八坂真尋の眼前に広がる光景は、非常に非現実的な悪夢そのものであったが、しかし彼はそれを見ても決して発狂することはなかった。それは現在の彼の身体の状態に基づいた物理的な理由からであるが、あいにくと精神まで健全なままかというとそうもいかない。ただその上でも、彼が自己を律することができる理由があるとしたら、彼の隣にいる彼女の存在だろう。
それについては後に回すとして、まず光景についてみるべきか――――空一面が赤に染まり、月は目玉のようなそれ。巨大なそれが、あたかも下方にあるすべてのものを見まわしているように、時折ぎょろぎょろと蠢いている。彼自身、もし字面のみでそれを見たら陳腐と表現できるだろうが、黄ばんだ、血走った目がこちらを視線で射殺さんとばかりに追跡してくる光景というのは、あまりにも精神に悪い。どこにいても何をしていても見られているような――――雲間から見える月の目は文字通り巨大な怪物の目そのもののようにも思え――――とても落ち着けるはずもなく。
その空の下に広がる光景もまた常軌を逸していた。いや、広がると言っても非常に形容が難しい。まず一つ言えることは「地面が連続していない」。あたかもパズル細工であるかのごとく、あるいはどこを使用しても角となる消しゴムを組み合わせたかの如く、地面の構成が「ばらけている」個所がある。かと思えば一面暗黒に閉ざされた場所もあり、地面がそもそも「直角」になり本来の地面は永遠と続く虚空の果てに消えているような、そんな場所もある。それらの場所の入れ替わりを認識することも出来ず、状態が「突然変わる」というのが真実のところだ。それを指して、空間が不安定と形容するべきか、いまだ当然のように退官したことのなかった真尋の語彙には存在しない。
そして現在真尋がいる場所は――――ここだけ切り取ったように状態の変わっていない、温泉であった。
「ふぅ、良いお湯ですね。真尋さん、湯加減はどうですか?」
「…………」
「あ、口が沈んでますね。出しますからちょっと待っててください――――って、あ! 見てください、今、海原でちょっとクトゥルヒとイタクァがちら見えしましたよ! なかなかレアですねぇ」
「――――」
ぶくぶくと、口から出た空気が泡になる真尋を引き上げ「桶の中で」上向きにする彼女。現在の真尋の状態を考えれば前かがみの体勢になる彼女だが、その体勢は本来なら非常にまずい。真尋とて健全な男子高校生であるし、おまけに相手は「彼女」と来てる。うなじから肩にかけてのすっきりしたライン、見た目の年相応以上にはグラマラスな体、かと思えばそれは必要最低限であり他はむしろ華奢なくらい。ここ最近、真尋がよく知るところの龍子を大きくした相手の、そんな姿を前にして真尋は言葉が出なかった。
ただ、それに極端に劣情を抱けるような状況に真尋の体はなかったのだが――――。
「ふぅ。なかなか良い感じだと思いません?」
「…………さっぱり、わから、ん」
言葉さえまともに発音できない。というか、そもそも「息を吸うことさえしていない」上に「顔をほぼ動かせない」ので、発生する声はどこか引きつった、気味の悪いものに聞こえる。
そんな「ずいぶんと小さくなった」真尋をいとおし気に「彼女」は撫でていた。
彼女――――すなわち、二谷劉実。真尋には夢野霧子と名乗っていた、龍子の姉。
彼のために死んだはずの彼女は、なぜか現在、真尋と温泉につかっていた。
「しかし絶景ですね~、真尋さん。日本広しといえど、ここまでの絶景は中々お目にかかれはしないでしょう」
「普通は、そも、そも、こんな、光景が、有り得ないだ、ろ」
「その意見には賛同ですが、少しは盛り上げましょうよ~。せっかく二人で温泉に入ってるんですから。二人っきりで。二人っきりでっ」
「そこ、強調する、必要が、あるのかっ」
露天風呂ではなく、どこかのホテルの客室付のもののようである。どちらかと言えば、夫婦やカップルが水入らず、いちゃつくイメージがあると形容できるかもしれない。ただし窓の外に見える一体この惨状に陥った世界でどうして温泉を部屋に引き入れられるのか、電気とかどうなっているのか等様々な問題が横たわっているが、それを追求する余裕さえない真尋であった。
空や月は「異常である」ことも変わりないが、それ以上に眼前眼下、本来なら街並みが広がるだろう場所すべてが「砂」であった。状態としてさらに異常なのが、その砂の中、人の営みが有るような光の動きは観測できるが、それが実態を伴っていない。かと思えば数秒もすると、白黒合成映像のごとき人間のシルエットが過ったり、過らなかったり。そういった一連のそれを除けば天球を拝むことができる程度には物が存在せず、見ようによっては絶景と言えるかもしれない――――太陽の上らない赤い空と、異形の月にさえ目を瞑れば。
と、劉実は真尋を両手で「持ち上げ」、桶から自分の胸元に持って行って抱きしめる。
そして共に月を見上げ、どこか嬉しそうにほほ笑んだ。
