「やあクー子じゃないか! 相変わらず、君はこう小さくて仕方ないなぁ~。まあそういうところが素敵なんだが、食べるもの食べてるかい? せめて高校生くらいまで大きくなっていておかしくない時間が経ってると思うのだが♪」
「…………それ、気にしてるし……、は、はう、はううううう…………」
寝ぼけ眼をこするように、クー子が起き上がる。一瞬飛びのいた真尋であったが、何をいうべきか、どうするべきかという思考が回らない。SANチェッカーこそ減っていないものの、気が動転しているのは間違いないのだろう。
そんな彼らに向かい、這い寄る混沌は歩いてくる。と、クー子と目が合うと、彼は彼女のわきの下に手を入れ、高い高いと持ち上げ、くるくる回った。不機嫌そうなクー子だったが、だんだんと 目をまわし「はうう」と例によってうめき始める。そんな彼女を下ろす這い寄る混沌。くらくら足がおぼつかないクー子に微笑み、彼は真尋に少しだけ頭を下げた。
「いやしかし、今回もすまないね。事情はなんとなく理解したが、よくぎりぎりで私を呼び出す方法を理解したといえる。そういう抜け目のなさは、きちんと成長しているのかもしれないね」
「いや、何、部活動の大会の総評みたいな風に述べてるんだアンタ」
そもそもアンタの不手際が原因じゃないのか、といぶかし気な真尋に、這い寄る混沌は涼し気に微笑み返した。
「まあ、積もる話もあるだろうが、とりあえず帰りながらにしよう。あまり長くいると、勘違いで私たちまで呪われてしまうかもしれないからな」
「呪われ……? って、何だ何だ?」
「少しじっとしていてくれ。何、すぐ終わるさ――――『顕われたまえ、顕われたまえ。聞き届けよ、この身はその戒めを捨て印を結ぶ者なり』」
フードを頭にかけると、這い寄る混沌は真尋の前に立ち、彼の胸元を軽く撫ぜた――――這い寄る混沌の手が離れた時点で、真尋の胸元には「孔があいていた」。ただ、それは貫通してるという類のそれではない。明確に空洞が空いているというよりは、何かこう、ワープホールのようなものが展開されていると表現するべきか。そしてその向こうで、無数の白い文字が暗黒の中をさまよっているのが真尋にはわかった。そのうちの一つを指先でつまみ、真尋たちの眼前に引き抜く這い寄る混沌。
「『汝が印を結ぶ場所へと、彼我を超えて入りたまえ、顕われたまえ、顕われたまえ――――』」
何かしらの呪文らしきものを詠唱しながら――――明らかに日本語ではないのだが、不思議と真尋はそれがどういった意味合いを持つのかをなんとなく理解していた――――その呪文を、まるで折り紙でも折るように物理的に変形させていく。やがて鍵のような形になったそれを、しゃがみ足元に突き刺し、扉を開くかのように半回転させる。と、鍵が瞬間消失し、真尋と這い寄る混沌の間に、おおむね1メートル半径ほどの、玉虫色の、ぶくぶくと膨れた肉のような風船のような何かがあふれ出した。何を言うでもなく、それが「ありとあらゆる場所をつなぐ」異邦の神であるところのヨグ=ソトスの肉片であることを理解する真尋。SANチェッカーの回転がはじまるが、いつかのように止まる気配はない。
ついてきなさい、と当たり前のように這い寄る混沌はその肉片を踏み潰すように足を踏み込む。と、ずぶずぶと音を立ててその中に吸い込まれる様は、流れる腐敗臭のような独特の匂いも含めてたいそう気持ちが悪い。が、現状他にどうする手立てもなく、クー子の手を引き、ためらいがちにその後に続いた。ずぷり、と、泥の中に足を踏み込むような感覚と共に、真尋の上下左右の感覚が90度ずれる。そのまま次の足を踏み込むより先に、まるで泥沼の中に吸い込まれるよう真尋の身体は深みにはまっていく。思わず目をつむり息を止める真尋。耳の中にまで泥水が入るような不快感を覚えるが、数秒もせずに空気のある場所に出て、その不快感は影も形もなくなった。
目を開けると、そこは広大な洞窟のような場所だった。道が舗装されているわけではなく、しかし重力という感覚は希薄だ。足を進めようとすると、みょうに粘着質な地面であることに気づく。なお足をとられそうになるのは真尋だけで、クー子はぷかぷかと真尋の横に浮いていた。薄暗がり、奥に行けば行くほど何も見えなくなる中、クー子の髪がわずかに光っていることがよくわかる。
