龍子を前に、余市健彦――――否、彼と精神交換しているだろう何者かは、真尋より這い出た文字のような何かを手に取り、手元の瓶の中に詰め仕込んだ。ふたを閉めると、茫然とする龍子へととびかかり、突き飛ばして逃走する。
いきなりで状況を理解できないまでも、龍子は深呼吸しながら眼前の状況を整理していった。
「余市さんの、嗅ぎつけられたかという発言。真尋さんから出ていた、魔法っぽい何か、そして病院のこの状況……、んん、何だかよくわかりませんけど、普通におかしいってことだけは分かります。っていうか、どうしたら…………?」
壁に激突し、痛めた背中をさすりながら立ち上がる龍子。と、ふと自分の手元に違和感を感じる。後ろにまくれた白衣のポケットに、何か物が入っていることを察した。もとは辰隆、己の父と言えなくもない相手が着用していた白衣であるからして、ここで何か物が入っているということは、それが単なる忘れ物などである可能性は低い。
急いですぐさまそれを取り出した龍子は――――。
※ ※ ※
「さて、場所も座標もこんなところでいいですかね」
伸びをした劉実は、真尋をともなって足を進める。気が付けばいつのまに、二人はとある建物の屋上に着陸していた。それは一言でいえば何かしらのシェルターのようでもあり、しかし同時に現代文明に感じられる機能性を排除した装飾過多の謎の建築物だった。かろうじてエジプトのアンクなのか十字架なのかわからない名状しがたい文様が所狭しとあしらわれていることはわかるが、一体なにのための呪いなのだろうか――――否、真尋の想像力はその正解を引き当てていた。これらは間違いなく邪神の類から身を守るために、地上の古き神々の加護を得ようと人間がもがいた結果の有様である。そしてそれが功を奏したかどうかは、この無人施設の有様を見れば日の目を見るよりも明らかか。そこかしこ、部屋があり、その奥からこの世のものとも思えない、人間のうめき声のような、あるいは何かの囀る声のような、形容の難しい声が響く。それらの声から真尋は何かしらの人間性と、同時に悲しいという感情を感じ。また理性が溶ける嘆きと、暴力衝動に突き動かされるような、そんな感情の色を感じ取った。と、突然劉実の後方の扉に、ばん、と勢いよく何かがぶつかったような音が響いた。しかし背後の扉がひしゃげた様子もなく、何かが這い出てくる様子もない。真尋はそれらの状況を「目に頼ることなく」、音と雰囲気からすべて正しく理解し情報収集していた。
己の現状がどんどん、さらに今の肉体に最適化されていっている――――その事実が、真尋の正気を今更おかすことはなかったが、しかし恐ろしい事実であることに違いはなかった。
ただ、それはそれとして。劉実の一言に、真尋は違和感を感じ取っていた。
「何が、こんなところ、だ」
「まぁその、乙女には色々準備が必要ということで。野暮ですよ、真尋さん」
何が乙女だと言ってやりたいところであるが、実際そんな相手に惚れ込んで現状まで至っている身分であり、真尋はうまく返答できないでいた。割と珍しい状況である。そしてそんな彼の心中を察しているのだろう、くすくすと劉実は楽し気に笑った。
劉実は真尋を胸元から出して、手元に抱える。そして前方を見せながら、少し軽やかな足取りで前進していた。もっとも屋上から入った直後の場所は既にどこまでも長く続く真っ黒な廊下であったり、とにもかくにも名状しがたいところである。さらにある程度進んだ時点で、劉実は右方向の扉を一つ開けた。中には下り階段があり、そして劉実はそれに足を踏み入れる。と、数歩歩いているうちに、いつの間にか二人は階段を「上っていた」。既に上下感覚もおかしなことになり、実際には持ち運ばれているだけの真尋でさえ現在の視界や自分の体感が正気の世界であるかどうか、疑問を抱くことになっていく。劉実は当然といえば当然のように不思議にも思っていない様子のまま、真尋を撫でつけていた。
