さて、幾人がこのオチを予見できたものか・・・
真尋は悟った。たとえどれだけ自分が眼前の相手のことを想っていたところで、結局のところそれは夢幻。彼女が名乗ったとき同様、その事実はすでに霧に消えている。蹲っていた体勢から視線を変えれば、そこに霧子(仮)の姿はなかった。かわりというにはあまりに異様な、身長の高い男の姿が一つ。スーツはくたびれているが元が上質なものであるのが一目でわかり、それに身を包む男は長身痩躯。いや、あまりに長身すぎるともいえる。ゆうに2メートルは超えようというその身の丈に反してシルエットは華奢。頭部にシルクハットをかぶっており、顔面、手先は包帯で覆われている。そこからわずかに覗く肌は白く、いや、肌なのだろうか。皮膜のような何かに覆われた人体のごとき何かと形容するのが正しいと、真尋の想像力は正解を導き出していた。
「どこへ行くんだい?」
声は変わらず涼やかな男性のものだが、すでに真尋はその姿を視界に捉えていない。立ち上がりすぐさま全力で駆け出したのだ。先ほどの会話を振り返り、真尋の想像力は、否、彼に接続されているだろう魔術戯曲は、彼にある種の真実を伝えていた。そもそも真尋がある程度育ち切らなければアル・アジフへの接続がままならなかった。だから彼が育つのを待った。そして真尋がある程度の神話的知識を獲得することで、その想像力がアル・アジフへ接続するための鍵になるのだと。結果的にその目論見はうまくいき――――ニャルラトホテプが危惧した真尋が殺されかねない事象さえも巧みに使い、真尋をついにかの神性が望む状態に仕立て上げたのだと。もはやここに至り、神性にためらう必要は微塵もない。ゆえに真尋は逃げた。いや、逃げてしまった。彼自身気が付いたら、体が勝手にニャルラトホテプから逃走を図っていた。
だが、数秒とかからず眼前にかの長身が回り込む。瞬間的に視界がぶれ、目の前に現れた姿は先ほどの姿と異なっている。どうやら変貌途中だったのかもしれないが、眼前のそれは完全に、いわゆるスレンダーマンとかいうあたりのそれだ。のっぺらぼう、髪もない人体の表面に白い皮膜のごとき何かで覆ったかのごとき異様、2メートルどころか3メートルにも届きかねないほどの威圧感を感じさせる長身、仕立ての良い黒いスーツ、そして服のほつれなど、シルエットが時々「複数の触手が重なり合ったような動き」をしてぶれる。その姿をとらえた時点で、SANチェッカーが熱を帯びた。熱いと叫び外そうとするが、しかしその腕をニャルラトホテプに捕まれる。ざらざらと乾いた冷たい感触は、まるで死体のそれだ。
真尋は直感する。眼前の相手の顔を正面から見てしまったことでか、すでにSANチェッカーは限界を振り切りかけているらしい。ご多分に漏れず、創作都市伝説たるスレンディの性質である「見たら死ぬ」ないし狂うというそれを受け継いでいるらしい。いや、それはともかくSANチェッカーである。そもそも霧子(仮)からのネタ晴らしにおいてさえ数値の判定が発生していなかったので、この状況はかなり危険なのではないかと真尋は焦っていた。何かとてつもなく嫌な結末が起きそうで、そんな直感を抱きながら、自分の腕を持ち上げたニャルラトホテプをにらみつける。勢いで投げ出され、足元に散乱したコンビニで購入したスパゲッティやら何やら。買いはしたが食べる気にならなかったそれらが、ニャルラトホテプの影に触れた瞬間、その姿を消した。……食べられでもしたのだろうか。
「真尋。そんなに怖い顔をする必要はないぞ。何も君という存在が消えるわけではない。ちょっとだけ『自分の定義が広がる』というだけだ。人間なら誰しも一度は最期に通る道だ」
「全く意味が解んねぇんだよ、アンタ! っていうか最期って言ってる時点で死んでるだろ!」
長身の腕を振り払い、真尋はとっさに、転がっていたプラスチックのナイフとフォークを手に取る。武装としては貧弱どころの騒ぎではないが、もはや真尋がつかえる武器はその程度しかない。おまけに左腕はSANチェッカーによって焼かれている。状況は最悪どころの騒ぎではないだろう。
「真尋――――これは運命だ。君が生まれるはるか昔から、そう、前世よりもずっとはるか先から定まっていた運命だ。受け入れろ。そして、『私となるんだ』」
スレンダーマンらしくというべきかニャルラトホテプらしくというべきか、その背後から全身にかけて、黒くうごめく触手がわらわらと現れる。そして体の中心部。胸の中央には大きな穴と、霧子(仮)がつけていた「
真尋はなぜか確信していた。いや、おそらくこれも魔導戯曲よりの知識なのだろう。あの穴の中心にある多面体。発光するそれを破壊することができれば、真尋はこの這い寄る混沌を退けられると。球体自体はただの結晶体ゆえ、ある程度の衝撃で破壊することが出来る。だが逆に失敗すれば、それは自らの腕を相手の「口にさらしているに等しい」。すぐさまあの向こうにある名状しがたき口にするのも憚られる体内に取り込まれるだろうことは目に見えていた。勝負は一度きり――――真尋は自分の想像力に、あるいはアル・アジフにかけていた。直前であれ、この状況を打破しうるその直感に!
