ニャルラトホテプ。ナイアルラトホテップ、ナイアーラトテップなど呼び名は様々だが、総じて意味合いは「這い寄る混沌」を示す。ヘラジカのような神性を庇護しただの妻にしただの色々と言われてはいるが、その実態についてはおおむね謎に包まれている。人類の文明に出れば魔術や科学に秀でた存在として。あるいは世にも奇怪なこの世のすべてを嘲笑う圧倒的な怪物として。ともあれその神は、非常に性質が悪い存在であるとされる。趣味趣向は言うに及ばず、多くの運命をもてあそび、世界を混沌と破滅の渦に叩き込まんとふるまうことも多い。たいてい背後に回り裏から糸を引き、邪悪な企みを成就させんと行動しているのだ。
さて、この神の特徴として、さまざまな姿かたちを持つことが挙げられる。黒い神父をはじめ、顔のない獣、天にそびえたつ触手の頭を持つ怪物などなど、バリエーションはあまりに多岐にわたる。そもそもそういった姿が描写されることが多いだけであり、本当のところはかの神性がなにがしかに変状した場合、見分けることは難しいのだろう。そう、今この瞬間、真尋の目の前に立つ彼女のように――――。
「ニャルラトホテプ――這い寄る混沌か。また悪趣味な姿しやがってなぁ」
ノーデンス老の言葉に、特に彼女は、夢野霧子を名乗っていた彼女は態度を変えない。現れ出たと同時に周囲にうすらぼんやりとした黒い霧を帯び、どこか超然とした、神様めいた微笑みはしかして見ているものを不安にさせる。そして開かれた口から発されるそれは、どこか愛らしさの残った女性のそれではなく、涼し気な男性のそれである。
彼女が出現すると同時に、真尋の喉より這い出ていた名状しがたい奇怪な何かは影も形もなく姿を消している。唖然として、そして茫然とする真尋だが、しかし状況については冷静な分析を行っている。そう、おそらく彼女に飲まされたあのモノクロのカプセル錠剤。あれこそが、自分から這い出た何かの正体であろうと。
眼前に立つ霧子――――ニャルラトホテプは、ごくごく自然体のまま続けた。
「だから言ってるじゃないか。『仕込みは十全』だとね。それよりも、おいノーデンス。君もまた、中々趣味が良い
「はッ! 特に理由はねぇな」
「まあ、私も興味があるわけではないからこれ以上追及はしないさ。問題があるとすれば、真尋を殺そうとしたことだね」
肩をすくめる這い寄る混沌に、真尋は言い知れぬ薄ら寒さを感じる。その言葉、登場時の発言をふまえ、真尋の脳が導き出した結論によれば、這い寄る混沌は彼を己の所有物か何かのようにみており、事実そう扱っている節があるということだ。夢野霧子として接していたときの彼女からその気配は感じ取れはしなかったものの、実際、一体そのときからこんな視線を、こんな内心でいたのかと。その事実だけで、十分に背筋が凍る。ニャルラトホテプはそんな真尋の様子に全く目もくれず、ノーデンスに向かって薄く微笑んだままだろう。対するノーデンスは舌打ち一つ。明らかに面倒そうに、忌々しそうに眉間にしわを寄せている。
「まさかあれだけお膳立てされた舞台で、お前が立っていそうな場所に化身でさえおいていないとは思っていなかった。おかげで無駄なところにクトゥグアを使ってしまった」
「ははっ。今回は君が動きそうなのは読めていたからね。私も代役を立てさせてもらった。知ってるだろ? 君が面倒を嫌って実績のある相手を用意したように、私も面倒は基本的に嫌う性質なんだ。しっかし、無涯博士は真尋と違って想像力が貧困でねぇ。今日のためとはいえ、こっちの世界に走らせるのに『五年も』かかってしまった」