「こちらだ」
ランタンを片手に掲げ、真尋の前方先から這い寄る混沌が声をかけた。「少年、ごー」とクー子に背を押され、足をとられながらバランスをぎりぎり保ちつつ真尋は前進していく。這い寄る混沌に並ぶと、ようようその背が明らかに抜けて高いことが分かる。スタイルが日本人的ではないというか、頭身が高いというべきか。足を進めながら、真尋はそんな眼前の相手に問いただした。
「……あれ、アメンホテプ四世だったりしないか?」
「おや? 何のことかな」
「とぼけるなよ。ネフレン=カのことだ」
アメンホテプ四世、ないしイクナートン。エジプト第18代のファラオにして、エジプト王朝において異端とされるファラオでもある。当時、エジプトにおける神官の腐敗を排するため宗教改革を行い、多神教を一神教とし、都を遷移しようとした。もっともその試みや行いは事実上とん挫、失敗し、死後その名は歴史から削り取られた。
「もともとネフレン=カとアメンホテプ四世って、類似点が多かったりもするし、モデルなんだろうなとか、それくらいは思ってた。どっちも写実的な美術を為しているところも共通してるしな。だからこそ、あえてそれを逆手にとって作り出した疑似的な化身なのかと思ったが……。あいつ、ネフェルティティとか言ってたな? アンタに」
「ああ、そうだね」
「ネフェルティティはアメンホテプ四世の正妻だと考えると、そっくりそのまま解釈すれば――――ネフェルティティはアンタの化身だったと考えられる。そうすると、一つ嫌な可能性が浮上するんだが……」
言ってごらん、とやはり涼し気な這い寄る混沌に、真尋はひどく嫌そうな顔をした。
「――――アンタさては、アメンホテプ四世をハメた上で『取り込んだ』な? だから、アンタから独立した時点で自我を取り戻して、アイツはアンタを倒そうとした。だから、俺を必要とした。違うか?」
名を返せと叫んでいたネフレン=カ。あえてアメンホテプ四世と名乗らず、ネフレン=カを名乗っていたことをふまえ、おぼろげながら真尋の想像力はその結論を導き出した。名とは、すなわちアイデンティティと言い換えられる。這い寄る混沌に取り込まれた時点で、かのファラオは自身の自身たりうる絶対的な自我を喪失した。だからこそ後の世で、自身をモデルとしたその名前を名乗ることしか出来なかったのではなかろうか。そして翻弄された彼の歴史の背後に、這い寄る混沌の魔の手が存在していたのだとすれば――――。
「わたしが、かの国の古の文明と近しかったことは、まあよく語られている話だが、そこは知っているね」
這い寄る混沌は真尋の質問に直接は答えずこう続けた。
「当時はまだ、人類の文明も出来てしばらく、赤ん坊のよちよち歩きだった。私にいわせれば今でさえまだ赤ん坊だが、それでもなおのことね。そして、人類という存在について、私もまた観察期間、学習期間だったということだ。だからまあ、色々とテストさせてもらった。大災害にあったときにどう人間は動くのか。欲を満たしたとき、人間はどうなるのか。まあ、おおむね予想通りの流れであったが――――その中で、彼は違った」
くつくつと楽しそうにほほ笑む這い寄る混沌に、真尋はやはりおぞけを感じる。何も言わずとも、隣のクー子が彼の掌を握った。やはり体温が高いのか熱いそれに一瞬驚いた声を上げる真尋。いまいちその理由を理解していない様子のクー子と、「続けていいかな?」と真尋の様子をうかがう這い寄る混沌だった。
「そう。彼は――――彼は抗うことを選んだんだ。外宇宙より飛来したこの私が何を目的としているのか。何をかの国で成していたのか。一体何が正体で、果たして私が何なのかを調べ、考え、探索し、ときに戦い。自ら私に向かって、『闇を照らせしもの』と名乗ったくらいだからね。よほど自負があったのだろう」
それはまるで旧来の友人について話すかの如く、這い寄る混沌はひどく楽しそうである。それがますます真尋に不快感を覚えさせる。ひょっとしたら、自分も一歩間違ったら同じ末路を辿ったかもしれないという事実が、ただただひたすらに冒涜的で、そしていまだSANチェッカーの回転が止まらないでいた。
