もはや、局面の優劣は誰の目にも明らかであった。
昇は、心の底から押し出てくる悔しさを、不屈の精神で何とか抑えつけていた。どちらがこの対局に勝つのか、それは、もはや分かりきっていた。しかし、勝ちそう、と、勝ち、は別である。例えほとんど自分の負けが決まっていようとも、少しでも勝つ可能性があるのなら、投げるわけにはいかない。
昇は、この対局に勝っても負けても、既に成績一位でプロ棋士になることが決まっている。
しかしそれでも勝ちへの執念を消さないところに、彼の強さがあった。
退藤カゲルは緊張していた。それは対局前の緊張と種類が似ていた。もうすぐ自分が勝てるからこそ、これを勝たねばならないという、責任感が湧いてくる。それは、勝つことへの緊張だった。
一方、落ち着いている自分もいた。カゲルは、この舞台に立つまで・・・プロのドアを叩くまで、自分が人一倍努力したことを確信していた。血の滲むような、と云って言い過ぎではないと思っていた。だからこそ、自分が勝つのはまったくおかしくなく・・・従って、俺にはプロになる資格があるのだと信じていた。
いや、資格ではない。義務なのだ。
自分がプロになることは、義務だ。自分の夢を叶える為の自分のための義務。カゲルは自身にそう言い聞かせることで、勝ちへの震えを抑えていた。
手が進む。
手が進むにつれて、具体的な勝ちの形が見えてくる。それが現実に、盤面に現れ始めると、両対局者の気持ちにも、少しずつ変化が生じてくる。
両者の心は静かに冷めていった。
負けがすぐそこまで迫った昇は、冷めていた。すでに自分がどういった理屈で負け、またなぜ負けたのか、大体の理由も考えつくしてしまった。抵抗する術もなく・・・従って、彼の心は冷めていた。
勝ちがすぐそこまで迫ったカゲルは、冷めていた。すでに自分がどういった理屈で勝ち、また相手側の敗着がどの手だったのか、大体の検討も済ましてしまっていた。
しかし一方で、カゲルの心の底から、沸々と、別の感情が湧き出てきた。
それは喜びだった。
もう自分の勝ちに決まっている。勝負が決まったことに対するクレバーな気持ちと共に、勝ったことに対する喜びの気持ちもまた存在していた。
まだ勝ちになってはいない。最後まで油断はできない。
気を引き締めなおし、既に読みきった勝ち筋をまた改めて読み直す。その作業を行うと同時に、様々な思いが胸を通り過ぎていく。
見ているか、戸谷。
カゲルは頭の片隅で、ライバルの姿を思い浮かべた。黒髪おかっぱ、凛とした顔付きに他者を寄せ付けない一種神々しい雰囲気を纏った同い年のライバル。戸谷アキラ。今から半年前、戸谷アキラは、既にプロ棋士となっていた。プロ入りを決めた瞬間の全国ニュースの映像は、今でもカゲルの脳裏に焼きついて離れない。
戸谷、俺はプロになるぜ。そしたら、お前と同じだ。ちょっと遅れたけど、俺もお前と肩を並べるんだ。
お前と出会って四年経った。この四年間。血の滲むような努力を続けてきた。この努力は、全てお前と対等になるための努力だったんだ。毎日一星の熱血指導を受け、様々な道場を訪問し、部活に入って強敵たちと凌ぎを削り、そんな回り道をしたけれど・・・
部活、部活か。そう言えば、三橋はあれからどうしたのだろう。
「俺のことは見捨てるのかよ」
カゲルの脳細胞のどこかで、彼の声が響いた。部活を辞め、プロの道を志すと宣言した時、三橋はそれに大反対した。そのとき三橋が放った言葉が、カゲルには忘れられず、いつまでも・・・今日までも、今だ心残りだった。
三橋、俺はプロになる。強がりやハッタリじゃない。本当にプロになるんだ・・・そしたら、お前は喜んでくれるか?
語りかけようにも、今ここに三橋はいない。今カゲルの周りにいるのは、対局者の昇。常に彼を支え続け、今も心配そうに局面を注視する藤原一星。この二人だけだった。
三橋。俺は今でも、お前を親友だと思ってるよ。お前はどうなんだ?
カゲルは、三橋と決別した日に思いを馳せた。