真尋が我に返った瞬間真っ先に行ったことは、上着のポケットからSANチェッカーを取り出してすぐさま左腕に装着することだった。そしてそこまでほぼ咄嗟に行ったせいか、回転するSANチェッカーとともに正気を取り戻した。いや、本当に取り戻せたかはわからない。なにせ、真尋の声は出なくなっていたからだ。まるで喉の筋肉だけ金縛りにでもあったかのような、そんな不気味な感覚である。ともあれ彼は周囲の状況を確認する。体全体が寒い。室内が寒いということであろうか。上着らしきものが地面に転がされているのが、まるで誂えられたかのようで不気味な印象を与える。腕、足ともに拘束されていなかったことから、状況としては軟禁されているに等しいのだろう。扉には潜水艇にでもついているような大型のハンドルがされており、室内の雰囲気や、妙に生臭い空気も含め、まるでここが潜水艇か何かのようでもある。咳ばらいをしたところで吸い込んだ空気は汚れているのか、むせる真尋。ともあれ落ち着くために外の空気を吸おうと、ハンドルを回して外に出た。
潜水艇という推測は間違っていたが、どうやら大きく外れているという訳でもないらしい。廊下らしきところに出た真尋。空を見上げれば赤い月であり、いまだに彼が何らかの結界にとらわれているだろうことを示している。周囲に音がないせいかみょうに脈拍だけが彼の耳を打つ。呼吸を乱しながらも、彼は廊下を一歩一歩進む。やがてドーム状の何かに覆われたデッキに出た段階で、おおむね彼は自分の所在地の推測が立てられた。クルーザーとまではいかないが、大型船に違いはないらしい。問題は、外に見える光景が一面海原であることである。いまだに海上を進むこの船が、何を目指しているのかが真尋にはわからない。
「――――きが、つ
びくり、と。独特の、皮膜がこすれる様な音をまといながら、妙な訛りのある声に真尋は体が硬直する。だが眼前に迫る恐怖と相対するべきか、そうでないか。なぜか脳裏に一瞬、笑顔の霧子(仮)の姿を幻視して、気合を入れ、しかし恐る恐る背後を振り返る。
果たしてそこにいた者は真尋の想像通りのそれだった。シルクハットこそしていないものの、トレンチコート姿には見覚えがある。てらてらとした皮膚、たるみ脂肪とえらのある首。ぎざぎざとした肉食らしい前歯と、澄んだ色をした両目。果たしてそこに居た者は、半魚人としか言いようのないそれである。SANチェッカーの回転が止まると、脳裏には80の数値。なかなかどうして、気絶直前は大量に消し飛ばされたと見える。そして片方の手には、真っ赤に染まったビニール袋。メロンかスイカか、それくらいのサイズの球状の何かが入っているのがわかるが、真尋はそちらから全力で意識を逸らす。
喉を鳴らせば、どうやら声は出そうであった。
「こぉとぅを、きておけ。じき、なぁんきょくだ」
「……あ、コート? というよりも南極って」
いや、そういえばと。この魚人を前に、真尋は思い至る。南緯47度9分、西経126度43分。通称で太平洋到達不能極。その場所には、いわゆる彼らが崇め奉るところの「神」たる存在が眠りうごめいているはずだ。
「なるほど。で、おたくらオレに何の用だよ」
「はなすひつぉうは、な
「話す必要はないと言われたってな……」
生贄とか言われていたかと、真尋は頬が引きつる。状況からみて邪神、おそらくはクトゥルフ神話で最も有名だろう邪神クトゥルフに対して、なんらかのアクションを起こすための儀式のいけにえとして使われるのだろうと予想は出来るが、しかして問題はそこにない。
「ぁいっておくが、にげよう、とぅぁ、かんがえるな」
そう言うと、魚人はビニール袋を放り投げる。真尋の足元にごろごろとそれが転がる。明らかに血が流れ出ているそこから全力で目を逸らしていた真尋だったが、しかしその口から、はらりと零れた髪の毛には見覚えがあった。………………見覚えしかなかった。
からからと音を立ててSANチェッカーが回転する。いや、この最悪の想像を確かめる必要はない。何かの見間違えの可能性だってある。目の前の魚人は何かを言うこともない。ただ思わず膝をついた真尋を見下ろすばかりで、彼が何をしようともそれを止めるつもりはないと見える。だが、真尋の想像力はその対応から真実のにおいを如実に感じ取っていた。見下ろすばかりで何もしないということは、それはつまり「何を確認されたところでどうでもよい」という事実に等しい。SANチェッカーが破損していないにも関わらず、がたがたと真尋の両手が震える。そして、袋を手に取った瞬間。ぬめりとした血の感触と共に、袋の口がずり落ち、その中のものの、右上のみを露出させた。驚愕に見開かれたような目。それでいて瞳孔の開ききった目。付着した血液で赤く黒く染まった前髪と、あきらかに抉られたような鼻の頭。骨が折れているのか、全部が見えないまでもその顔面がややひしゃげているということは想像だに難くない。真尋からすれば必要十分以上の情報量だ。美しい顔は見るも無残な有様なのだろう。そして袋の中でぷらぷらと揺れているシルエットは、コの字を描いたそれと、そこからいくつか抜け落ちた白いピースの破片に違いあるまい。
