這い寄る混沌、ニャルラトホテプの化身にいくつか種類があるが、そのうちの一つに暗黒のファラオと呼ばれるものがある。とはいえど何故ファラオなのかということについては、そもそもまず這い寄る混沌とエジプトのつながりについての基礎情報が必要となるだろう。かつて古代エジプト文明において、とある王が邪教に入れ込んだとされる。それは無貌の神と呼ばれる、色々と表現を省略すれば顔のないスフィンクスのような得体のしれない怪物であったのだが、その存在を神と崇め奉っていたらしい。それまでの既存のエジプトにおける宗教的なそれを無視し、かの王はすべての神をそれに帰依させようとした。ここで問題になってくるのは、そもそもその神がいかに恐ろしい存在であるかということもだが、その崇拝のための儀式や様式が、ことごとく忌まわしくかつ邪悪であったことだ。もっとも有名な話としては、末期における百人ほどの生贄を用いた冒涜的儀式と、それにより召喚した這い寄る混沌より授かった未来予知により、自身が生き埋めにされた壁面一帯に冒涜的なまでに夥しいほどの未来絵図――――それこそ人類が辿るであろう未来の歴史から崩壊の歴史まで――――を書き記したそれであろう。大前提として、そもそもかの這い寄る混沌を崇拝している時点で正気とは言い難く、しかし結果として、のちの世にそのファラオ、ネフレン=カの姿を用いて現れる程度には、這い寄る混沌に気に入られているとみるべきか。これについては説がいくつか分かれており、這い寄る混沌がファラオとして君臨していたのか、あるいはまた別のものなのかというところについて、未だ定かではない。
そしてその肝心のネフレン=カこと暗黒のファラオであるが。
「って、いやアンタ完全に創作だろ。史実にはいないだろってのっ」
真尋のこの指摘がすべてを物語っている。創作にいわく、このファラオは第三王朝末から第四王朝頭にかけて存在したとされるが、現在に至るまで関連する文献は発見されていない上に年代が一致しようもなく、また政治面で見ても存在しうる可能性がない。まあ、そもそも出典が出典であるからして実在非実在についてはまた別なものなのだろうということではあるが(実際、ンガイの森のように世界史など事実にすり合わせれば矛盾するものも多く存在する)、だからといって創作の人物そのものの名前を名乗られてもというところではある。いや、相手がニャルラトホテプであるのだからその辺りは問答無用でなんでもありの可能性も高いのだが、ことはそういう問題ではないだろう。現状、ドリームランドに落ちている自身の境遇と合わせて、現実感が薄れている。
ただ、薄れているかどうかはこの場合、問題ではないのだが。
起き上がると、クー子は右手を灼熱のごとく燃やし、あるいはプラズマ化しながら殴りかかる。一方かのファラオはその一撃を、自身の人体に「物理的に」孔をあけることで回避した。腹の部分に空いた大きな穴は、背後の空間そのものに通じているが、映像としてはフィルムからくりぬかれた下手な合成映像技術のような仕上がりである。これが映像フィルムなどであればチープの一言だが、現実にそんな光景が起きればそれこそ逆に正気の世界ではない。腕が貫通するクー子と、とくに余裕のある表情を変えない暗黒のファラオ。そのまま一切合切容赦なく彼女の腹を蹴りつけて遠くに飛ばす。
「面倒な。我は基本的に、面倒は嫌うのだ。これではおちおち準備もできないではないか――――」
言いながら腹をなぜるファラオ。特に気にするまでもなく完全に埋まった孔に、真尋の表情は固まったまま。そのまま何を思ったか、ファラオは自分の口に手を入れた。何をするかと思えば、そのまま右手を自分の首から下のほうに引っ張り「そのまま人体を裂いた」。首、胴体から抉れめくれ、そこに現れたのは巨大な瞼のようなものだ。三つある。それらが蠢き、物理的に眼球が存在しようもないにも関わらず当然のように真っ赤な目が真尋たちを見る。そこから涙のような、黄色い粘液がひたひたと溢れ垂れ流れ、ファラオの足元に溜まる。左手で腹を抑えながら、引きちぎった顎と肉と服とを元の位置に調整する男と、黄色い粘液のようなそれが徐々に何かしらの形を形成していく。それは全身に黒い脈が浮かび上がった獅子かハイエナのような巨体であり、また頭部に鳥のような飾りのつけられた黄金のマスクが取り付けられており、なおかつ顔面の部分にはまるで「フィルムをマジックで塗りつぶしたような」異様な合成めいた真っ黒なフィルターがかかっていた。この段階でいつかのように、真尋は既に自分の認知に対してさえ発狂したバイアスがかかっていると確信。全身レベルには及んでいないものの、あれはそれほどのひどい見た目をしているのかと、ただただ恐ろしく言葉もない。
