2016年 退藤カゲル 15歳
落ち込んでいたカゲルは気晴らしにインターネットで一星に対局させることにした。
カゲルが敢えて一星に対局させたのは、何も退屈そうな一星を気遣っただけではなく、上位者の手をなぞれば自らの勉強になるかもしれないと考えたからだった。そのため、アクセスしたのは勿論、碁の対局サイトではなく、将棋の対局サイトであった。
一星とカゲルは、ハンドルネーム<iti>の名で対局を続け、連勝を重ね、ついにアマ六段すら負かした。
負かされた六段―ハンドルネーム<タラ沖屋>は、自宅のパソコンの前で驚いていた。自らが負けてしまったことに、驚いたのではなかった。通常、ネットでの対局は持ち時間が少なく、従って、どれだけ強くても全勝は難しい。格下に足元を掬われるのはザラであった。
<タラ沖屋>は負けたことには驚かなかった。負かされた<iti>の棋風に驚いたのだ。
指し手が似ている。彼に・・・いや、昔の彼に!
ハンドルネーム<タラ沖屋>=戸谷アキラはitiに強い興味を持った。
戸谷は<タラ沖屋>であった。戸谷アキラをローマ字にするとTOYAAKIRA。それを並び替えるとTARAOKIYA=タラ沖屋となる。
「ほう、かなりの指し手だね。アキラ、この人は知り合いかい?」
アキラの父は、パソコンの前で固まる戸谷アキラに声をかけた。
「父さん・・・ああ、知り合いではないよ。でも、凄く強い」
「そうだね。アキラはアマ六段ぐらいだろ?そんなお前をひねりつぶすとは。
どれ、ちょっと貸してみなさい、私が対局しよう」
「そんな、父さん。父さんが指すまでもないよ!それに父さんは、そんなに軽々と対局しちゃ駄目だ!」
「・・・アキラ、よく覚えておきなさい。将棋指しに身分は関係ない。強そうな指し手が現われれば、誰彼かまわず対局を申し込む。それがプロの将棋指しだ」
アキラを説教すると、父親はアキラを席から追い払い、自らがそこに座った。アキラの父親・・・戸谷名人は、何年か前に作ったアカウントでログインし直した。
<タラ沖屋の親>。彼のハンドルネームはそのまんまであった。
一星が現役名人と奮闘している最中、カゲルは総合ニュースサイトにアクセスし、囲碁将棋ニュースを読んでいた。このサイトには『将棋ニュース』なるものがなかったため、将棋の情報を集めるためには『囲碁将棋ニュース』を読むしかなかった。
・斉藤名人、奇跡の逆転で名人防衛に好発進!三コウ出現の熱戦を制す。
・鳴門女流が熱愛!?相手は芸能人との噂も!?
・将棋会館改築の是非。若手とベテランで意見分かれる「年寄りは何も分かっていない」
・日本囲碁界は中韓に勝てるのか。現役タイトルホルダーに問う。
・第三回異種頭脳格闘技戦!囲碁新人王VS将棋新人王 異色の七番勝負開幕。
・佐々木棋聖、宿敵を語る「T名人は相手が勝手に転んでるだけ。俺の方が強い」
・囲碁棋士採用試験、去年との変更点など。
記事の見出しを眺めていたカゲルは、その内の一つに大きく興味を持った。当然、
・囲碁棋士採用試験、去年との変更点など。
この見出しにはまるで惹かれなかった。カゲルは将棋部部員であり、この時点で囲碁のことなどまるで関心がなかった。
カゲルが惹かれたのは
・
この見出しであった。
一見、自分には何の意味もない情報に思われた。しかし、カゲルは自らの目標を思い出した。
俺の目標は、戸谷に勝つことだ。
別に、将棋のプロになりたいわけじゃない。
それに、戸谷はとんでもなく強い。親が名人だし、俺とは血筋からして違う。勝てるはずがない。
なら、別ルートで勝負するのはありなんじゃないか?例えばこの、異種頭脳格闘技戦とやらで・・・これに出場するためには・・・ああ、駄目だ駄目だ。将棋と囲碁の新人王が対決するって書いてあるじゃないか。アマチュアは参加できないのかよ。がっかりだ。
いや、待てよ・・・
いやいやいや。戸谷はあんなに強いんだ。すぐプロになるだろうし、確か段位が上がりすぎると新人王にはなれなくなるはず。チャンスは後数年しかない。
そもそも俺は囲碁のルールさえ知らないし、後数年の内にプロになるどころか、今からプロを目指してなれるはずないじゃないか・・・ちょっと調べてみよう。ふむふむ、囲碁のプロ候補生、院生の受験は、年齢制限が十四歳まで。ほら、無理無理。プロになるために必ずしも院生になる必要はないらしいけど、入会十四歳ってことは、それまでにかなーり強くないとプロになる見込みなんてないってことだろ?で、なになに、入会するにはアマ六段ぐらい必要?あーほら、やっぱ駄目だ。十四歳までにアマ六段になってるような秀才。そんな奴らがプロを目指して凌ぎを削るんだ。無理無理不可能。だって俺本業の将棋すらアマ二段なのに。今から囲碁やって、プロになんてなれっこない。
でも、戸谷には勝ちたいな。
っていうか、戸谷に将棋で勝つより現実味がある気がするな。
