「まさか、この日がやってくるなんて、自分でも不思議だよ」
控え室で、退藤カゲルは呟いた。それを聞き、隣でいつも通り静かに佇む藤原一星は意外そうに首を傾げる。
「不思議も何も、カゲルが云ったのでしょう。ここが目標だと」
「そりゃそうだけどさ。まさか本当に実現できるなんて」
カゲルは一つ溜め息をついた。ぼんやりと空中に視線を漂わせるその様子は、まさしく夢心地と形容するにふさわしい。
「カゲル。せっかくここまで頑張ったんですから、まだ気を抜いてはいけませんよ」
一星はカゲルに注意すると、カゲルは自分の頬をぴしゃりと叩いた。
「そうだな」
二〇一九年四月二七日。ついにカゲルは、自らの設定した夢の舞台へとやってきた。
「七番勝負だ。一瞬たりとも油断はできない」
そう自分に言い聞かせると、控え室の中で軽い準備運動をはじめた。
「カゲル。毎度毎度対局の前に準備運動してますが、それは意味があるのですか?あくまで頭脳勝負ですよ」
「もう癖になってんだよ。ほっとけ」
適度に体を動かしていると、控え室のドアがノックされた。
「退藤先生、準備が整いました。そろそろお願いします」
カゲルと一星は顔を合わせてしっかり頷くと、ドアを開けて廊下へと出た。
スタッフの指示に従い廊下を進んでいくと、和室の前まで案内された。
「私が指示したら、襖を開けて入室してください」
カゲルが了解すると同時に、部屋の中から声が漏れ聞こえてきた。
「さあ、今年も始まりました、夢の七番勝負。今年は例年にも増して盛り上がるはずです。そもそもこの七番勝負がはじまった当初は色々批判もありましたがそれを乗り越え・・・ははっ御託は余計ですね。
では、登場していただきましょう。まずはこの方。日本囲碁界で今最も乗りに乗っている碁打ち。新人王、退藤カゲル五段!」
カゲルは、去年九、十月に行われた新人王戦決勝三番勝負を見事制し、新人王戦優勝。去年の新人王となっていた。プロ一年目での新人王戦優勝。厳しい戦いを、確かな棋力と意地で戦い抜いた。
カゲルは襖を開けて中に入る。和室中央には盤が鎮座しており、その両横には対戦者用の座布団が用意されている。
先ほどカゲルを紹介していた男は盤の手前に突っ立っており、カゲルを手招きする。その指示通り彼がその男に近付いていくと、周りにいる数人のスタッフから大きな拍手が起こった。
「さあ、この方が退藤カゲル五段です。
えーどうですが、最近の調子は」
さっそくマイクを向けられ、カゲルは苦笑いする。
「そうですね。まあまあです」
カゲルが無難に答えると。
「まあまあって、勝率八割近くあるそうじゃないですか。去年はさっそく棋戦優勝しちゃって。向かうところ敵なし?」
意外とこちらの情報に詳しい。カゲルは素直に感心した。
「そんなことないです。すごく強い先生方ばかりで、僕なんかまだまだですよ」
「いやー謙虚でいいですねえ。若い人はこうでないとね。
どうですか、七番勝負を向かえ、今の心境は?」
「心境、ですか。
実は僕、ここに来るために今まで頑張ってきたんですよ。新人王戦を優勝できたのも、この大会に出たいって気持ちが大きなモチベーションとなってまして」
「はははっ。リップサービスはいりませんよお」
「いえいえ、冗談ではないんですよ」
彼は顔に微笑を貼り付けながらも、瞳の奥は決して笑っていなかった。それは、彼の本心だったからだ。
「本当に、僕はここを目指してきたんですよ。この七番勝負・・・」
一泊置いて、彼はこの舞台の名前を言った。
「
それはカゲルの本心であった。