その獣は飛び上がり、足があらぬ方向に曲がったクー子めがけて飛び掛かった――――対するクー子は、頭から巨大な牛のような角を生やして頭突きを食らわせる。いや、生やしてなどと簡単な一言で済ましたが、その有様はあまりにもひどい見てくれである。瞬間彼女の頭部胸部が例によってプラズマ化したと思えば、そこから肋骨が数本、すり潰されるように粉々になりながら移動し別な形を形成する様はまるで刀鍛冶か何かを思い起こさせる。完成した角は骨が原材料と思えない程鋭利かつ眩く、そして再生したクー子の頭や顔面の皮膚は、突如生えたその角により無理に引っ張られているのか顔形がややいびつに歪んでいた。
「はぅぅぅ……!」
『――――』
角は突き刺さらず、スフィンクスめいた異形の怪物の頭部飾りに激突。金属同士がぶつかり合うような、あるいは刃物と刃物をぶつけ合うような音が響き渡る。スフィンクスは腕を振り下ろす。対するクー子は、胸部からこれまた「肋骨を変化させて」、古代恐竜の牙か何かのようにスフィンクスの胴体に突き刺した。
だがそれで終わるスフィンクスのような怪物ではないだろう。次の瞬間、真尋の視界が暗転したため何が起こっているかは分からないが、音的におそらく肋骨の刺さった上半身と下半身とが分裂でもしてまた襲い掛かったのだろう。分裂と表現するには、まるで無理やり肉を引きちぎったような音やら、血液が噴き出すような音やらが聞こえた気もするが、真尋はそちらについてもはや積極的に考えることを放棄した。
真尋の耳は、徐々にこちらに近づいてくる足音を認識していた。咄嗟に転がり距離をとると、その上方から愉し気な笑い声が聞こえる。
「その有様でよく足掻こうと考えるな。まあ嫌いではない。いつの世も『闇を照らせし者』は、かくあれしだ」
発言者の素性を考えれば完全に気まぐれか何かのように思いもするが、しかし直接、這い寄る混沌との邂逅経験がある真尋である。その声色に嘘偽りがないことも理解している。かのニャルラトホテプそのものが、人類を意外にも気に入っていることも知っている。だがだからといってその戯言に付き合うつもりはない。この男は言った。自身の糧となれと。
「――――どの道、この場から逃げられないと意味がない」
つぶやく真尋であるが、しかし決してフォークを用いて自殺しようとすることはない。この場所で死ねば現実世界に帰れるはずではあるが、しかしそれを決心するにはことここに至って、彼の脳裏に嫌な推測が立ったからだ。つまるところ生死の境をさまよっている己の肉体であるからして、そんな場所に今のこの精神で戻った場合、果たして生き残ることが出来るか、ということである。ひょっとしたら既に死んでいるかもしれず、その場合ここでの死はつまるところ真尋そのものの死と同義となってしまう。現実はゲームのような救済措置のない、果てのない荒野なのだ。想い人の忠告を胸に、真尋は慎重に選択肢を選んでいた。
「ふむ。仕舞いだな」
だが、そんな声が真尋を思考の世界から現実に戻させる。どしゃり、と音が聞こえると同時に、真尋の視界が回復。その場に転がっていたのは、四肢をまるで引きちぎられたようなクー子の痛ましい姿だった。頭から生えた角も片方引き抜かれており、皮膚が歪み骨が見え、左半分の顔面と皮下組織との間に大きな剥離が起きていた。腕も足も中途半端な位置で壊されており、また喉もつぶされているのか声もいびつな呼吸音のみが聞こえる。白いワンピースは鮮烈に赤く染まり、真尋の鼻に強烈な鉄の匂いを覚えさせた。