震えながらも、真尋は袋の中に手を入れ、その目を閉じた。指先の感覚がない。まるでミイラの中にでも入って、それを遠隔で操っているかのような錯覚を覚える。やがて震えは全身に伝播し、袋を置いた時点で真尋の両腕は大きくぶれていた。
「アンタ、なんで、そんな――――、なんでだよ!」
真尋の叫びに、魚人は肩をすくめる。
「ぁいちぞぅに、とぁりこまれるのを、きょぁひしとぅあ。かぁだも、やっかぁいだった。だから、ねじぁきった」
霧子(仮)が、彼ら「深き者ども」の血族に取り込まれるのを拒否したから? その肉体がなんらかの改造手術を受けていたから? 処分に困ったとでもいうのか。だから首をねじ切って殺したというのか。明らかのそれだけで説明がつかないだろう、このズタズタにされた人体の一部は何だ。SANチェッカーの回転が止まる。72。なんとも示し合わせたかのように、中途半端に不吉な数値である。
嗚呼、真尋は両手を握り震わせる。この、気絶できないことのなんともだえ苦しむほどの悲しみと怒りよ。なまじSANチェッカーにより狂気へと走るのを妨害されてしまっているせいか。だが彼には分っている。己が所詮は無力な只人でしかないことを。何をどうしたところで眼前の怪物相手に太刀打ちできないだろうことを。
それでも怒りをもって拳を振り上げた瞬間、怪物は真尋の顔面にスプレーを吹きかけた。
* * *
次に真尋が気が付いたのは、壁一面に何らかの模様、陣が描かれた箱の中に寝かされていた時だった。げほげほとむせるが、そんな彼にはお構いなしに周囲からは声が聞こえる。
――――ァイア・ァイア・ク
――――ァイア・ァイア・ク
複数の声に繰り返されるそれは、一体何を目的としたものなのだろう。いや、その声からして実際のところはおおむね真尋にも予想が立っている。おそらく自分の周囲には複数の魚人がいることだろう。声の方向からして四方を囲まれているのか。少なくとも一匹だけしかいないということは決してあるまい。それだけの膨大な数のディープワンがいて、しかも自分がこうして身動きを全くとれない状況にあるということは、必然これは儀式がすでに始まっているからということに違いあるまい。なんらかの声や呪文の詠唱めいたものが飛び交うのが、真尋の耳に嫌にこびりつく。言葉の指示している意味がわからないまでも、段々と儀式の熱が、場の緊張状態が上昇していることが、音からでも十分に判断できたからだ。
この時点において真尋は完全に詰みだった。まず箱から逃げられないし、そもそも両腕が縄か何かで縛られている。口もさるぐつわがされており、動くことが出来ない。仮に箱から脱出したところでその場には数十はいるだろう半魚人。どうあがいても人間が勝てる要素がない。
こうなってくると逆にやることもなく、一周回って冷静になった真尋である。殺されてしまった霧子(仮)のことが脳裏をよぎるが、しかし、だからこそどうにかして生き延びねばと、そういう思いも湧き上がってきた。どうしようもないなら、今自分にできることは何か。考えることだ。豊富な想像力をもってして、奴らが何をやろうとしているかを想像するべきだ――――。
そんなタイミングで真尋を拘束していた箱の蓋が外され、数人の魚人が中から真尋を担ぎ上げる。
やがて転がされたのは、船のデッキの上である。なんらかの魔法陣めいた文様がデッキに描かれており、その中心、つまり真尋のすぐ横には、魚人ではない一人の男が立っていた。
「はかせ、さぁ、ぁぎぃしきぁを」
「――――――ッ」
真尋は確信した。これこそが自分が拐された原因であると。
「“秩序あるところ、漆黒の混沌ありき。古来よりヒトはそれを恐れた”――――」
眼前に立っていた男は、黒い闇だった。黒いコート、白い神父服。髪は長く目元が隠れているがぎらぎらと光っているその眼光を隠しきれるものではない。
「――――“しかし探索者たちの語る狂気の物語から、ヒトはそこに仮初の希望を見出したのだ……”」
眼前、この状況。男の正体に真尋は心当たりがあった。だが彼がその名前を口走るよりも先に、男が深々と真尋に頭を下げた。
「やあ、八坂真尋くん。私は――――