「大丈夫、大丈夫。少なくとも今の真尋さんが壊れることはありませんから」
「今の、ってことは、どういう、ことだ?」
「それはもちろん、あっちに戻ったらということですよ」
やがて上り階段の途中、窓枠を一つ開ける劉実。その向こう側からは「鉄の棒が」垂らされており、劉実は真尋を「投げ入れる」と、彼女自身も鉄の棒を掴んで「降りて行った」。一見すると真尋たちの側が下方であるようにみえていたのだが、実際は逆に窓の向こう側に行けば行くほど地面という扱いらしい。地面に背後(もし真尋が人間の姿であったならばという感覚的な意味で)から落下し、ぱらぱらと表紙がめくれる。劉実は音もなく、するすると棒を伝って降り、真尋を踏まないように着地。よいしょ、と彼を閉じて持ち上げ、軽く背表紙を叩いた。
「何をする、つもりだ、アンタ、」
「真尋さんも想像がついているんじゃありませんか? 現状のまま進めば、『本線』において地球の滅亡は免れない。現状までが表面上、既定路線で進んでいる以上、手を打たなければすべて終わる。だとするなら、私がやることは一つです」
「――――既定路線を変えるため、事象をある程度把握した俺を『送り返す』ってことか」
「ええ。真尋さんと私との邂逅も、そういう意味では
つまるところ、這い寄る混沌としては「本線」の歴史を滅ぼすつもりはなく、だからこそ表面上はイースの反乱分子たちに気づかれないよう、既定路線をそっているように見せかけていた、ということか。真尋がこちらに送られ、劉実と邂逅し、元の世界に戻る。そして、それが出来ることで解決できるというのならば、おのずと真尋は対策を察し始めていた。
「……クー子か」
「クトゥグアの化身の子ですね。ええ、彼女を使えば、ポリプが最悪召喚されてもどうにかこうにかできるかと思います。ただ、全く何も考えず放置していてどうこうなる問題ではないので、そこは真尋さんに探索していただく必要があるかと思いますけどね」
「SANチェッカーもなし、にか?」
「いえ、持っていると思いますよ? おそらく、あっちで協力を求めている第三者あたりが。なのでクトゥグアを使う際に、借りるなりするのがベストかと」
そして、真尋はやはり彼女の言動から。今までの行動を踏まえて、一つの結論を導き出していた。それはかつて劉実、霧子を名乗っていた彼女の言動を否定するものであり。そしてそれが否定されることで、真尋自身も大きく精神に損壊を負う可能性がある事象である。
「なぁ、アンタ」
「真尋さん、そろそろ時間なので、あまり会話する時間はありませんので、手短にお願いします」
「…………アンタ、本当は、独立してるんじゃ、ないか、独立した、一人格、なんじゃないのか、」
えっ、と。予想外のことを言われたと言わんばかりの表情の劉実に、真尋は畳みかける。
「かつて俺に、アンタ、は言った。自分たち化身、はあくまで、這い寄る混沌、が演技した人格でしかないと。そ、の本性は、どこまで、いっても這い寄、る、混沌でしかないと。だけど、そう、だとするとおかしな点が前、か、らいくつかあったん、だ。ネフレン=カ一つと、っても、化身同士で争、いあうなんてこ、と自体がおかしい。、もし演技でしかない、というのなら、そ、れ、は全部マッチポンプ、のはずだ、」
「……だったら、マッチポンプなんじゃないですか? どれもこれも、這い寄る混沌と」
「だったら、今の、アンタは何だ、……なんで俺の世、界の、アンタはずっと死ん、だままなんだ、」