真尋は声を荒げ、ろくに力の入らない体を無理に這って立ち上がりその場から逃げようと走った。だがぐにゃり、と何かまるで人間の腕か何かでも踏みつけたような感覚とともにその場に転がる。真尋は自分が何を踏んだかさえ見ようともしない。見ることさえできない。そんな発想が湧かない。それこそB級ホラー映画の犠牲者でさえ鼻で笑うほどに、恥も外聞もなく、その精神は逃亡を選択していた。いくら内面、理性的な部分でそれを押さえつけようとしても、もはやそれの言うことを聞けるほどに真尋の精神力はなかった。
そんな真尋に、胴体だけにされたクー子が投げつけられる。熱と重量にうめく彼と「少年……、ごめん……」と、喉が再生したのかクー子の弱弱しい声が聞こえた。
「いささか刺激が強すぎたか。許せ。そなたを壊すことが目的ではあるが、怖がらせることが目的ではないのだ」
「あ、あ、あ、アンタ――――、アンタ、何が、目的なんだっ」
「むろん、そなたを取り込むことだ。そのために我はいくばく、どれほどの時間を『ここで』待ったと思っている」
くつくつと笑いながら、暗黒のファラオは胸に両腕を「突き刺し」開く。そこにはいつか見た、輝く多面体とうごめく異様な数の虫のような何か。まるでそこだけ生物としての法則性が違うようなそれを前に、しかしいつかのように真尋はフォークを握ることが出来なかった。出来るわけもなかった。あの時と違い、真尋は覚悟を決めるだけの精神的な余裕がない。「心の有りようが遷移する」というのは、それを成せるだけの余裕が心にあるからこそだ。そうでない場合の遷移はつまり状況に流され散るに過ぎない。真尋は今に至るまで、ひたすらに心を折られ続けた。最後の最後のダメ押しが、ここまで常に彼に安全をもたらしてきたクー子の大破という現状である。また這い寄る混沌からの、覚悟はしていたが裏切りめいたこの行動もあいまって、真尋の理性が表に出ることはほとほと不可能といえた。
感覚のない左腕が、クー子に押しつぶされている左腕が震え続けている。そんな彼らを押さえつけるように、例のスフィンクスめいたナニカが前足で踏んだ。
「な、なんで……、実績があるって言ってたじゃないか」
「少年、ごめん……。ここ、私、苦手かも……。ひげの人もいってた」
「苦手?」
普段の彼ならありえないだろう責任転嫁に、しかしクー子は実直にも答えを返す。苦手とはいったいどういう意味か。確かに覚醒世界とちがいこの幻夢境、物質的な破壊よりも観念的な能力の方が影響度がでかいとか、そう言われてしまえば説得力はあるかもしれないが、しかしそれをしてニャルラトホテプに一度でも痛手を与えたという過去が実際に存在しているらしいのだから、たとえあの大爆発を遣えずとももっと善戦しても良いはずである。
彼の疑問は、意外なところから回答があった。
「ん? なんだそなた、知らぬのか」
「知るって、何をだ」
「なるほど、ということは『それ』の完成度の高さは別な誰かが『作った』からこそか。いくら『死者の書』といえど、完成したそれを作るにはいささか経験が足りないと考えていたが、第三者がということならば納得である――――」
止めて! とクー子が叫ぶ。声音に涙が混じっているような、そんな必死さと悲しさがにじみ出たようなそれを前に、真尋はそれでもあたりが付かない。一体何が問題なのか。いや、そうではない。その事実に気づくことが、この場において明らかに不利な現象を引き起こすという事実を、本能的に認識しているのだろう。知るということは、すなわち『そちら側に出向く』ということとは誰が言った言葉だったか。普段の真尋であるならば、その想像力でもってして真相にたどり着くのは容易であるのだから、むしろ今の状況が不自然であり、そして「そうでなければならない」。
だが、眼前に立つ黒き男は、そんな彼らの事情を一切合切考慮しなかった。
「知らぬのなら教えてやろう。偉大なる『先達』として。そもそも――――」
――――クトゥグアなる独立した神格は、この宇宙には存在せぬのだ。
言葉を聞いたと同時に、真尋の目の前で、クー子の身体が一瞬で「炭化した死体」と化した。