大会が終わり、やがて年が明け、また春が来た。春休み明けには、退藤カゲルは中学三年生となった。
カゲルの先輩である筒見部長は、中学を卒業した。
カゲルと三橋は、今年は団体戦に出場しようと誓い合った。とはいえ、現状は二人。まだまだ足りない。カゲルは、最低でも夏の大会までに新入部員を三人入部させるため、誰彼かまわず必死に入部を呼びかけていた。一方、新入部員勧誘方法を模索しつつ、対局も欠かさなかった。部活では今だ強敵の三橋と練習対局を繰り返しつつ二人で独自の研究に励み、また夜には本因坊算砂を育てたという藤原一星による指導対局を受け、時には町に繰り出し道場のおっさん達と実践訓練を積んだ。
ある時、三橋が一日学校を休んだ。仕方なく町に出ると、いつも対局している道場は定休日であった。囲碁を愛して止まない幽霊、一星も、今日は気分が乗らないと言い出した。
一日完全な休みができた。
そこでカゲルはふと我に返った。
こんなことを続けても、戸谷アキラには勝てないのではないか?
昨年の大会で、はじめて戸谷と対局したとき、あまりの強さ、あまりの棋力の違いに、まったく手も足も出なかった。
一体どうやったら勝てるのだろうか。いや、そもそも、俺が戸谷に勝つなんて不可能ではないのか。序盤、中盤、終盤、まったく隙がない戸谷に、どうやったら勝てるのか。
沈んだ気持ちのまま、カゲルは、ふらふらとインターネット喫茶に入った。
奇妙な箱ですね。
はじめてパソコンを見た一星は素直に感想を述べた。カゲルが試しにネットゲームやアダルト動画を見せてやると、その度に彼はぎゃあぎゃあと喚き散らした。
楽しくなってきたカゲルは、ネット対局に挑戦することにした。しかし、自分で対局するのではなく、一星に対局させてやろうと考えた。
戸谷との一件から、カゲルは、一星の指示に従って対局することは無くなっていた。自分の本当の実力を勘違いされるのがどれだけ嫌らしいことなのか、実感したのだ。そのため、一星はここしばらく、カゲル以外と対局する機会がなかった。
そこで、インターネットである。
インターネット対局なら、個人情報を一切明かさず、対局することができる。すなわち、ここでなら、一星は自由に対局することができるのだ。もっとも、一星は物体に触れないため、マウスの操作はカゲルが行う必要がある。
さっそくインターネットの対局場にアクセスすると、パスワードとユーザー名を登録し、手ごろな相手に挑戦した。
一星は次々とカゲルに手の指示を出し、カゲルはその通りマウスを操作し、あっという間に相手を負かした。
もうちょっとレベルを上げよう。
先程の相手はアマチュア二段だった。二段ではカゲルとあまり変わらない。次は、三段の人に挑戦してみよう。
三段の人に挑戦した。
一星は次々とカゲルに手の指示を出し、カゲルはその通りマウスを操作し、あっという間に相手を負かした。
次は四段の人に挑戦した。
一星は次々とカゲルに手の指示を出し、カゲルはその通りマウスを操作し、あっという間に相手を負かした。
次は五段の人に挑戦した。
一星は次々とカゲルに手の指示を出し、カゲルはその通りマウスを操作し、あっという間に相手を負かした。
次は六段の人に挑戦した。
一星は次々とカゲルに手の指示を出し、カゲルはその通りマウスを操作し、あっという間に相手を負かした。
・・・・・・こいつ、こんなに強かったのかよ。
カゲルは一星の強さに改めて目を見張った。アマチュア六段と云えばアマチュア最強クラスである。しかもネット対局はプロやプロ養成機関の連中もそれなりに参加しているはずであり、そこでの六段とは、全国クラス。下手したらプロに一発入れてもおかしくない、強豪中の強豪だ。
こいつは、そんな連中にあっさり勝てるのかよ。なんて強さだ。
ふと一星の様子をうかがうと、表情はいつになく楽しげで、またほどよく頬が高潮していた。
「さすがに現代は強者揃いですね。これだけの曲者がゴロゴロいるとは」
いやゴロゴロはいないんだよ・・・一握りなんだよ・・・
その一握りにまったく含まれないカゲルが呆れていると、パソコンの画面に文章が表示された。
タラ沖屋:強いですね驚きました。もしかしてプロの先生ですか?
