まあ相手が相手だから何をやっても藪スネークだったという事情もありますが;
※第2章は前話からとなっておりますので、まだご覧になられていない方はどうぞそちらより
真尋にしか見えない誰かは、手に持っていた血まみれのフォークと胴体を手から離し、真尋に向かって走り出した。そのまま彼を突き飛ばし、廊下の先へ走り出す。
わけもわからず茫然としていた真尋だったが、背中と頭を窓に打ち、はっと我に返る。走り去る自身の姿をした誰かの背を一瞬見て、そしてとっさに教室に入った。クラスメイトの視線が真尋に集中する。まるで恐れているかのような視線の中、見知った顔が震えながら声をかけた。
「や、八坂くん……?」
「余市、追いかけるぞ」
「へ?」
真尋としては当然のことを言ったまでなのだが、彼は全く意味がわからないといった反応だった。構わず真尋は転がっていたフォークを、武器替わりとばかりにつかみ取り、教室をかけ出た。
幸いなことに、相手の背中はまだ見える。見間違えるはずもないだろう、飛び跳ねた血が未だ相手の制服に付着しているのだから。もっともそれは真尋も同じくなのだが、量が違う。相手の方が絶対的にべったり、それこそ頭から真っ赤に染まっているのだ。当然誰も彼もが飛び跳ねるように避けている。それに続くように、真尋は全力疾走した。
「待てアンタ、一体なんなんだ――――!」
叫ぶ真尋を嘲笑うように、彼は屋上に向けて走り出しているようだ。
上り調子、特段運動部というわけでもない帰宅部な真尋にとって、ノンストップでここまで走るのはさすがにつらいものがある。もっとも眼前の相手は何一つダメージを受けている様子もなく、飄々と階段を飛ばして昇っていく。やがて扉を開け屋上までくると、彼はいまだ階段を上る真尋に一瞬嫌な笑みを浮かべて締めた。
「っ、逃がすか――――!」
とっさに真尋はフォークを振り上げ、がちゃり、と音の鳴った屋上出入口の扉そのものに「突き立てた」。当然、本来であれば無意味である。フォークはひしゃげ、真尋の腕から全身には鉄とコンクリートとの強度による跳ね返りの威力がダイレクトに伝わり悶絶するだけである。
だがこと、フォークを持った真尋に関してのみその事情は当てはまらない。
ある特殊な事情から、彼が持ったフォークのみは、それこそ「神すら打ち滅ぼす」特殊な力を持っていた。
その一撃はまるで一枚のガラスを砕くかのように、空間全体にヒビが入る。事実、真尋のフォークは扉に達していないにも関わらず、空中に「浮かぶように」亀裂が浮かんでいた。もう一度振り上げて下すと、亀裂が扉全体を覆うように達し、そのまま「扉が存在した空間ごと」蹴散らした。砕ける鉄片をハードルでも跳ぶような方法で飛び上がった。
向かってくる真尋を見て、真尋の顔を持つ誰かは目を丸くしていた。そんなに意外か、自分がこんなことをするのが。構わず真尋は走り抜け、握った拳で彼の顔面を打ち抜いた。肉と皮が歪み、セラミックの塊にでもぶつかったようなひっかいたような嫌な痛みが走る。が構わず真尋は数発殴り、彼の襟首をつかんで引き上げた。
「アンタ、何が目的だ。何が目的でニャル子を殺した――――!」
自分でもわからない程、真尋は怒りの感情が沸き立っていた。烈火のごとく燃え滾る感情が、彼自身の理性の制御を拒否していた。本来なら彼本人がここまでの怒りを覚える必要も意味もないはずなのだが、しかしどうにも、嫌な直感が真尋にはあった。眼前で殺された、二谷龍子。あの死体は、おそらく「もう二度と彼と言葉を交わすことはないだろう」ということが。当たり前といえば当たり前であるが、そんな次元の問題じゃない。恒久的な別れが確定してしまったような絶望と確信が、真尋の体内を燃え滾らせている。そして得てして、こういった真尋の直感は真実を貫いていることが多かった。
対する眼前の真尋は、半眼でへらへらと笑うばかり。殴られようとも血を吐こうとも、特に態度が変わることはなく、また真尋の質問にも答える様子はない。いい加減にしろとフォークを振り上げる真尋だが、それに対して男は――――。