「俺は、運命なんて信じない。だから――――アンタの願望に付き合わされるのも、これっきりだ!」
「真尋がどう思おうが、すべては、かく、あるべしだ。私がなんでわざわざ『身体を開けた』と思う?」
次の瞬間、ニャルラトホテプの胸部は閉じ、最初のスーツ姿のそれに戻った。
声が出る。困惑と衝撃と、はめられたという絶望感が真尋の脳裏によぎる。だがそれでも、すでに走り出した真尋は止まらない。それはつまり、ナイフとフォークがニャルラトホテプに激突した瞬間が真尋の負けということで――――――。
「――――――――っ」
運命は、決した。
『――――嗚呼、お前の負けだ。ニャルラトホテプ』
「「!?」」
プラスチックのナイフは、ニャルラトホテプの胴体にぶつかった瞬間に「熔けていた」。だが、フォークだけは、その胸部を貫き、結晶に突き刺さっていた。まるで意味がわからないとばかりの真尋と、表情こそわからないまでも真尋と似たような心境なのか慌てた様子のニャルラトホテプ。真尋を突き飛ばすと、すす煙か黒い霧かを散らしながら、胸を押さえて周囲を見渡している。
「ノーデンスの声……? そうか。それは、失念していた。なるほど、最後に出し抜かれたのは私だったということか」
「……は?」
見れば。真尋の持っていたフォークは、プラスチック製だったはずのそれは、鈍く銀色に輝く金属のような色を帯びていた。だが珍しいことに、この事象に「全く理解が及ばない」真尋である。と、そんな場に聞き覚えのある声が――――ノーデンスが化身していたあの老人の声が聞こえる。
『お前らの一族、戦士に与えた俺の加護だ。お前らが持った『又の分かれた穂先の槍』は、総てまごうことなく『邪神を穿つ』破魔の属性を帯びる』
どろどろと煙を立てながら、体が崩れ落ちていくニャルラトホテプ。ノーデンスの声もそれきり聞こえなくなり、やがて朝日が昇り始める。ニャルラトホテプだったものは、その日の光に焼かれじわじわと、その姿かたちを消した。
「は、は……」
息も絶え絶え。SANチェッカーの回転が落ち着いてきているが、いまだに数値をはじき出してはいない。しかし、彼も意図せぬところで、少なからず命の危機は去った。これが一時的なものであるにしろ、真尋にとってはとりあえずの安心材料に――――。
「――――という訳で、真尋さんは意外と戦闘力があるってことですね。わかりましたか?」
「う、うわあああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
突如真尋を背後から抱きしめた声の主のそれを聞き、邪神の化身たる夢野霧子(仮)の声を聞き。倒したはずのその存在を前に、真尋の腕に巻かれたSANチェッカーは完全に壊れた。
「大丈夫ですって。別にとって食べはしませんから。ほら、深呼吸してください?」
混乱の極みに陥ったせいか、にこにこと、まるで先ほどまでの光景が何事もなかったかのようにほほ笑む霧子(仮)に介抱される真尋。諸悪の根源がこんな美しい、ともすれば他者を安心させるような微笑みを浮かべるのだからとんだマッチポンプである。いや、そもそも今日日、真尋が遭遇した神話的事象そのすべてがニャルラトホテプによる自作自演なのだから一切合切笑えない話であるが。しかし、それでも真尋は霧子(仮)のことをなぜか嫌えないでいる。そのせいか、呼吸を整えられ、汗を拭かれ、そして茫然としたままの真尋は軽く唇を奪われた。