劉実は真尋を守るために生み出された化身だと名乗っていた。そしてそれは、クトゥルフ復活を阻止した時点で役目を終えたと。であるならば、逆にクトゥルフが復活したこの世界において、役割を果たし終えた化身がいつまでも残っているのがおかしいと言えばおかしい。もしこの世界で彼女が生み出された目的が違ったとしても、同種の疑問は残る。つまるところ彼女の役目はすでに終了していてしかるべきであり、いまだこの世界に残っているということが、必然性から排除された、美しい盤面に置かれた一つのしみ、美文の中の誤謬だ。這い寄る混沌は、そういった面倒なことはしない。
真尋と劉実が未だこうして旅をしていることに、何かしらの意味があると考えることもできる。だが必然性がない。歴史が違う以上、この劉実やこの世界の這い寄る混沌は「本線」での事象を、本来は観測できないはずだ。だからこそ、わざわざ何かしら手続きを踏んで向こうの情報を捜索したのだということだろう。とすると、やはり劉実の化身としての役割が不可解となる。
そこで一つ、真尋が抱いた可能性こそが―――――。
「――――あっちのア、ンタは、逆らったんじゃないの、か? だから、化、身としての存在を剥奪、された。そしてそれをすべ、てマッチポンプ、で操っているのなら、すべて、自分自身の演技でしかない、なら、わざわざアン、タの妹を俺のそばに置いて、おく、必要がない。そのまま、ア、ンタを置い、ておいた方が、まだいく、らか俺への心証も、良いはず、だ、」
「………………」
「こう言い換え、ても良い。つまり、逆らうなり何なりして、罰を受けたから、アンタは、あ、っちの世界でその存在が消、されてしまった。ペナルティを、課されたからこそ、消えたのだと」
「…………別な私ではありますけど、私の言ったことを信じないんですか?」
「生憎、俺は何も信じないよ――――大体考えてみろよ、二日三日し、か一緒にいなかった相手の言葉、だぞ? どれくらい、俺の人生に与えた影響が、大きかったとしても、その言、葉のすべてに信頼を置、けるわけなんてない。そん、なことが出来るな、んて、俺は、俺自身を信じ、ちゃいない、」
真尋の言葉は、それまでに積んできた経験に基づいた疑いの言葉であり、当然の帰結であり、そして諦観の結果でもあった。彼自身が彼自身の運命を選んで抗ってきたと、とてもそう言えるわけはないという心のダメージから来た結論であった。そしてそれが、そう大きく的を外していないだろうという確信に満ちた発言でもあった。
劉実は少しの間目を閉じ、その場で座り込み。再び開けた目は――――闇色に染まったそれだった。
「――――いけないぞ? 真尋。女の子の秘密というのは、もっとベールを剥がすようにしてやらなければ」
涼し気な男の声。声音に絶対的な立場から発される自信と、わずかに含まれた嘲笑。覚えのある、覚えしかないその声に、真尋は内心でうめき声を上げた。
這い寄る混沌が、彼女の体を介して真尋の前に現れ出でたのだ。
しかし、それこそが真尋の指摘の妥当性を証明するものであると、彼は確信した。
「ここでアンタが、出てくるってことは、つまり、そのまま会話をさ、せるとまずいってことだよな」
「企業秘密、と言っておきたいが、まぁ安心するといい。私は『本線の』私で、この世界の私じゃない。だからこそ幾分、君には甘い判定をする」
「判定とか言うな、判定とか。TRPGじゃないんだぞTRPGじゃ。と、いうか、なんでアン、タがわざわざここに出てき、たんだ。アンタ、そういうこと出、来ないんじゃなかったのか?」
「どちらかと言えば、私は『真尋に引っ張られて』ここに出てきた、が正解だ」
「意味が、わからん、」
「それは、当然さ。意味がわかるように話していない。だがいずれ、君自身の手で答えを見つけられる程度には、私も調整しているからね」
「というか、こっちの世界のアンタは、俺に対して、どういう扱い、なんだ……」
「君の今の惨状を見れば、察するところはあるんじゃないかな?」
「――――ってことは、やっぱり、逆らったんだな」