「そりゃ、ありますよ。私の体感でも、真尋さんとこうして言葉を交わすのは十数年ぶりなんですから――――その姿になってからの真尋さんと」
「――――――――」
ありていに言えば、今の真尋は「人間の形をしていなかった」。
その姿の詳細を真尋は彼女から聞いていない――――聞けていない。直接聞くのを憚られるほどに、真尋は自分の体が人間からかけ離れた姿かたちをしている自覚があった。「人の両手で抱えられるサイズ」で「開かれめくられ」る。彼個人がネクロノミコンの力を引き出すことの出来たヨグ=ソトスの落とし子の一種でったことを踏まえても、おおよそ予測は建てられる。
ネクロノミコン――――アル・アジフと言い換えても良いが、その冒涜的な事実が列挙された魔術書ないし戯曲の形態は、言い伝えられる話により様々な形をとる。通常の書物である場合や、謎の生物の毛皮で編まれている場合。あるいは本自体が「人間の体をもって作られて」いる場合や、「自らの意志を持つ書物となっている場合」。真尋の場合は、そのうちのいくつかに該当する状態であろう。現在の真尋は、まさしくネクロノミコン「そのもの」と言って良かった。
劉実は心の底からの歓喜をともなった声を真尋にかける。そして同時に、その声音には幾分かの寂しさも含まれていた。
「まぁ、中身は私の知る真尋さんと、少し別な方のようですけどね。いずれはあちらにお帰りいただかないと、色々と問題が出そうです。
それでも、私にも少しだけ希望が出たと言いましょうか」
「希望って、何だ。大体、これは、どういう、ことだ」
龍子を送る道途中。瞬間的に気を失い、何やら忘れてしまった、思い出してはいけない類であろう夢の後に目覚めたらこの姿である。おまけに熱海に来て一人、空元気にテンションを上げていた劉実の手元でだ。ひとえに真尋が発狂しなかったのは、ゴールデンウィーク直近のドリームランドでの出来事があったからだろう。あそこまでの衝撃的事件は、さすがにそうそうお目にかかることはあるまい。少なくとも真尋が体感した数か月分の
その後、あれよあれよという間に真尋は劉実につれられ、こうしてどこから手配したのやら個室の温泉宿の中に入っている。本当にここが温泉宿なのかどうかは、道中の建物がどう見ても教会だったり、かと思えば駅のホームのような構造になっている箇所が有ったりというのを経由しているので定かではないのだが。
劉実は、真尋を持ち上げて、自分の額とくっつけた。
「んん? んー……、嗚呼、大体わかりました」
「それは、大体、わかって、ない、やつの、セリフだ」
「いえ、わかりましたよ? 私の正体というか、
つんつん、と表紙をつついてくる劉実。表情が動けば顔を顰めているところだろうが、生憎現状の肉体がそれを許さない。四肢の感覚もあるが存在せず、というよりもより正確には「固定されて動かない」ような感覚が残っており、それはそれはひどく気色が悪いものである。まるで怪奇映画に出てくるミイラにでもなったような気分の真尋であったが、まぁ実際も大差はないのだろうと考えていた。
大体わかったと言っただけあり、実際、彼女の言葉からして本当に大体把握したらしい。
「簡単に言うなら、真尋さんは精神交換されたんです」
「精神、交換って、」
「イース……という名称は実際正しくありませんが、イースとここではしておきましょうか。イースの彼らの技術力で開発された精神交換銃を用いて、真尋さんの精神は『こっちの真尋さんと』入れ替えられてしまったということです」
「こっちの、って、何だ、後、大いなる種族、ってことは、文明、保護機構、だったか」
「あらら、その名前よくご存じで。
んん、そうですね。ちょっと整理しましょうか。①文明保護機構について、②こっちの真尋さんとは何かについて、③この世界は一体何なのか。まぁ②を説明すると、大体③を説明したことにはなるんですが、それはそれとして。文明保護機構は、ご推察の通りイースたちの組織で――――」
クー子の口から少し聞いただけである真尋だが、劉実はそれをある程度補足する。
イースの大いなる種族。現存する地球文明よりもはるかに高度な文明を「過去に」築いた知的生命体たちであり、その本体はすでに精神生命体と化している存在である。むろん、それは精神が肉体をはい出て他の生命体に寄生するというプロセスを踏むわけではなく、彼ら自身の科学力により精神を既存の生物と交換し、自ららの文明を長生きさせてきている種族だと言われている。その高度に発展した文明から、彼らにとって時間もまた空間の流れと同様のそれであり、様々な時間軸における文明社会を学習し、吸収し、自分たちの文明を発展させる、あるいは乗っ取るということを繰り返す異星生命だ。本来ならば時空間をさまようことにより、とある「猟犬」に目を付けられるところであるが、彼らはその独自の技術力によるものか、完璧にごまかし精神の時間移動を現実のものにしていた――――。