「ッ、って、な、な、何してんだアンタ!?」
「んー? ほら、ご褒美的な。『がんばっていきのこりましたで賞』って感じですかねぇ」
「なんのご褒美だ、どれだけオレは趣味が悪いと思われてるんだッ」
楽し気にくつくつ笑う彼女は、介抱のついでにやっていたのか、その手に先ほどのプラスチックのフォークを握っていた。それをあらぬ方向に投げると、真尋の手を引いて立ち上がった。反射的に腕を振り払う真尋と「もう、つれないですねぇ」と少し残念そうな霧子(仮)。
「さっきまで人のことどうにかしようとかしていた相手が、何やってんだ。っていうか、アンタさっき倒されたばっかりだろ」
「いえ、ですから先ほど言ったじゃないですか。私、化身するのは本当に簡単なので、こう、ぽこじゃか出てくるの得意なんですよ」
胸を張るとその豊かな胸部が強調されるが、それはともかく、嗚呼と真尋は嫌でも納得させられた。実際彼は、眼前で彼女が焼かれたほぼ次の瞬間、自分の隣に新たな霧子(仮)が発生していたのをこの身で体験しているのだ。もうどうにかしてくれと言わんばかりに、真尋は腰が抜けた。
だが、霧子(仮)はとくに何もする様子はない。
「……?」
「あ、心配しなくてもいいですよ? 最初から真尋さん、取り込むつもりはありませんでしたから」
「…………は? いや、なんでだ、訳わからないんだが」
いまだ思い出すだけで震えそうになる状況と、ちらちらと不定期に襲う頭痛に顔をしかめながら、真尋は問いただす。と、霧子はあっさりと。
「真尋さんが持っている武器の性能について、一応把握しておいてもらおうかなぁと」
「……ひょっとして、それ目的であんなことしたのか?」
「ええ。日本に帰る途中も言いましたけど、私、こんな形で真尋さんを巻き込むのは本意でなかったことは事実なので」
「こうなることを予見していたのに?」
「予見していたからといって、真尋さん個人に対してどう思ってるかは別でしょ?」
いまいち要領を得ない真尋に、霧子(仮)は楽し気に、そして少し寂し気に微笑んだ。そしてそのまま、真尋の後ろに回り、その肩をつかみながら、ささやく。
「私という人格は、真尋さんに対して不快感をあまり抱かれないようデザインされてます。もちろんこの姿かたちも同様に。だから、ニャルラトホテプが演じている人格であるのだとしても、夢野霧子である以上は、真尋さん程とは言いませんが、そういう普通の常識とか認識とか、あるいは感情とかもあるにはあるんですよ」
「何が言いたいのか結論を言え」
「そうですね。言い換えれば――――――私、真尋さんのことが好きなんですよ。それこそ私が発生した二十数年前から、あなたをお守りするためだけに生まれたこの化身にとって、あなたは何より大事な存在であるべきでしたから。だから、私がニャルラトホテプの中に生まれた時点で、ニャルラトホテプは真尋さんを取り込むことをやめました」
「…………」
状況が状況である。そして語られた事情も事情であるし、正体も正体である。素直に喜ぶこともできずに、真尋は困惑を顔に表した。霧子もそれは当然わかっているのか、やはり表情は寂し気なままなのことがわかる声音で。続けた。
「だから、これでいいんです。ニャルラトホテプは探索者に退けられた。今私が出てきているのは、気の迷いです。SANチェッカーが壊れた、真尋さんが発狂して見ている、単なる夢幻です。だから、私が言うことなんて本気にしないでくださいよ?