カゲルは、戸谷にこてんぱんに負かされたせいで感覚がおかしくなっていた。どんな困難でも戸谷に将棋で勝つよりは簡単ではないかと錯覚していた。
その錯覚が、決意を生んだ。
インターネット喫茶からの帰り道、一星とカゲルは雑談していた。
一星は戸谷名人に敗北した。しかしそれは仕方のないことだったろう。囲碁ならともかく、将棋は強ければ強いほど序盤の比重が重く、そこでリードされてしまうと取り返せない場合が多い。現代定跡を知らない一星に、現役名人は荷が重い相手だった。
囲碁では歴代最強議論に大昔の棋士の名が挙がる場合もあるが、将棋の場合はどれだけ古くても戦中、戦後ぐらいの棋士の名しか挙がらない。
もっとも、天野宗歩のような一部の棋士は別だが・・・さすがに現代の名人が、本因坊算砂に敗北するはずがなかった。
名人との対局に充実感を得ていた一星に、カゲルは、自分の夢を語った。
一星はまず軽率だと思った。今まで将棋の勉強をしてきたのに、今さら囲碁に乗り換える・・・しかもただ戸谷を負かすためだけにプロになりたいなんて、他のプロ候補生を馬鹿にしていると思った。
また、無理だとも思った。先ほど触れたように、院生の入会試験は十四歳まで。大してカゲルは十五歳。まず院生に入会できないし、また別ルートでプロになるとしても、十四歳で既に六段以上の秀才達に対して、十五歳で碁のルールすら知らないカゲルではまるで歯が立たないはずだ。
一星の見解は常識としては正しかった。だからカゲルは泣き落としにかかり、そして一星はしぶしぶ了解してしまった。ただ、まさか本当にプロになれるとは予想できなかったが・・・
決意表明が済むと、カゲルは、一星と名人との対局について話を移した。
そこで彼は、修正案を提出した。一星の指した九十二手目の手について、そこを改良すれば一星が勝っていたのではないかと指摘した。
それを聞いた一星は、なるほど、と納得した。
確かに、カゲルは囲碁のプロを目指した方が良いかもしれない・・・まだ、将棋のプロよりは。
一星がそう感想を抱いたのも無理はなかった。
二年も私の指導を受けながらそんなことも分からないとは・・・確かに、カゲルには将棋の才能がまるでないかもしれません。ならいっそ、まだ打ったことのない碁の方が可能性があるでしょう。
カゲルは、夢に向かって走り出した。
囲碁のプロ棋士を目指すカゲルにとって、将棋部に所属していることは何の意味もなかった。カゲルが退部を申し出ると、唯一の部員、三橋は怒った。
当たり前である。カゲルの夢はあまりにもふざけていた。不良だが常識人でもある三橋は、到底、納得できなかった。
そこで、二人の対局が始まった。
勝ったらプロを目指してもいい。負けたらプロを諦めろ。
「こんなの無茶苦茶です」
一星がそう言ってカゲルを止めたのは当然であった。
しかし、将棋部部員である三橋とカゲルにとって、勝負するなら将棋しか考えられなかった。
幸い、カゲルは将棋に勝った。
最後の一手は、無慈悲な一手であった。三橋の攻めを完全に切らす、手堅い受け。
カゲルの打った一手は非情で、だからこそ二人の決別にふさわしい一手だった。
そう、
そして、カゲルは将棋部を退部し、囲碁のプロ棋士を目指した。
2017年 退藤カゲル 16歳
年齢制限から院生になれないカゲルにとって、プロの道は一つしかなかった。
カゲルは、囲碁の有名アマチュアを見つけ出し、強引に対局を申し込んでそれに勝ち、その棋譜を日本棋院に持っていって、
戸谷アキラは将棋の真の天才であった。
彼は十五歳の春に囲碁のルールを覚え、十六歳の冬にはプロになった。それは快挙というよりは偉業であった。彼は偉業を成し遂げたのだ。
ちなみに、彼は、ここまで血の滲むような努力をしてきたと自分で勝手に思っているのだが、
ただ、カゲルは究極の大天才である。凡人どころか、秀才や天才の気持ちすら、カゲルには理解できないのだ。
プロ試験に合格した直後、カゲルはインタビューを受けた。
ライバルは誰ですか?の質問に対し、カゲルは「戸谷アキラ先生ですね」と答えた。
記者は困惑した。
当然だろう。カゲルは碁のプロ棋士となったのだ。一方、戸谷アキラは半年前にプロになった将棋指しだ。
よって記者は、カゲルの言葉を冗談だと判断した。
プロ試験に合格したその日の夜。カゲルは戸谷と約二年ぶりに会った。
そこでカゲルは、囲碁のプロ棋士になったことを、戸谷に告白した。
戸谷は驚いた。驚かざるを得なかった。何しろ、
スマートホンで日本棋院にアクセスし、カゲルの言葉の真偽を確かめた。戸谷はプロはプロでも将棋のプロ棋士である。
カゲルの言葉が真実だと知り驚き、また、彼が自分をライバル視していることに驚いた。
なぜ彼のライバルが私なんだ?
怪しく思いつつ、戸谷は快く握手に応じた。この二年間で、感情を表に出さないコツを掴んでいたのだ。