提唱していた話がどっかにあったようななかったような。平然と戦国時代の日本についても知識を持っているあたりからして、いや、まさかそんなはずは。
「他にも色々遊びながらではあったが、まあおおむねアジア人に対応させることには決定したのだが、そこで目を付けたうちの一つが、八坂の家のご先祖だ」
「いや、まったくつながりが見えないんだが……。なんでだ、たまたまか?」
「いや、理由はいくつかあるよ。一つは真尋のご先祖のさらに先祖がかつて海賊をしていた折、異邦より来たりし月面の獣相手に、ノーデンス指揮の元、槍を手に立ち向かっていたというのがね。ちなみにその後発狂して、海を渡り隣国へ略奪行為をしたりもしてる」
「変な新説を作るな、新説をっ! 本気にしたらどうする本気にしたらっ! っていうか、え? 何、そんなところで縁があったのか」
「ああ。ノーデンスが君を助けに来たのは、そのあたりが理由ではないかと私は踏んでいる」
「……っていうか、月面の獣? ってアレだよな。ムーンビースト。結局それもアンタのせいじゃないか」
「ああ、私のせいだ」
ムーンビースト。詳細は省くがニャルラトホテプの代表的な眷属のようなものである。
そしてどうでもいいことだが、SANチェッカーがずっと回りっぱなしで止まることを知らない。いい加減その回転音で、耳がちょっと痛くなってきた真尋であるが、安易に外すのはためらわれる。
「とにかく、君の家系はその時の役割のせいか、ノーデンスの加護を受けていた。これが意外と特異点作成と相性が悪くなかった。うまく説明はできないのだが、ノーデンスの加護を基準とすることで、どれくらいの時間と時代とを接続先としてずらし調整するかということが、かなり簡単にできるようになった。あとちょっと、あとちょっと、ということで、そのままずーっと、君の家系の結婚相手を調整してきたんだ。いやー、ああいう色々化身して人間関係を円満に進めさせて祝儀までこぎつけるような経験、なかなか他の神性ではできないだろう貴重な経験だったねぇ。おかげで人間の好意について、色々学習できた」
「おい、ちょっと待て――――」
「そして、そう。ちょうど君の母親だね。彼女を見たときに、電流が走るようなひらめきを覚えた。彼女は自覚こそなかったが、いわゆる『探索者』と呼べる存在だった。それも私が多少関わった案件のね。そして、この散々に調整してきた八坂の家と、君の母親と。これが合わさったとき、まさに私が望む形で、意図したとおりの特異点を発生させられると」
真尋の静止など聞かず、ニャルラトホテプは嘲笑うかのように平然としゃべり続ける。そしてその言葉が続いた時点で、真尋の顔面は土色だった。
今言われたことが正しければ、戦国時代からこの眼前の相手は、自分という存在を生み出すためにいわば「品種改良」を繰り返し続けたということになる。真尋一人が生まれてくるまで、その運命の背後に介入して手を加えていたというレベルならまだ理解できる。いや、理解したくもないがそのくらいならギリギリ人間の手で把握できる年代だ。百年は超えまい。だが今言い放たれた情報は、とてもじゃないが理解を拒むどころか、むしろ一周回って笑いが零れるくらいだ。ただし、頬が引きつってしまうのは当然と言えば当然だった。
いや、それどころか――――ニャルラトホテプは、そうやって手を加えた家系を真尋だけだとは言っていないのだ。それはつまり、彼同様に運命を翻弄された血が、いまだ無数に存在するかもしれないということである。
「特異点の作り方について、まだ話してなかったね。といっても大して難しいことではない。以前、アレの召喚を物理的に防いだ探索者がいた。その探索者はなんとね、驚くことに液体窒素とダイナマイトでアレを退散させたのだ! で、丁度その時の破片を私が回収しておいたのが残っていたから、それを『人体に溶かし込めば』、完成と相成る」
「――――――」
「準備は着々と進めた。完成度を高めるために、今回は母体にまず溶かし込んだ。異物であるそれを母体が撃退するよりも先に、それは君の中に溶けてくれた。そして病院で『君を取り上げその産声を聞いたとき』、私はこう、圧倒的な勝利の余韻に包まれたんだ。………………ん、どうしたんだ?」
明かされる情報がことごとくひどすぎて、もはや真尋は頭を抱えて蹲っていた。
「どうしろっていうんだよ、これ」
魔導書アル・アジフが世に生誕した理由
看板に偽りなく、大体ニャルラトホテプのせいである。
「……となると意味がさっぱりわからんが、やっぱりオレの直感とかの元になってるものは、アル・アジフの、戯曲部分ってことか?」
「戯曲に限らず、魔術的な部分についてもだ。そうだね、せっかくだからTRPG的な説明にしてみようか。いうなれば真尋は潜在的に、クトゥルフ神話知識の技能を最大値獲得している状態にある。ただ普段からその領域の知識に接続されている状態にはない。あくまでも真尋自体はただの人間だ。特異点であるというものは考慮に値しない」
「まあ、聞いてる限りだと時空間に対して特殊であるって点以外、変わった能力とかはなさそうだしな……。現に、オレも肉体的には単なる人間だし」
「それに、基本的には私がロックをかけてるから普通はまず気づかれまい。だからこそ家系に加護を与えたノーデンスだから気づいたともいえるのだけれどね」
「っていうか、そもそも自分が加護を与えた一族にアンタがつきまとっていたら、それこそ気づきそうなものだが」
「そこは私が巧妙だというだけだね。自慢じゃないが、私が本気で化身した場合は『上司』以外見破れないだろうさ。ましてや私と違って人間スケールに合わせて物を考えることが苦手なノーデンスにはね」
圧倒的な説得力である。
慣れてきたわけではないが、蹲りながら苦笑いを浮かべる真尋。しかしそんな平和な状態は長くは続かない。
「まあそうだね。後は―――――私が君を取り込めば、それですべて完了だ。目論見通り、わたしはいつでも、かの記録を読むことが出来るようになる」
その一言は、非常識な経験に翻弄され続けたとはいえ、十五歳ぽっちの少年の精神を揺さぶるに十分な威力を持っていた。
やっぱりラスボス。
そして次回エピローグ。果たして珠緒ちゃんに出番はあるのか・・・?