異種頭脳格闘技戦。それは、囲碁の棋士と将棋の棋士が七つの頭脳ゲームで戦う企画である。動画サイトニヨニヨ動画で毎年行われる企画で、今年で六回目である。囲碁と将棋のプロフェッショナルが普段とは違う頭脳ゲームで競い合う。視聴者はその奇妙な姿に魅了され、評判は上々であった。
カゲルは、目線を下げ、和室の真ん中に鎮座している盤を見下ろした。
それは囲碁の盤ではなかった。
八×八の升目。それはオセロの盤であった。
七番勝負は全て同一のゲームで競い合うのではなく、それぞれ七種類のゲームで勝ち負けをつけ、番勝負を決着させる。
七種類のゲーム。今年選ばれたゲームは『オセロ』『ピロス』『コリドール』『クイキシオ』『じゅうしまつ』『Eカード(カイジのやつ)』『囲碁VS将棋(ニヨニヨ動画オリジナルゲーム)』の七つ。この順番通りに対戦をこなしていく。
この七番勝負に出場するためには、前の年に行われる新人王戦で優勝する必要があった。囲碁の新人王と将棋の新人王の激突。両業界の有望株が見られるという点も、この企画の一つの魅力だ。
カゲルは新人王戦にどうしても優勝したかった。その理由はただ一つ、この異種七番勝負に出場するためだった。
「そんなに熱心になってくれると、こちらも嬉しいですねえ」
と口には出したが、司会の男に、カゲルの真剣さは正しく伝わっていなかった。所詮は公式の対局でもなければ賞金がでるわけでもないお遊び企画だ。カゲルの情熱が伝わらなくても不思議ではなく、またそれは仕方のないことだったろう。
カゲルは嫌な顔をせず口角を上げ、カメラに向かって微笑んだ。インターネットを通してファンが見ているのだ。態度には気を付けなければならない。
「さあ、それでは、退藤先生の対戦相手にも出てきていただきましょう。
この方に限っては、もはや説明不要かと思いますがあえて紹介させていただきます。
弱冠十六歳で三段リーグを突破しプロになると、連戦連勝を重ね、格上の棋士以外には今だ負けなし。去年に続き今年も新人王を獲得・・・将棋は新人王が複数回とれるんですねえ・・・去年はその強さをこの七番勝負でも発揮し、見事囲碁棋士を破ってみせました。
では、おいでいただきましょう」
司会の紹介が終わると、カゲルが出てきたのとは反対の襖がゆっくりと開き、その人物が出てきた。と同時にスタッフから大きな拍手が起こる。
司会がその人物の名前を発表する。
「さあさあ、現役名人を父に持つ、今もっとも乗りに乗っている将棋指し・・・そう、その名は・・・」
「
丁寧に襖を開けて入ってきた戸谷は、司会の男の隣に立った。司会の男を真ん中に挟み、カゲルと戸谷は並んで立っていた。
今再び、戸谷は、カゲルの前に姿を現したのだ。
戸谷アキラは、将棋のプロ棋士であった。
退藤カゲルは、囲碁のプロ棋士であった。
彼らは両方ともプロ棋士であった。ただ、得意とする分野、所属する団体が違っていた。
一方は将棋、一方は囲碁。両ゲームは似ているようでいて、決して相容れない存在である。
司会の男が戸谷にマイクを向け質問し、戸谷も軽快にそれに答える。
その様子を横で見ながら、カゲルは、感慨に浸った。
やっと、ここまできた。やっとここにたどり着いたんだ。俺の目標。それはもう、すぐ手の届くところにある。
彼の目標。それは、戸谷を負かすことであった。
しかし、囲碁で負かすことではなかった。
彼の目標は異種頭脳格闘技戦七番勝負で戸谷アキラに勝つことであった。
今日、俺はお前に勝つぞ。闘志を燃やすカゲル。その横で、一星は心ひそかに彼を応援していた。
頑張れ。カゲル。ここまで来たあなたなら、きっとライバルに勝てます。
この舞台を整えるまで、幾多の困難があった。困難の歴史、それは一星とカゲルの友情の歴史でもある。
一星は、彼との出会い、そしてここに至るまでの出来事、それらに思いを馳せた。