「―――――何するんですか、真尋さぁん♪」
「ッ!?」
その喉から発された声は、まぎれもなく彼が殺した少女のもので、真尋が義憤を燃やす原因となったものだった。だが何故それがこの相手から漏れた? 瞬間的に思考が停止した、その隙を男は見逃さなかった。彼を突き飛ばし、げらげらと笑いながら走る。
「ふふ、ははははっは! そんなに大事だったら、もっと近くで手放さないようにしないと、いけないよな」
「――――、お前、誰だッ」
「君が知らない誰かだよ。決して、ニャル子じゃあない。まあ僕の仕事もこれで終わりだし。それじゃ、アディオス」
その一言を聞いた瞬間、真尋は言い知れぬ違和感を覚えた。眼前の相手を見続けてはいけないという、理性からの警告を受けた気がした。しかしほとばしる感情のままに、逃すまいと眼前の相手をにらみつけたままの真尋。それが、災いした。
眼前の真尋は、その全身が服も巻き込み、おおよそ信じられない程一瞬で「タールのような」色に変色した。かと思えばちらちらと玉虫のような照り返しをしつつ、顔面、眼球があった個所が陥没した。いや、眼球どころではない。その全身が頭頂部から、強酸性の液体でもかけられたかのように、とてつもない勢いで溶解し始めた。ほんの数秒、それこそ十秒も経たずに、それはべしゃり、と、粘液状の何かになり果てた。
真尋は腰が抜けた。そのままへたりこむと、両手が震える。粘液はそれこそ猛烈な勢いで屋上を這い、ついにはフェンスの下の隙間を抜けていずこかへと姿を消してしまった。真尋はそれを追うことができなかった。ただただ、なぜか猛烈な悲しさが全身を支配していた。全くもって意味が解らない。だが本来なら「ありえない」はずの現象が、龍子が殺されるという事態が起こってしまった。彼女の姉、偽名を名乗っていたが後に本名が「二谷
既に真尋は、理性の制御を完全に失っていた。正常な判断も何もかもができず、ただただ感情ほとばしるままに倒れて、何かしら「反応している」だけだった。
やがてわらわらと、破壊された屋上出入口から教員と生徒たちが駆けてくる。生徒たちは野次馬だろうが、担任の英語教師が真尋に駆け寄り、その両手をもって、縛る。狂ったように笑う真尋に、ひどく可哀そうなものを見るような目を向けた。
「八坂くん。事情はしらないが……、現行犯は現行犯だ」
違和感と疑問符を覚える真尋の理性は、しかし肉体の主導権を奪取することは適わなかった。
※
いまだに真尋の状態は変わらない。狂ったように泣き笑い続けている。否、実際に狂ったまま泣き笑い続けている。彼の精神状態をまずまともにすることから始めなければ、という趣旨のやりとりがされていたことをおぼろげながら認識すれど、その話があってからどれだけ時間が経過しているかさえ既に真尋の認識からは判断さえできない。
我にかえることもなく、しかし真尋の中にある理性は、現状を分析する努力を進めていた。通常、ここまで壊れてしまった場合は本人の自助努力にかかわらずすべての認識が吹き飛んでいるはずだが、しかし真尋の中の何かが現在の自分が置かれている状況を冷静に分析することをやめてはいなかった。
やがて泣きつかれたように、真尋は自我を復帰させ、周囲を見回した。
場所はどっかの留置場か何かか。とすれば旭川の方なんだろうか、今の真尋にはいまいち現実感も実感もない。白い鉄製の扉、トイレが据え付けてある部屋、ベッドなど最低限の衣食住だけは確保されている部屋ではある。ひたすらに自身で料理することもなく、食べ物を食べさせてもらっていた覚えもあるが、ともあれ色々と状況に理解が及ばない。
「……朝? 夜? あー、時計ないのか、ここ」
鉄扉のわずかな格子窓と、文字通り格子が付いた窓から見える景色は暗がりだが、しかし自分がどれくらい正気を失っていたか定かではない。思い出せばなにやら事情聴取をされていた覚えもあるような、ないようなといったところだが、それさえ本物の記憶かどうかは真尋にはあやふやであった。
「腹減ったな。……って、さすがに自分で料理は出来ないよな、ここ」
