局面は終盤の入り口。
形勢は、ややカゲルの劣勢に見えた。数十手前、カゲルの打った手は、一目緩手であった。傍らで見守り続ける一星は、これは厳しそうだと顔を顰めた。
対局者の昇は、表情に余裕が出てきた。
とりあえずここまでは優勢。後は終盤、間違えなければ・・・囲碁は、将棋と違って逆転が起こりにくい。まして相手はトッププロでも何でもない。昇は、自分の勝ちが近付いていると確信していた。
この時、カゲルの読みは、一星と昇を上回っていたのだ。
パチ。
カゲルが百十八手目を打った。
それは狙いの一手であった。
カゲルがその手を打った瞬間、昇の表情は、一瞬、呆然とし、次の瞬間強張り、また次に目を見開き、驚愕を露にした。
驚いたのは、一星も同様だった。
「凄い・・・」
自然と漏れた彼の言葉は、誰にも聞こえはしなかった。幽霊である一星の声は昇には聞こえず、対局に集中しているカゲルには、もはや一切の物音は聞こえていなかった。
そんな馬鹿な。
口に出しかけて、昇はさっと口を手で覆った。勝負事では、相手に弱みを見せてはいけない。勝負師の本能が、彼の言葉を寸でのところで引き止めた。
昇は改めて局面を確認する。
カゲルが先ほど打った一手。その一手で、盤面右上の勢力図は激変した。もはや昇は・・・黒は、抵抗することもできず、せいぜい被害を最小限に食い止め、他で勝負するしか選択肢はなかった。
しかし、と昇は恨めしく思う。
そもそも盤面右上は、こちらが優勢だったはずじゃないか!それが、それが・・・
昇は、盤面にある、一つの白石を凝視した。その白石のせいで、今現在、右上の勢力図は白が完全に優勢となってしまっていた。
この石のせいで。たった一つの石のせいで・・・彼の凝視した白石は、直前にカゲルが打った白石ではなかった。
それは、数十手前に打った白石であった。
昇も、一星も、つい先程まで、緩手と断定していた石だ。
その石が、今さっきカゲルの打った一手で、突然変異したのだ。
その石は、決して無駄な石ではなかった。むしろ、盤面全てを支配し、黒と白の勢力図を入れ替える、要の石へと変貌していた。
「緩手だった手が好手に化けた」
一星は、今だカゲルにあらゆる勝負で負けたことはなかった。しかし、毎日打ってきて、彼の成長をひしひしと肌で感じ続けてきた。
その中で、彼の特徴を一つ見つけた。
カゲルは、読みが深いのである。
囲碁は広さ。囲碁の読みは広さが重要と言われる場合が多い。他の知能ゲームと比べ、囲碁の盤面は広く、戦火が次々と飛び火していくからである。しかし、昔取った杵柄というべきか、カゲルの読みは広さよりむしろ深さに特徴があった。
視野に欠けるため思わぬチョンボを仕出かすこともあった。一方、誰にも負けない読みの深さは、驚天動地の一手を導き出すことも間々あった。
数十手前、カゲルの打った一手に、一星と昇は緩手の烙印を押していた。
それは間違いだったのだ。
カゲルは誰よりも深く読み、先を読み、その手が後々盤面をコントロールする強力な一手へと変貌することを、見抜いていた。
「成長しましたね、カゲル」
一星は呟いた。
同時に彼は、今までカゲルを見くびっていたことを、心の中で懺悔した。
ある時、カゲルはプロ棋士になる決意をした。その決意を、カゲルは最初に、一星に告げたのだ。
「俺はプロ棋士になりたい。なって、戸谷アキラに追いつくんだ」
一星は反対した。彼の決意は自分の信条に合わなかったし、また、どうせ無理だと見下す気持ちも少なからずあった。
それが、もう少しで、彼は夢の実現へ一歩踏み出すのである。
ごめんなさい、カゲル。
また、一星は心の中でカゲルに謝った。
その時、カゲルもまた、はじめて自分の夢を一星に語った時のことを思い出していた。
あそこで決意していたから、今の俺がある。あそこで一歩を踏み出せなければ、ここまで来られなかった。
カゲルは、人生のターニングポイントとなった日に、思いを馳せた。