「ふざけるな」
都大会の個人戦予選一局目。戸谷アキラは、目の前に座る退藤カゲルに激昂した。戸谷が怒ったところを、カゲルはこのとき初めて見た。
藤原一星はとてつもなく強い達人だった。
初めて行った道場で、カゲルは連戦連勝で勝ちまくった。しかしそれはカゲルの実力ではなかった。
一星の実力だ。
一星が扇子で次の手を示す。カゲルがその通りに手を進める。カゲルは一星の指示通り進めるだけで、圧勝を続けていた。いかにも強そうな親父だろうが気取った感じの青年だろうが、カゲルに―一星に敵う者はいなかった。
そんな時、カゲルに挑戦した子供がいた。
カゲルが年齢を聞くと、その子供は、自分は十二歳だと答えた。
俺と同い年の奴がこんなゲームやってんのかよ。カゲルは驚いた。
そして、カゲルは完勝した。子供は―十二歳の戸谷アキラは、おかっぱ頭を振り乱して泣き始めた。涙が盤面に落ち、その跡が広がっていくと、戸谷はごめんなさいといってハンカチを出し、一生懸命盤面を拭き始めた。
ゲームで負けて泣いてる・・・
カゲルには、目の前の子供が泣いていることが意外だった。
一方、傍らの一星は、まるで親が子を見るように暖かく、また真剣な表情で、泣いている戸谷を見守っていた。
この子は強い。まだ私には適わないが、きっと将来、偉大な棋士になる。
一星の言葉に、カゲルは再び驚いた。この戸谷って奴、そんなに凄い奴だったのか。しかも、こいつが将来有望って瞬時に分かるなんて、一星ももしかしたらとんでもない奴なのかもしれない・・・
カゲルは、二人に感心した。
同時に、どうしようもない疎外感を覚えた。
対局は対話だ、と一星から聞いたことがある。でも、俺と目の前のこいつは盤を挟んで向かい合ってるのに、俺とこいつはちっとも対話できていない。盤面を見ても意味が分からない。こいつが泣いている理由も、一星が感心している理由も、俺には分からない。
強くなりたい。
カゲルはそう思った。
一星に頼るんじゃなくて、実力でこいつに勝てるぐらい。それぐらい強くなりたい。
その夜、カゲルは、一星に基本的なルールと定跡を教えてもらい・・・
中学生になると、カゲルは生まれて初めて部活に入った。
その日から約二年間、カゲルは部活動を中心に腕を磨いた。賭け対局で金稼ぎできるほど強い同級生の三橋、知識だけなら誰にも負けない二年生の筒見部長。彼らと対局を積み、必死に棋力を上げてきた。
最初は、誰にも勝てなかった。でも、対局を繰り返す内、その辺のおっちゃんには負けなくなった。やがて、格上だった筒見部長と張り合えるようになった。百戦錬磨の三橋にもちょっとずつ勝てるようになった。
部活に入ったんだね。
どこから情報を仕入れたのか、ある日、カゲルの元に再び戸谷アキラが現れた。
戸谷は「部活なんかに興味はなかった」と云う。自分はもっと高みで勝負する人間だと。
しかし、と、戸谷は自分で否定する。
君が部活に入ったなら、こちらも部活に入ろう。そして、君と戦おう。私達は同じ都内の学校。都大会で戦える。
そう宣言して、戸谷は去っていった。
カゲルは、嬉しくなった。ライバルが、自分を求めてくれている。それがたとえ、自分ではなく一星に対する感情だとしても。それでもカゲルは嬉しかった。
そして、カゲルは大会に出た。都内の大会に、筒見、三橋と共に出場した。もはや、彼はずぶの素人ではなかった。一人で戦える、立派なアマチュア棋士であった。
そして、カゲルは戸谷と対局した。カゲルは、再びのライバルとの対局に心を躍らせた。
いや、再び、ではない。自分と戸谷は、初めて対局するのだ。これが俺とお前との初対局だ。
そう考えると、闘志が燃え上がった。
しかし・・・
「ふざけるな」
中盤、定跡を過ぎたばかりの局面で、戸谷は怒った。しかし、カゲルは、彼が何に怒っているのか理解できない。ただ、傍らで見守っていた一星と、そして、激怒した当人の戸谷だけがその理由を知っていた。
「負けました」
数手後、カゲルは投了した。そこでやっと悟った。
俺の酷い手に、戸谷は怒ったんだ・・・
戸谷にとって、カゲルは達人のはずであった。戸谷は、一星がバックについて戦っていたカゲルしか知らなかったのだ。
「ありがとうございました」
カゲルの投了を受け、戸谷は挨拶を返した。しかしそれは儀礼的な意味でしかなかった。戸谷は感想戦も行わず、素早く後片付けをすると、カゲルを一瞥することすらなく、その場を去っていく。
こんな奴に負けたのか。
カゲルには、ライバルの背中が、そう語っているように見えた。
カゲルは、十四歳にして初めて、挫折を経験した。