まず状況を整理しようと、水道水を一口。カルキ臭さに嫌悪と微妙な懐かしさを覚えながら、真尋はベッドに横になった。
ニャル子が殺された――――彼女の性質からして、実際そのことにはあまり気を配る必要はないのかもしれないが、しかし真尋の中にのしかかる妙な違和感と確信。もう二度と彼女に会えないかもしれないという、ひどく遠い疎外感と絶望感。なにもこれは、眼前で彼女が殺されるさまを直に目撃したから、というだけではないだろう。
八坂真尋は、魔導書である――――現代において数少ない完成された魔導書である。とある神格が目をつけ、調整し、誕生させた怪異の成れの果ての親戚がごとき存在である。その事実を知り、狂気と正気の狭間をさまよったのが数週間前だ。なに、ちょっとした「一時的狂気」くらいならば、慣れっこであると強がるが、しかし真尋の身体は隠しようもなく震えていた。
彼が己の正体を知ったその事件―――その折、彼を護衛していたのが二谷龍子の姉である。現在、彼女は失踪中であり、その裏にある真実は、真尋と、龍子のみが知っていた。
ともあれそんな縁もあり、真尋と同じ学校に転校してきた龍子――――どちらかといえば、真尋の護衛のために姉妹ともども引っ越してきていたというのが正解――――であるが、別段真尋と極端に仲が良かったというわけではない。事情についてはそれこそ多くを共有していたし、向こうの馴れ馴れしさは悠々はるかにべったりしかねない勢いであったが、だからこそ真尋は彼女と近づくことを、積極的にはしなかった。
嫌でも彼女の姉を――――初恋の相手と、その関わった異常な神話的事件にまつわる全てを思い起こさせるから。まあ、妙な時期の転校生である彼女と親しくしすぎて、歩くスピーカー(※情報通の意。この場合はクラスメイトの暮井珠緒を指す)に色々追及されても面倒だったというのも理由のひとつではあるが。
そんな折、今回の事件である。
「仕事、とか言っていたか。……不定形であったことを参考にすると、さしずめショゴスってところか?」
ある程度正気を取り戻しているから、真尋は自身の知識を総動員して今回の事件の解析に望む。ドッペルゲンガーを疑いもするが、案外と真尋の現実はそれよりもごくごく怪奇小説的なそれだ。世にいう恐怖神話体系群、クトゥルフ神話に連なるそれに「おそろしく近い」何かこそが、彼の住む宇宙をとりまく真理の類である。なによりその変異を見た真尋が、通常ありえざるほどの正気の失い方をしたことからも、それを疑うことが出来るだろう。かの神話群の存在は、リアリティを喪失させるショックが大きすぎるため、それこそTRPGとかになぞらえるような症例を確認できる。事実、真尋は自身の身体をもってしてそれを証明していた。
ショゴスといえば、まあいうなればスライム系の怪物の祖とも言い換えて過言ではない。まあ厳密にはショゴスという種族そのものについては異説もあるが、この際は面倒なのでそう括るとする。
H.Pラブクラフト作の「狂気の山脈にて」というものがある。それ以降派生したスライム系のモンスターといえば人食いアメーバだの当然のごとく怪物的なそれであり、というかそもそもスライムというもの自体が危険物であることを考えれば、その派生も納得と言うか、当然といえば当然であろう。所謂ドラクエなどで有名な型のスライムが発生したのはそれよりだいぶずっとずっと後期、より現代文明に寄ってからのものであり、前段階の形態の一つに、ヘドロ怪獣を含むこともできるかもしれない。
ともあれスライムという存在についてだが、誰もが納得する点の一つに、ひとえにその正体や思考がよくわからないところがあるだろう。例えばミノタウロスという存在を言葉で形容すれば、牛の頭、人の身体、というのがテンプレートだ。鬼といえば角のある大男だし、ヴァンパイアといえば長い牙を持つ吸血するヒトガタの怪物である。その点スライムという存在を言い表すには、こう、粘液という表現だけでは本来のその不気味さ、異様さを伝えることはかなわないだろう。今でこそそういった表現のテンプレートが確立しているからこそ伝わりはするが、そもそも肉体らしきものもなく、思考をつかさどるだろう神経組織の集合体もない。脳みそがわからず、顔もわからず。