「だがまぁ、事を性急に進めたのは彼の自己決定だよ。だがそうして、私に明確に抗った『最初の』探索者は、間違いなく彼といえる。嗚呼勿体ないと、彼のような存在が今後出てくるかわからない、貴重な事例だと。要するに気に入ったから保存した訳だね」
知っていたが最低だなコイツ、と真尋は唐突にクトゥグアをけしかけたくなったが、下手をするとこの場からまともに出られなくなる可能性があるため、それは自重した。
いけど行けど、洞窟は果てることはない。出口らしきものも全く見えず、しかし這い寄る混沌は涼し気に足を進めている。
「じゃあ、もっと聞くとだ。……アンタの化身っていうのは、どれくらいアンタから独立したものなんだ?」
「劉実から聞いていなかったかい?」
「それを全部そのまま信じるほど、俺は人間が出来ちゃいないさ。大体、あれの言ってることって、初動からしておかしいんだよ。そもそも化身をアンタが演じているっていうのなら、化身をデザインしただけで、当初の目的が変わるようなことはないだろ。変わるからには、何かしらの理由が――――」
「――――とはいえど、私が手を振れば、残らず全て一瞬でなくなる」
所詮はその程度の話だ、と這い寄る混沌は涼し気に話をさえぎった。真尋の脳裏に、何かがちらつく。この話を這い寄る混沌が中断したということを。これ突き詰めることが、何か、相手にとって良くない事実に突き当たるのではないかということを。
『――――』
「ねこ!」
唐突に、場違いな鳴き声が聞こえる。振り向けばその先には、一匹の細長い肢体の猫が一匹。発見し、クー子が楽し気な声を上げた。何故こんな場所に猫が。全く意味が分からないと驚いた表情の真尋の背を、這い寄る混沌は軽く押した。
「さ、後は彼の後ろをついていきたまえ。私はこれから、怖い怖ぁい
「は? なんでそんな、場所は移動してるだろうけど、時間は移動してないだろこれ――――」
「いや、移動はしている。そうだね……理由に気づいても、ここを出るまでは口には出さないことをすすめるよ。それじゃね」
ランタンを地面に置き、きらきら星の鼻歌を歌いながら、拳銃片手に這い寄る混沌は来た道を引き返す。数秒と経たずにその背中が見えなくなると、再び猫の鳴き声。早くしろとせかされているように感じ、真尋はその後に続いた。
*
「――――っ」
まぶしさに目をこすり、真尋は目を開けた。時間はわからないが昼間か、空が明るい。と、左腕にやや違和感を覚えて持ち上げると、手の甲にうっすら赤い痣のようなものが、熱を帯びて残っている。その正体に心当たりこそあるものの、真尋はそれについては一旦、考えを保留した。場所はどこかの病室か。体に固定具が巻かれている感覚がある。腕や足の骨は折れていないようだが、皮膚が変に引っ張られる感覚があるからして、もしかしたら皮膚移植とかで針を縫ったりしたのかもしれない。
気が付けばベッドの上。特に何か扉のようなものを開けた記憶も、かといって何か壁にぶつかったり、出口らしき光などを見つけた覚えもなく、気が付いたらはっと、この場で寝ている状態の真尋である。もはやそのあたりについては突っ込みをいちいち入れはしない。唯一気がかりなのは、最後の最後まで夢の中のSANチェッカーが回りっぱなしのまま、数字が確定していなかったことだが……。
ふと視線を横に動かすと、見覚えのある女性がいた。
「母さん?」
「――――――おはよう真尋? ずいぶん長いお寝坊だったじゃない」
楽し気に微笑む真尋の母。どんなに頑張ってももう少しでアラフォーに片足突っ込む年齢とは全く思えない程に若々しいキャリアウーマン然とした雰囲気。特に何もないような振る舞いではあるが、目の下に隈を浮かべ、少しだけ疲れたような微笑みを浮かべていた。
「旅行、もういいのかよ」
「何言ってるのアンタ、それどころじゃないでしょーが。実の息子放り出して仕事してる親なんているわけないでしょ? お父さんと一緒に飛んで帰ってきたわよ」