「タラ沖屋」とは、先ほど対局した六段のハンドルネームである。彼又は彼女は、チャットで話しかけてきたのだ。
iti:どうだ。強いだろ。
そう書いて、カゲルはチャットを閉じ、対局場の画面へと戻った。元々、チャットは好きではない。
カゲル=一星=itiの勢いは止まるところを知らなかった。もう、こちらから挑戦を頼む必要はなかった。強い新人はどこでもモテる。カゲルは次々と挑戦を受け、そして連勝を重ねていった。
こいつ、いくらなんでも勝ちすぎじゃないのか。
カゲルは段々飽きてきた。最初は、一星の手をなぞれば自らの勉強になるかもしれないと思っていたのだが、あまりに次元が違いすぎて、まったく勉強にならなかった。しかし、いつになく嬉しそうに対局する一星を見ると、中断するのも申し訳ない。
負けたら終わりにしような。
数十分前、そう約束したのだが、まったく負ける気配がない。
しかし、さすがに暇だな・・・
理解できない局面を否応なく考えさせられる。これは最大級の苦痛である。そうして、フラストレーションが溜まり、集中力を無くしていたカゲルは、重大なミスを犯した。
<タラ沖屋の親>が挑戦してきました
希望持ち時間 30分
挑戦を受けますか? □はい □いいえ
カゲルは、条件反射で「はい」をクリックし<タラ沖屋の親>なる者の挑戦を受けた。クリックした瞬間、画面いっぱいに盤面が映し出される。
その盤面右端に表示された持ち時間を見て、カゲルは愕然とした。
持ち時間 先手 29:58
持ち時間 後手 30:00
持ち時間三十分?嘘だろ!
ネット対局は、一手三十秒が基本であり、持ち時間十分程度でも長いと感じるのが一般的な感覚である。にも関わらず、この<タラ沖屋の親>なる者は持ち時間三十分を希望し、またカゲルも希望時間に気付かず挑戦を受けてしまった。
止めよう。対局中断を申し込もう。
しかし、隣に佇む一星はいつになく真剣な眼差しで画面に映し出された盤面をギラリと睨み、やる気満々。また、表示された観戦者数はなんと百人を越えている!よく分からないが外野も盛り上がっている様子。一星も、一手も進まない内から「かつてない威圧感です」とか言って浸っている。一手も進んでないのに威圧も何もないわ。
文句はあったが、中断するのは躊躇われた。
一星にはお世話になっているし、三十分で挑んできたということは、相手も相当気合が入っているのだろう。その大勝負に水を差すのは避けたかった。
しかし、このまま約一時間眺めっぱなしは辛い。
カゲルは妥協策を採った。彼は、一星に了解を取り盤面のサイズを縮小すると、それを画面右半分に追いやり、もう左半分では検索エンジンを開き、ネットサーフィンを楽しむことにした。一星は一度集中すると何も目に入らなくなるタイプだ。例え画面半分が盤面とまったく関係のない画面でも、彼の読みが鈍ることはない。また、常にカゲルが傍にいることに変わりはないので、いつも通り扇子で次の手を指示すればカゲルはすぐさまそれに従ってマウスを動かせる。
こうして、一星は手練との対局を楽しみ、またカゲルは彼に注意を払いつつ、ネットサーフィンにふけった。
さて、とりあえずニュースでも見るか。
カゲルは検索エンジンに適当なワードを入れ、総合ニュースサイトにアクセスした。そしていつものように、『囲碁将棋ニュース』の項目をクリック。彼はそれほどプロの対局に興味はなかったが、最低限、このニュースサイトで話題になる情報は入手しておく癖が付いていた。
総合ニュースサイトの『囲碁将棋ニュース』の項目。そこには、以下のように記事の見出しが載っていた。
・斉藤名人、奇跡の逆転で名人防衛に好発進!三コウ出現の熱戦を制す。
・鳴門女流が熱愛!?相手は芸能人との噂も!?