一言でいうなら、名状しがたい――――。
つまりは今回、真尋が遭遇した一通りについて形容するに、十分たるそれである。
だが、当たり前だがそれを目撃したのは真尋ただ一人だろう。事実彼のクラスメイト達は、目の前で少女一人がフォークでギロチンされるというこの世ならざる光景を目撃こそしているが、真尋の乱入に対して異常動作を起こしているようには見えなかった。
そこから導き出される結論は何か。
「なるほど。それなら俺が捕まるか」
つまるところ、事実と名称を整理すれば一目瞭然なのだ。「八坂真尋」としか思えない男が殺し、その逃げた先に「八坂真尋」がいた。その場には、「八坂真尋」としか思えない男が残した凶器があり、「八坂真尋」が拾い上げて駆け出して行ったのだ。当然、真尋も、あの相手も、どちらも龍子の血を浴びている。
結論からいえば、真尋が殺して逃走し、屋上で発狂したとしか見えない。
クラスメイトたちに、真尋が二人いるという状態は目撃されていないのだろう。……廊下を走っていたときの証言は、おそらく心神喪失したか何かの妄言として無視されたか、あるいは一時的狂気に陥ってそれどころではなくなったか。
「まいったな。なんでもかんでも神話的現象を使えば完全犯罪が成立するってもんじゃないぞ、これは。古典ミステリに対するリスペクトがないのか、リスペクトが」
言いはする真尋であるが、そんな彼とて日曜朝に放映された特撮ヒーロー番組の影響で「ロング・グッドバイ」に手を出し、途中で投げ出す程度の知識しかなかったりする。が、これは逆に、そんな卑近な話題を挙げることで現実逃避をはかっていると言い換えられた。
「なんでいきなり殺されてるんだよ。意味わかんないっての――――」
涙は流れない。それは、意図して彼が流すまいとしているからだ。この胸に沸き立つ痛みを忘れないよう堪えているのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、彼女の言動は何からなにまでもが彼女の姉、真尋には偽名を名乗っていた、二谷劉実を連想させる。ほんのちょっとした仕草にデジャビュを感じ、いたずらっぽいその性格に少しだけ脈拍が上がり、なにより彼女と話していると、落ち着くことが出来た。「真尋から嫌悪されない性格である」と意訳ではあるが自称していただけあり、確かに彼女と一緒にいるのは、少し鬱陶しいくらいで苦にはならない。そんな彼女と二度と会うことができないような、この胸の内に沸き立つ違和感――――。そう、違和感だ。真尋はその言い知れぬ感覚に、ひどく恐怖を抱いていた。
奴は言った。俺のせいだと。
真尋は、この現実にいる神話世界の住人達が、必ずしも神話世界そのものの住人たちでないことを十分理解している。だからこそ、龍子へ牙を向けるために、あのショゴスがとった武器がフォークなのがひどく引っかかっていたのだ。普通に考えれば、フォークで人間の首は落とせない。殺傷自体は不可能ではないだろうが、それでも動脈静脈関係なく切断することも、骨を叩き折ることも人間の揚力では不可能だろう。人間以上の力をあれが発揮していればまた違うかもしれないが、しかし真尋の見る限りにおいてそんな様子はなかった。
とすれば、それは真尋が持っている類の力――――「穂先の分かれた獲物」を使った場合のみに発動する、邪神さえ殺せる特攻が発動したと判断するほかない。
「まだそうと決まったわけじゃないが……。希望的観測は持つべきじゃないな。元から、別に俺はそう運が良い方でも何でもない」
その力により、彼女の姉は真尋の前から姿を消したはずだ。
くしくも、とするならば今再びその能力により、真尋の前から彼女が姿を消したかもしれない。
落ち込むよりも先に、真尋はその考えに至った瞬間、意識を手放し――――。
「――――八坂真尋、八坂真尋。取り調べの時間だ。……って、お前、起きてるかおい?」
第三者に叩き起こされるまで気絶していた。