無涯? さきほど真尋を何らかの装置――――おそらく邪神との「交信装置」の生体ユニットにすると言っていた、あの男。真尋自身、当初は彼がニャルラトホテプの化身なのではと感じていたのだが、だがその口ぶりからすれば全く違うということになる。ニャルラトホテプの手によって狂気の世界に引きずり込まれた人間であるかのように語っているが、いや、まて。五年、五年だと。真尋はもはや、眼前の存在を直視することさえできない。一体いつから、いつから今日という日を予見し行動していたというのだ。そしてどこからどこまでが、この存在の語った何から何までが真実で、何がこの存在の仕込みだというのか。己の生まれも、その存在も、家族も、人生も、すべてが、すべてがこれの掌の上で踊らされていただけだとしたら? 頭上から垂らされた糸で適当に操られていただけだとしたら? 思考を放棄することが真尋にはなぜかできない。すでに自身はいくらか発狂しているだろうにも関わらず、しかしそれでもなお思考の一部がクリアに、正常に場を分析しようとしているのだ。
ニャルラトホテプの横で、星の精がふわふわと揺れる。挙動からしてニャルラトホテプに召喚され、彼に追従しているといったところか。
「わかってるとは思うが」
そしてそんな彼女(?)たちに向けて、ノーデンス老は軽く右手の指を向けた。
「ここは、こっちの空間だぞ?」
次の瞬間、星の精に猛烈な速度で銛が複数突き刺さる。四方から放たれたそれらは、妙な具合にそのシルエットをゆがめさせ、全身から真っ赤な血液を噴出させた。ごひゅー、ごひゅー、とでも形容できようか。そんな悲鳴とも破裂音ともいえない奇怪な音を鳴らし、地面に落ちる星の精2体。そして、ニャルラトホテプはやはり余裕の表情。みれば、彼女の身体にもその銛は突き刺さっているではないか――――。四肢を拘束するように貫通し、さらには胴体を貫いたそれ。まるで地面にはりつけにされているかの如く。だが彼女は全く堪えた様子もなく、自分のこめかみに刺さった銛を一つ引き抜いた。
「――――っと。死ななくても痛いし、喉の発声器官にひっかかるから頭狙いは止めてもらいたいんだよなぁ。しかし、そっちこそ解ってるのかな。私はそもそも君たちと違い『化身という概念が根本から異なる』から、この程度で殺すことは出来ないのだよ」
「嗚呼、わかってるさ。だから
「わかっていて使い魔を殺すくらいだから、もう対策は打ってあるのかな?」
「生憎、これからだ」
「――――少年、さっきぶり」
いつの間にやらか、ノーデンス老のもとに、赤毛のワンピース姿の少女が再び現れていた。現れた、ではない。いつの間にか現れていたが表現としては正しいだろう。ともあれ、そもすでに真尋はそれに返答することが出来るだけの正気度を持ってはいないのだが。しかしそれでもクトゥグアの化身たる彼女は、真尋を一つの意志ある生命体として尊重でもしているのか、ひらひらと手を振っている。こころなし、無表情であるがちょっと楽しそうに見えないこともない。大してニャルラトホテプは、相も変わらず表情も変わらずである。
「まあ、そう来るのは読めているけどね。それで? 後何回『本体を召喚できる』んだい? その化身の耐久度もあるだろう。TRPGでいうところの、SPあたりかな? 人間という形態を伴って魔術を行使するんだ。それくらいのリスクは負ってるだろうからね」
「ハッ。お前のせいで1回無駄になっちまったが、何、焦ることはない。もう一回撃てれば上々だ」
既に会話は真尋の常識の外側にある。クトゥグアの化身たる少女は、ぼんやりとニャルラトホテプを見上げ、頭をかしげる。そんな様子を一瞥して、ノーデンス老はなにがしかの呪文を唱え始めた。
「フングルイ・ムグルウナフ・クトゥグア・ホマルハウト・ウガア=グアア・ナフル・タグン! イア! クトゥグア! イア! クトゥ――――っえっくしょいッ!?」