「――――端的に言ってしまうと、イースの時空警察です」
「時空警察とか、一般的な、用語と、思うなっ」
「いえいえ、まさしく時空警察です。彼らは時間軸に干渉し、時に文明を滅ぼし、時に文明を長生きさせます。それは惑星規模、宇宙規模でどうこうというのを考えて行動する組織なので、ある意味、時空という概念に対する『這い寄る混沌』のスタンスと大きく異なりますね。彼らはバランサーを自称するだけの経験値を、すでに『未来で』獲得し、文明的にある一定基準を超過するほどの成熟をみました」
「成熟……」
「どれくらい成熟したのかといえば、一般人が遭遇したところで、むやみにSAN値を削ることがないくらいにはですかね~。相手の文明レベルに、自分たちの存在を合わせられるわけですから」
尋常でないレベルでの文明成熟具合だった。
「では、こっちの真尋さんが何かという話についてですが、言葉通りの意味です。『この世界の』真尋さん、ということですね」
「この、世界? をのれ、ディケイド」
「えっ」
「いや、なんでも、ない。続けて、くれ」
「んー、実際のところの概念の説明が難しいので説明してしまいますと、私は真尋さんのいる世界とは別世界の二谷劉実です。歴史が一部書き換わった結果、別な時空が発生した――――パラレルワールド的なご理解でよろしいかと。そしてどうにも、そちらの方が『本線』であるようですね」
「本線?」
「油絵具を想像していただけますか? あれって、基本的に顔料を上塗りしていくじゃないですか。それと同じような理屈で、時間、歴史の書き換わりというのも上塗りで変わっていくんです。下塗りになった歴史が消滅するわけではないので、その場合において『一番上に塗り固められた』それを、便宜上、本線と呼んでいます。真尋さんは、その本線の真尋さんということです」
「いや、おかしい、だろ、時間、干渉じゃ、ないのか、イース……」
単純な時間干渉の域を超えている、という真尋の指摘である。
「まぁ……、あんまり考えたくはありませんが、本線の『這い寄る混沌』か何かが手を加えたと考えるのが妥当じゃないでしょうか? ほら、下手に真尋さんの体を奪われると、大変なことになるかもしれませんし」
「だからって、何で、こんな、……」
「その、私は役得ですから、そこは喜んで下さい」
「結局、アンタの、都合じゃないかっ」
そもそも真尋に降りかかる暗黒神話的事象の九分九厘がニャルラトホテプの手によるものであるので、今更といえば今更でもあった。
ともあれ彼女の言葉が正しければ、真尋がいるのはパラレルワールドであるらしい。……明らかに真尋の知る世界のそれではない現状であるので、自分の元居た普通の世界がちゃんと存在しているというのは一つの救いであったが、この世界が存在しているというのもそれはそれで一種の恐怖であった。
劉実は真尋を再び抱きかかえ、その頭を撫でた(現在の真尋の触覚でいう、頭に該当するあたりという意味になる)。
「なので、真尋さんが意識を取り戻せたというのは、ちょっとした奇跡であり福音なんです。アレルヤ! って感じですかね」
「どこが、福音、なんだ?」
「だって、『今の』真尋さんがちゃんとしゃべることができてるってことは――――こっちの真尋さんにも、意識はあったってことですから。たとえ貴方が元の体に戻っても、私には希望が残ります」
「…………」
「この先、何千年、何万年かかるかわかりませんが、ちょっとした何かの拍子に、私の真尋さんも、いつか、いつか自我を取り戻すかもしれない――――そういう希望があれば、私はまだまだやっていけます」
「……ファンタジーだよ、それ、は」
「ですけど、願い、信じる者がいれば、ファンタジーは時に現実に近づきます。って、その資格は本来、私にはないのですけどね」
「そう、かい」
真尋はそのことについて、多くは聞かなかった。彼女がそれほど自身を想っていたことと――――たとえ妙な形で再会できたのだとしても、彼の初恋の彼女は、彼の世界の彼女はもう居ないのだという事実は変わらないと。それを改めて認識したからだ。
だが、だからといって彼がそれを憎んだり恨んだりという感情はない。ただただ、真尋は彼女の幸福を願った。現状の有様であってもなお、自分と一緒にいることを求める彼女に。
それ故に、彼は彼女最後の一言を―――その資格が本来はないという一言を聞き逃したのだが。
「じゃあ、三つ目は」
「この世界が何か、ということですね。んー……、簡単に言うと、コールドゲームってやつです」
劉実は事実を真尋に、それこそ何でもないように語った。
「クトゥルフを皮切りに、ほぼすべての邪神たちが復活し、領域をとり支配し従属させ蹂躙し自在に闊歩するようになった時代――――終わりのないラグナロクってところですかね」
「――――――――」
何だその地獄絵図は、と。
あまりの衝撃に、そんな言葉すら真尋は吐き出すことができなかった。
本作のCVイメージ
二谷劉実:浅野真澄