這い寄る混沌は薄く微笑んだまま、肯定も否定もしなかった。それが如実に、真尋の胸を締め付ける。
彼女の嘘が、すべからく真尋の精神を守るためのものだということを理解させられてしまったからだ。もしその嘘がなければ――――つまり真尋は。真尋を守るために自らの存在すら消した彼女を、その自らの手で葬らざるをえなかった。そうなるよう仕向けられ、殺してしまった。事実を直視させられれば、あの状況下において真尋の精神は文字通り消し飛んでいたことだろう。それだけ、愛した彼女を自らの手にかけるよう誘導されたという事実は、真尋にとって大きな疵になりかねない。
そして、同時に一つの疑念も浮かぶ。
「独立した人格であるなら、それがただ単純に、何も代償さえなくアンタに逆、らうことなんて出来るわけがない。代償を支払ったと、ころで、逆らうことができるか、さえわからない。つまり、たとえ自分の化身、分身であろうと、人格的に、独立した相手を、アンタは弄ぶはずだ、アンタに、とって、だとするなら……、アンタ、何を取引したんだ」
真尋のその指摘に彼女は目を閉じ。次に開いた時点では、先ほどまで感じた「良くない」プレッシャーは、いずこかへと消えていた。浮かぶ感情は、どこか寂し気なそれだけ。
「企業秘密です♪」
「おい、」
「まぁ、私は真尋さんの知る私当人ではないので、何があったかまではおぼろげにしか把握できていませんが、一体何を言ったかは、予想できますかね」
「独立した人格だっていうのは、否定、しないん、だな、」
「企業秘密……、ですが、まぁ、真尋さんは確信していらっしゃるみたいですし。今更といえば今更ですかね」
だったら、と。真尋はやはり、言葉を続ける。
「だったら、なんでアンタの妹は、俺のそばにいるんだ。それに、この世界でのアンタの妹は――――」
真尋のその言葉に、劉実はウィンクをしながら――――ある重大な事実を告げた。
その一言に、真尋はたとえ人間の体でないといえど、目を大きく見開き、驚愕のあまり言葉と思考を一瞬失った。
「まぁ、これくらいの意趣返しは許されますかね。
では、もうお別れです」
「――――――――、」
「最後に握手を、とか出来たら良かったんですけど、そうも言える状況じゃありませんしね。なので、気をしっかり持ってください? ――――いただきます」
そして何一つ考えも、思いもまとまらない、そんな真尋へ。劉実は彼の目を閉じさせ、その唇を奪った。
※ ※ ※
次の瞬間、真尋は自分の五体の自由を取り戻していた。だからこそ両目を開け、再びその思考が消し飛んだ。直前の状況からすれば有り得なくもない状況だろう。しかし彼にはそれを予想するだけの時間も、心の余裕さえもありはしなかったのだ。
早い話、二谷龍子が真尋の唇を奪っていたのだ。
SANチェックする必要はないものの、彼が精神に受けたその衝撃は計り知れない。二谷劉実への想いだの、龍子本人への引け目だの、直前までの会話だの、現在の状況がどうこうであるのだとか、そういった一通り一辺倒考えられること、彼自身が考えるまでもなく連想できること、すべてが彼の思考を中心に回転し、目まぐるしく移り変わり、混乱と同時にその身と思考を縛った。硬直、身動き一つできず、龍子のキスを受けていた。最初のそれは劉実、もっと言えば這い寄る混沌に奪われていたそれであるが、しかし状況が状況であったこともあり、真尋としてノーカウントに置いていたところもある。だが、それに近い状況であっても、現状のこれをノーカウントだの何だのと置いておけるようなことはなかった。
そして、龍子の目がおそるおそるといった風に開かれる。
目と目が合う瞬間―――――。
「――――ぎゃんっ、ちょ、真尋さん!?」
思わず、真尋は龍子を突き飛ばし。その身を起こし、頭を抱えた。
一つの仮説と一つの結論。そして――――