そして、呪文の最後で盛大にくしゃみをして、咳き込んだ。げほげほと、喉を抑える老人に、少女はやはり不可思議そうな顔を向ける。真尋の正気の部分は気づいた。この薄明りの中、つまりノーデンスの貝の中。いつの間にか霧子だったものが出現したときに現れ出た、黒い霧のようなものが充満している。そしてノーデンス老の挙動は、明らかに異常だ。すくなくとも神が身を窶した存在であるはずのあの肉体が、この場、このタイミングで、こんなありきたりなミスを犯すはずはない。ともすれば――――ちらりと、ここで霧子だったものは真尋に向けて、わずかにほほ笑む。嗚呼とするならば。この霧こそが、ニャルラトホテプが仕掛けた罠に違いない。
「ダメじゃないか。クトゥグア召喚、招来の呪文は、間違えると『面倒なものが』来てしまうのだよ? いくら君とはいえ、『一次元に近い世界に生息する肉食獣』がごとき何かを相手にできるほど、余裕はないんじゃないのかい?」
「――――っ、げほっ、馬鹿が! お前、正気か!? いくら威力がそこのクトゥグアに比べて弱いからと言えど、無事で済むわけないだろうが、全部消えるぞここら一帯のものが!」
大声で叫ぶノーデンス。真尋の正気は、わずかに思い出す。クトゥグア、生ける太陽を超える恒星がごときかの神性は、呼び出すのが危険である。それは神性そのものの性質はもとより、失敗時において現れ出る「別な神性」が、ことごとく邪悪極まりない性質を秘めているからだ。
そう、そして。やがてクトゥグアの化身たる少女が立ち上がると、そのシルエットが解ける。今度は真尋も真正面からその有様を見た。古い昔、怪獣王の映画で見たその最期の様、メルトダウンのような情景を思い起こさせる。そのシルエット自体が輝き、マグマのようにドロドロとした何かに変色し変貌し、骨と共に崩れ落ちる。それだけでも十分にひどい有様であるのだが、今回はそこから続いた有様が更にひどかった。
それは、はじめ点から始まった。崩れ落ちたクトゥグアの溶解物が一点に収束したかと思えば、それがまるで排水溝にでも流されたかのように、その点、否、穴に集中していく。そしてごぽごぽと、不可視のその奥から音を立て、原型もとどめない程の勢いを伴い、炎がほとばしった。ほとばしった炎は形を持たない。否そうではない、「この空間では炎の全容を示すだけの空間が存在していない」というだけだ。
猛烈な勢いのままに、ノーデンス老を飲み込む炎。たとえるなら、そう、どう猛な獣。飢えたケダモノ。だてに「星々から宴に来たりて貪るもの」とは呼ばれていない。そして当然のように、その炎にニャルラトホテプの化身もまた巻き込まれた。ごうごうと燃えるそれは、彼女の全身のシルエットを消し炭に変容させていく。
「じゃ、今のうちだ。こっちも準備しよう。せっかくだからね」
そして、同時にありえないことが起こっている。目の前で焼かれているのは霧子だったものだが、その霧子だったものと全く同一の姿かたちをした存在が、真尋の背後に現れ、彼を抱きしめるように立ち上がらせた。その感触は曰く、人間の柔らかさではなく、ゼリー状、ゲル状の物体がまとわりついているような妙な柔らかさだ。だがそれがだんだんと固くなり、固まり、真尋が一度くらい体感した霧子(仮)の、人間らしいしなやかさと冷たさを帯びていく。
「呪文とか唱えたほうが『それらしい』んだけど、正直時間がないからね。あんまり余裕な態度でいると、真尋まで焼かれてしまう。というわけで一応謝っておこう。ごめんね?」
全く人間らしい反応もできない、人形がごとき真尋に、這い寄る混沌は軽くウィンクして舌を出した。そしてそのまま目を閉じて、真尋の唇に自分の唇を重ねた。真尋の正気の部分が、これによって一瞬完全に機能を停止した。様々なことがありすぎる。様々な事象がありすぎる2日において、これほど悪夢的なこともあるまい。具体的に形容するのもはばかられるほどの不快感と悲しみが彼の脳内で分泌されるが、それが彼の全身に伝播することはない。この場において、彼はすでに廃人と化しているのだから。