――私、私が生まれた理由が、真尋さんでよかったって、本当に良かったって思います」
「――――」
「これにて私の物語は終わり。貴方は貴方の物語が、これからも続いていくのです。きっと学校に通って、おモテになるかどうかは知りませんが、きっとそこで知り合った女の子と添い遂げることになるんじゃないですかね。そして、きっとこれからも色々巻き込まれることにはなるんでしょうが、今日あったことを忘れず、武器を持って、一人の尊厳ある人間として、あらん限りに常識とその豊かな想像力を武器に戦っていってください」
「……発狂してる割には、言ってることが妙に生々しい気がするぞ。アンタ」
ただ、それでも。最後に真尋は力の抜けた笑みを浮かべた。浮かべることが出来た。
「では、さようなら。お元気で」
「……アンタもほどほどにしておけよ」
真尋の言葉が言い終わらないうちに、彼の肩に乗っていた体重は重みと感触を消した。慌てて振り向いた真尋だが、そこには彼女の影も形もない。登りはじめた太陽が彼の視界を照らし始めている。ちゅんちゅんと鳥の鳴き声が聞こえ、どこからともなくジャージ姿の中年男性が走り込みをしているのが見えた。
帰ってきた、といえるのかもしれない。この光景は彼が見たことのないものでも、彼が住んでいる世界でありふれた一幕のそれに過ぎない。その一幕がどれほどに重要なのか。重大なのか。大切なのか。
「…………」
左腕に残った火傷を一瞥し。真尋は無理やり立ち上がる。
「今日は月曜日か。……いや。弱音は吐くものじゃないな」
拳を強く握り。わずかに一瞬うつむいたものの、それでも顔を上げて、前を向いて。狂気の世界に背を向け、日の当たる日常の風景へと足を踏み出したのだった。
* * *
「おはよう、八坂君。……何か疲れてそうだね」
「おはよう。あー、睡眠不足だ」
「珍しいね。昼休みはよく昼寝してるけど、朝からその調子だっていうのは」
高校の教室。朝のホームルーム前の時間にて、読書が終わった後のがやがやとした空気の中である。真尋は級友の余市健彦に、疲れたように返答した。いや、実際に疲れてはいるのだが、詳細を語れない以上は苦笑いくらいしか浮かべることができない。クラス委員たる彼に心配をかけないようにというのもあるが、もっともそんな状況下であっても、きっちり宿題の英文翻訳をこなすあたりは、真尋もなかなかどうして無茶をしがちではあった。
やがて眼鏡の教師、クラス担任が入ってくると、あわただしく生徒たちが蜘蛛の子を散らすように座席へと帰っていく。女子生徒たちは相変わらずそれでも小声で話を続けたり、あるいは携帯端末をいじったりしている。男子は男子で堂々と話したりゲームをしたりして、教師から正面だった注意を受けたりしている。
普段通りの風景といえば風景だ。帰ってきたと言えば大げさであるかもしれないが、実質それが二日を超過する程度の時間でしかなかったのだとしても、真尋にとってその冒険は、狂気の山脈は何物にも代えることはできないほど、濃密で、衝撃的な出来事だった。眠気を覚える頭という普段とは違う状況もあり、真尋はホームルームくらいは寝てしまおうかと腕を組み、背もたれに体重をかける。と。
「えー、前々から言っていたことだが、今日からみんなに新しい仲間が増えることになる。みんな、仲良くしてやってくれ」
そういえばそんな話もあったな、と真尋は一週間前の話を思い出す。なんでも姉の仕事の都合か何かでこちらに来るらしい。女の子である、というくらいの情報しか真尋は知らない。教室に入ってきた彼女の姿も、目を半分以上閉じているから見えるわけもない。かわいい、だの、モデルさんみたい、だの、そんな声が聞こえるような気がするが、あいにく今はそんな気分ではないのだ。
だからこそ、そのまま意識を手放そうとしていたのだが。黒板の前に現れた少女が、名前を書き終え、声を発した瞬間にその考えはもろくも打ち砕かれた。
「――――姓は
立ち上がりこそしなかったが、それでも椅子から転びかける真尋であった。果たして衝撃に目をひん向いた彼の視界に居た少女は、ひどく見覚えがある容姿をしていた。いっそ日本人離れしたようなきれいな顔も、長い髪も、その声も。しいて言えば、それは真尋が知る彼女の姿から十年くらい時間を差っ引いたような、それくらいのスケールダウンが行われている。容姿には幼さが残り、声もまだ多少わんぱくな色がある。なによりスタイルが、高校生基準でみればかなりグラマラスではあるが、彼の知るほどに大きくはない。
そして、真尋の脳内で結論が出た。すぐさま走り出した想像力が導き出したそれは、以前聞いたようなセリフである。
「これからよろしくお願いしますね? ――――――末永く♪」
――――いえね? この、最後の最後でヒロインの正体が判明して、それで主人公のとなりにいられないってなってるのに、最後の最後でクラスに転校してきて『これからも一緒ですね♪』ってエンディングが、なかなか悪夢的だなぁと。
――――トラブルから主人公が一生逃げられないっていう死刑宣告でもされてるみたいで、なかなか楽しいじゃないですか♪
「そんな伏線、覚えてる訳ねぇだろ……」
この世の終わりのような声を出して頭をかかえた真尋であったが。しかし、その表情は意外と嬉しそうなものだった。
【真・這いよれ!ニャル子さん 嘲章】
【プロジェクト・オブ・ネクロノミコン】
【END】
以上で完結となります。正確には次回予告? 的なのを更新したら、正式にいったん終了です。
続きがあるかについては、ここまでの評判、感想の状況と、あとは冒涜的天啓が再び降ってきたらになるかと思います; とはいえネタがないわけではないのですが、さて・・・
それではまた深淵に\ドロップ/\ドロップ/