無涯。むがい。Mがい。ン=ガイか? どちらにせよその正体を想起させるには十分すぎる情報量である。にこりと口は笑っているが目は完全に据わったまま。明らかに正気の人間ではなく、そしておそらく人間でさえないだろう相手。ただ周囲をちらりと見れば、魚人共はこれの正体を知っているだろう風の素振りではない。彼の原典たる小説群よろしく、おそらくかなり巧妙な手段で取り入ったのだろう。少なからず正体を察せられない程度には。そしてそれができるだけの存在であることも、真尋は知っている。嗚呼、知らないはずはない。
すなわち、これこそが――――這い寄る混沌。異邦の神々の代弁者、世をつかさどる夢の播神。すべてを嘲笑う滅びを遊ぶ闇。千変万化の邪神であると。
「状況は飲み込めているかな? 嗚呼、首だけで表現してくれて結構。さすがに私もさるぐつわを外すつもりはないからね。自死されても困る」
「――――っ?」
「うん。まぁ彼らに説明を期待は初めからしていなかったからね。では、良いかな? 知るということは、すなわち『そちら側に出向く』ということだ。これから私が語る論理が、すなわちそれを君が聞くことが、聞いて自覚することが、この魔術の根幹を成す。たとえ我々矮小なヒトガタがどれだけ足掻いたところで、そこには限界以外は何もあるまい。だからこそ我々は外なる宇宙の英知を頼り、我々の閉塞を打ち破らんともがき続けるのだ」
彼の言葉に、魚人共がオーディエンスかのごとく色めき立つ。
「えー、話を続けましょう。時に八坂真尋くん。貴方、ヨグ=ソトスなる神性をご存知か? ご存知でない? いえいえ、どちらにせよ一度おさらいしておきましょう。かの神はありとあらゆる場所への門! ありとあらゆる場所へとつながっている肉を持つ、強大なるもの! その形は空間的な横軸のみならず時間的な縦軸にもかかずらっている。彼は多くの子を外に産ませ、自らの扉としての範囲をいまだに拡張し続けている。それはおそらく、この宇宙の外の、さらなる別宇宙においてさえも!」
そのあたり、言われずとも真尋とて承知している。
「そう! そしてこの結界。この結界が有用なのか、知っていますか? ――――これは、その神にかかわる魔術。時空間を人為的にずらす魔術だからです。だからこそこの世界に一般人が紛れ込んだところで、人間は認識することさえできない。せいぜいなんら日常と変わらない毎日を送るばかりでしょう。なんらかのアーティファクト抜きに、ここにおいて己の正気のまま活動することは不可能だ」
突然の新情報に、真尋は頭をかしげる。神話関係の遺物を持つなり、あるいは魔術師だったり神話生物だったりでなければ、結界の中で活動できないということか? いや、だとすれば何かがおかしい。くしくもその理由を、男は続けた。
「ところが。彼らディープワンたちの集めた情報によれば。君はそも最初の段階、つまり『彼らと敵対する夜鬼が』『彼らに儀式をさせないために攫おうとしていた』時点で、正確に情報を認識していた」
そうだ。そもそも霧子(仮)に最初に助けられた時点では、真尋はなんらそういった話に関わってはいなかったはずだ。にもかかわらず動けたということは。ある種、最悪に近い想像が真尋の中に浮かぶ。いや、それ以前にだ。あのナイトゴーントたちは、ディープワンズに儀式を行わせないため、真尋を攫おうとしていた? とすれば霧子は敵対する相手を間違えていたということか。
だとすれば、あの場において食屍鬼やら夜鬼やらが一瞬足を止めたのも、まるで真尋と霧子(仮)をかばうように前に出ていたのもある程度納得がいってしまう。だが、そもそもなぜ真尋にこだわらなければいけないのだ? そう考えれば考えるほど、ひどく最悪な想像が脳裏をよぎった。
「――――そう! つまり。そもそも君はただの人間ではないということだ。それも、我々の調査が正しければ、恐ろしくそれこそ人間と形容するもおぞましいだけの存在であるということを」
いや、それはないと。少なくとも真尋の過去の記憶において、そういったことに関係するだろう事態には遭遇したこともない。生まれてこの方、ラブラブな両親のもとで育てられてきて。とくに大事故を起こすこともなく、誘拐されることもなく、平々凡々と言えばありきたりではあるが、それでも大した事件もなく今日まで過ごしてきているのだ。それが何をもってしてクトゥルフ神話に関係しているというのだろうか。
いや、真尋には嫌な予感がしている。そもそも最初にヨグ=ソトスの名前を挙げた時点で。そして無涯は、真尋にとって決定的な言葉を語った。
「ここまで言えばもうおわかりかな? ――――八坂真尋。君は、ヨグ=ソトスの落とし子だ。
突きつけられた事実は、真尋にとって最悪に近いものであった。
本作での声のイメージ
無涯博士:野島裕史