重ねた唇から、霧子だったものは舌を伸ばし、丹念に真尋の口の中を蹂躙する。と、それが離れると同時に、真尋と彼女の口の間に、唾液ではない「糸を引く」何かが存在した。真尋の目はそれを正確に映し出す。と同時に、その意味合いについて理解することができた。上位の神性、より巨大な神性の一部に自らを偽装ずることで火の獣を退散させる、そういった文言。空中に浮かぶその文章を、霧子だったものは指先で書き換える。神性に偽造する個所を「自らが神性であり」「相手を取り込む権利がある」と変更すると、彼女はその文章を「どろどろとした液体とも触手ともつかない何かに変形させた右手」でつかみ取り、前方に掲げた。
効果は劇的だった。ボロボロと炭化した霧子だったものが崩れ落ちた丁度その瞬間。なにがしかの意志がこちらに標的を変更したのを真尋の正気が感じ取った瞬間。その瞬間にニャルラトホテプが行動し、そして向けられた敵意はとたんに消し飛んだ。そしてまるで、ニャルラトホテプの化身と真尋を裂けるように炎が隙間を開ける。
「――――やっぱりそいつ、アル・アジフの原本か」
さすがに海の神の化身というべきか。ノーデンス老の身体は、案外と霧子だったものと異なり、この炎の中でいまだ原型を保っていた。だがもう長くはもつまい。霧子だったものは、「人間の姿かたちに戻った」右手の指を鳴らす。と、貝の上部が爆散した。否、外部からなにがしかの生命体が、こちらに向けて突貫してきたのだ。天井にあいた穴を見て、ノーデンス老はため息を深くついた。
「全く。こちとらお前のように、ホイホイ化身できねぇんだぞコラ」
「だから、それも狙いなんだよね。ともあれ私も真尋も、君には用事はない。退散させてもらうよ」
落下してきた生命体――――真尋にはコウモリのような羽根を持つ何かにしか見えないが、霧子だったものは真尋をつれて、それに乗った。羽根が大きく躍動し、この場を離れる。上空に飛ぶ。すでに貝は後方。いったいどれだけの速度が出たのかさえ分からない真尋。ただ視界の端でノーデンス老の貝が原型も留めないほどに燃え散ったことと、その日が飛び火したのか海中にいるクジラが猛烈に暴れているのだけが見えた。
「さて、色々済まなかったね。本当はこういう形で巻き込むつもりはなかったんだけれど」
言いながら、霧子だったものは自分の腕のSANチェッカーを一つ外し、真尋につける。
からからと猛烈な速度で回転。さながら暴走したモータか何かのような音をたて、それはすぐさま爆発した。
かまわずふたたびSANチェッカーをつける。爆発。装着。爆発。装着。爆発。装着、爆発――――。
「――――はい、これで7つ目。さすが私、さっすがきりこちゃん、計算もばっちりですね~」
やがて最後のSANチェッカーの回転が止まり、真尋の脳裏に「95」と数字が浮かんだ。それを見越して霧子だったものは、いや、そのまま彼女は再び霧子(仮)の時と同様に、「愛らしさの残る女性の声で」得意げな顔を浮かべた。真尋は愕然とした。眼前の相手に対してもそうだが、どうやら今までのSANチェッカーの破損をふまえて、体の自由が返ってきていたからだ。
震える手を見つめ、霧子だったものを見つめ。なにごとか口走ろうとして。
「――――――寒ッ!?」
「おお、アイデア! って訳じゃないですけど、確かに寒いですかね。ささ、真尋さんこれをお召しくださって……」
思い出したかのように体を襲う猛烈な寒波に叫ぶ真尋と、それを受けてどこからともなく「真っ黒な修道服めいた」上着を着せる霧子(仮)であった。
次回、ネタばらし編。真尋のSANチェッカーがまたからから回転する……!