・将棋会館改築の是非。若手とベテランで意見分かれる「年寄りは何も分かっていない」
・日本囲碁界は中韓に勝てるのか。現役タイトルホルダーに問う。
・第三回異種頭脳格闘技戦!囲碁新人王VS将棋新人王 異色の七番勝負開幕。
・佐々木棋聖、宿敵を語る「T名人は相手が勝手に転んでるだけ。俺の方が強い」
・囲碁棋士採用試験、去年との変更点など。
一目、興味を惹かれないニュースばかりだな、と感じた。しかし、そこでふと、戸谷アキラの顔が浮かんだ。
「ふざけるな」
奴が自分に放った言葉は、今だ耳について離れない。何が「ふざけるな」だ。こっちがどれだけお前との対局を楽しみにしてたと思ってんだ。それをお前は・・・
カゲルの心に、再び火がついた。
あいつに、一泡吹かせてやりたい。あいつを、あっと言わせてやりたい。あいつに、勝ちたい。勝って、認められたい。
カゲルは見出しをクリックした。
「満足したか」
「ええ、とっても」
帰り道、一星は穏やかに柔らかい微笑を浮かべていた。久しぶりのカゲル以外との対局に満足・・・しただけではないらしい。
「でもまさか、お前が負けるなんてな」
一星は<タラ沖屋の親>に敗北した。カゲルは、まさか、と思った。一星が負けるところを初めて見た。こいつより強い奴がいるのか。カゲルは気が遠くなる思いだった。
一方、一星は満足していた。自らを越えた存在を見つけ、目標を見つけ、心から充実を感じていた。
「またいつか、彼のような達人と対局したいものです」
凄まじい向上心だ。カゲルはまた一星に感心した。これだけ強いのに、まだ強い相手と対局したいとは。
しかし、その心は分からないでもなかった。カゲルにも目標の相手がいた。
戸谷アキラ。
目標がいるから頑張れる。その気持ちは、カゲルにもよく理解できた。
「なあ、ちょっと相談があるんだけど」
「なんですかカゲル?」
カゲルは些か唐突に、自分が今日考えたことを一星に告げた。戸谷アキラに勝ちたいこと、そしてそのために、プロ棋士になりたいこと。などを語った。
それは、彼が人生で初めて抱いた夢であった。
「・・・駄目ですね。私は反対です。それは軽率というものです」
一星は、断固としてカゲルの夢を否定した。
「なんでだよ。前から戸谷の奴に勝ちたいとは言ってただろ?あいつと対等になるには、プロにならないといけないんだ。そして、俺はあいつに勝ちたいんだ」
一星はまったく聞く耳を持たなかった。しかし
「なあ、お願いだよ。お前の力が必要なんだ。一星は強いんだろ?戸谷に勝つには・・・一流の碁打ちになるには、お前の助けが必要なんだ。お願いだよ」
泣きそうな目で必死に訴えられると、一星は折れるしかなかった。彼は少年にはどうしても甘い。
「分かりましたよ。しかし、これからはより厳しく指導しますよ?」
一星がやや恥ずかしがりながらそう答えると、カゲルは大喜びした。手を広げながら無邪気に喜ぶカゲル。そんな姿を見て、一星は心がずきりと痛んだ。彼は、カゲルがプロになれるとは思っていなかった。カゲルの才能云々は問題ではない。今、カゲルからプロや院生の制度を聞かされ、正直、難しいなと感じていた。現代の囲碁界は非常に競争が激しいらしい。そんな中で、カゲルが生き残れるとは思えなかった。
「ところでさ、さっきの一星の棋譜」
彼はまた唐突に話を戻した。
「私が負けた対局ですか?」
「そうそう。強かったな、相手。まさか一星が負けるなんてなあ。プロレベルのアマを次々になぎ倒してたから、てっきりお前はプロのタイトルホルダークラスだと思ってたんだけど・・・いや、もしかして本当にそうなのかも。ただあの<タラ沖屋の親>ってのがタイトルホルダーを超えて・・・いや、それらの頂点の・・・」
「たいとるほるだー?」
「ああ、違うんだ。こっちの話。それよりさ」
カゲルは、先の一星の対局について、一つの見解を示した。
九十二手目の一星の手に対し、その修正案を指摘したのだ。
局面は終盤であり、それは勝敗に直結する指摘だ。カゲル曰く、そこで手を変えれば・・・一星が勝つ筋もあったのではないかという。
その指摘に、一星は唖然とした。
・・・まさか・・・そんな・・・。
一星が何も言い返さないでいると、カゲルは何でもないように、一星を見つめ返す。
・・・なるほど・・・そういうことか・・・。
一星は、妙に納得できた。
「な?こうすれば、お前が勝ってたんじゃないかな。そうだろ?」
もう一度自説の是非を問うカゲル。彼の表情には一転の曇りもなかった。彼の指摘には答えず、一星は空を仰ぎ、そして、囁いた。
「プロを目指す・・・か。うん・・・いいかも・・・それが最善かも・・・知れませんね」
彼は、先程の自分の言葉を撤回した。しかしその声は細く、前を歩くカゲルには届かなかった。