ちなみに17回目結婚記念の旅行ではあるが、実質、彼女の趣味と仕事の中間くらいである。大学にて民俗学の研究職、ちゃっかり教鞭もとっていたりする彼の母親である。普段フィールドワーク、実地調査などに時間を割けないこともあり、こうして理由をつけて休みをとっているときは夫婦でいちゃいちゃするのと同様に、仕事上の実益としての調査やらなにやらも敢行していたりした。だからこその真尋の確認であったが、当然のように親としての立場を主張する彼女である。どれくらい寝ていたか確認する彼に、母親は二日よ、と笑った。
「身体よりも脳の方にダメージがいっていたらしくてね。一週間で意識が戻らなかったら、かなりやばかったかもしれないらしいわ」
「マジか……。なんか、ごめん。世話駆けた」
「別にいいわよ、そんなの、お母さんだし。そして私なんかより、真っ先にお礼を言わなきゃならない娘がいるんじゃない?」
「ぬ?」
言われて、にやにやと笑う母親の視線を追い、反対側の方を見る。そこにはベッドに腕枕をし、横を向いてすやすやと寝息を立てる龍子の姿があった。制服姿であることからして、学校帰りか何かか。母親が何を邪推してるかを正確に見抜いた真尋はため息一つ。
「珠緒ちゃんと龍子ちゃんだっけ。二人して毎日お見舞いに来てね。珠緒ちゃん今日はお熱で来れないらしいけれど、本当、必死な顔してたわよぉ」
「……違うからな? 変な邪推はやめろっ」
「あら、そうなの? でもこの娘もだけど、きっとあんたに気があるわよ? どっちでもいいから、いっそ彼女にしちゃえば?」
「…………ないな」
脳裏に劉実の姿がよぎり、眼前の龍子の姿と比較し、真尋は断言した。劉実であるならタイプではあるが、龍子は別に真尋の好みという訳ではなかった。面影があるからと言ってその背を追うように考えては失礼であるというのもあるし、何よりそもそも彼女に関してはそこまで親しくないからだ。一方の暮井珠緒についても、そういうことを考えるような親しさではないという真尋の認識だった。
二人とも苦労しそうね、と母親は苦笑いを浮かべる。背伸びをしてから口を押え、大きなあくびを一つ。
「意識戻ったってナースコールしようかと思うけど、まあ、ゆっくりしてていいわよ。せっかくだから起こしちゃいなさい。積もる話もあるでしょうしね」
やはりというか、こういうニヤニヤと世話焼きのような態度のあたりは、見た目の若さはともかくとして、どこかおばちゃん臭さが漂う真尋の母であった。有言実行とばかりにスキップめいたステップで室内を出る彼女に半眼を送る真尋。扉が締められため息一つ。
「…………」
残された自分と、目の前で眠る彼女と――――。真尋は言葉なく頭をかく。今更どうしろと言うのか。そもそも真尋は、劉実の面影を見るのがいやで彼女と接触を図ってこなかった身である。だが結局彼女を助けたのは、その面影があったからだろう。例え元が何であったとしても、彼女たちは別人同士であるにもかかわらず。とらわれた先でも結局、真尋は彼女たちを混同して考えていた。それだけでもう合わせる顔がないとは言わないが、それでも彼からすれば顔を合わせずらい。
だが、もしそれでも――――。
「………………」
「ひぎゃ! ちょ、もっと優しく起こせないんですか真尋さんっ」
思い切りデコピンをかました真尋に非難の声を上げて起き上がる龍子。額を抑えてやや涙目の彼女に、真尋は半眼を送る。
「よく言うよ。アンタ、母さんが扉開ける前にはもう起きていただろ」
「ぎくっ。な、なんでわかったんですか……?」
「口でぎくっ、とか言うな、ぎくっ、とか。ちょっとだけ首が動いて目が開いたのは気づくぞ。こんな近いんだから」
「それは、私のミスでしたかね……」
にへへ、と困ったように笑う龍子を前に、真尋は言葉を選ぶ。何を話しても劉実と重ねてしまいそうになるからこそ、しかしそれでも、今だからこそ、改めて彼女と向かい合わなければならない。這い寄る混沌のセリフに感化されたわけではない。決して、ネフレン=カのあの慟哭に影響された訳ではない。そう強がりながら、真尋は言葉を選ぶ。
決して過去の選択肢がすべて正解であったことはあるまいが――――それでも今だけは最善を。
そう願いながら、真尋は苦笑いを浮かべ口を開いた。
本作のCVイメージ
八坂頼子:三石琴乃
※切りが悪かったのでエピローグは次回・・・ もうちっとだけ続くんじゃ