「俺に負けるようなら、プロなんて諦めろよ」
三橋はそういって対局の準備をすると、自らの先手で対局を始めた。
「無茶苦茶ですよカゲル。付き合う必要なんてありません」
一星はカゲルを引き止めたが、カゲルは三橋の提案を受け、二手目を返した。
カゲルはプロ棋士になる決意をした。しかしプロ棋士を目指す以上、もはや学校の部活を続ける暇などない。その旨を三橋に告げると、三橋は反対したが・・・やがてカゲルがどうあっても意思を曲げないと悟ると、対局を申し込んできた。
勝ったらプロを目指してもいい。負けたらプロは諦めろ。
「そんなこと決める権限、三橋にはありません。大体、カゲルが辞めても部が無くなる訳じゃありません。三橋は駄々をこねているだけです」
一星はカゲルの隣で何度も抗議したが、カゲルはそれを受け付けず、ひたすら手を進めていった。
三橋は元々、賭け対局で小銭を稼いでいた。しかし、そこで大人のトラブルに巻き込まれそうになったところ、カゲルと一星に救われ、そして部に入ったのだ。
カゲルが入部したのが一年の春。三橋はそれから二週間後にカゲルに誘われ入部した。
彼らは、一年生の春から現在、三年生の春まで、丸まる二年間、部活に勤しんだ。
三橋は最初、誰とも打ち解けようとしなかった。入部したのも、賭け対局を学校にばらすとカゲルに脅されたためであり、仕方なく入部したにすぎなかった。
三橋は変わった。入部当時、三橋は、筒見やカゲルよりはるかに棋力が高いことを鼻にかけ、彼らを馬鹿にしていた。先輩の筒見を酷い言葉で罵ったこともあった。しかし、部の存在が彼らを結びつけた。同じ特技を持つ者が、同じ方向に切磋琢磨し、宿敵へ挑戦する。
筒見が卒業する時、三橋は、確かに彼の卒業を悲しんだ。また、カゲルにはじめて負けた時、彼は悔しさより嬉しさを覚えていた。
だからこそ、彼はカゲルを許せなかった。信頼していた友人が、部を辞めると言い出して、彼は怒った。
しかし。
怒り、の中に、少なからず悲しみの感情がまぎれていることを、彼は自覚し、またそれが怒りの火をより一層燃え上がらせた。
カゲルも、そんな彼の心情に薄々勘付いていたから、彼の理不尽な要求を呑んだのだ。
「俺がここで負けたら、俺はその程度の奴ってことだ。そうだろ」
カゲルは三橋に聞こえないように、そう囁いた。その囁きには、一星に対する申し訳なさも言外に含まれていた。
一星は、もう何も言わなかった。彼は勝負の達人である。二人の思いのぶつかり合いは、対局でしか解消できないことを、彼は悟った。
バシッ。
序盤早々、数手で三橋は仕掛けた。
それは、陣形境界でのじゃれあいや、様子見や、陽動では決してなかった。
この一手の是非が勝敗に直結する。それだけの重みのある手であった。
三橋は性格は荒っぽいが棋風は丁寧だ。常道に反した手を嫌い、正攻法の範囲内で手を選ぶ。
しかしこの一手は違った。
これは邪道の一手であった。手の探りあいや駆け引きを無視した、武装した兵士に素手で殴りかかるような、まったく感性を疑う手であった。
何て乱暴な手だ!
そう感想を抱いたのは、何も対局相手のカゲルだけではない。その手を選んだ三橋自身もまた、なぜ自分がこの手を選んだのか、疑問を覚えた。
しかし、その疑問はすぐに解消された。
自分がこの手を選んだのは、動揺や見栄に起因しない。これは、目の前の敵、カゲルに対する挑戦なのだ。彼の壁になるために、俺は無意識にこの手を選んだのだ。
彼の自己分析は的を射ていた。
元来、プロは定跡に拘り、アマチュアはそれに拘らない傾向にある。それはなぜか?
定跡がはずれたときの勝率が、前者と後者では段違いだからだ。
定跡をはずれたとき、多くのプロはその邪道を咎めきる。一方、アマチュアは、それを咎めきれない場合も多い。それは暗記力ではなく純粋に棋力に因るものである。つまり三橋は―
プロを目指すならこの手を咎めてみろ
―と云っているのである。
頭がカッとなった。三橋の強引な仕掛けに、カゲルは思わず手拍子で次の手を繰り出しそうになった。売られた喧嘩はすぐさま買って、そして一気呵成、自分の勝ちに結び付けてやろうと思った。
しかし、すんでのところで手を引っ込め、熟考した。
俺はこの程度でプロを目指すのか?
アマチュアはしばしば定跡を無視する。そして無視された側のアマチュアは、では殴り合いだと攻め合いを画策し、戦線は無秩序に拡大。盤面は地獄絵図へと変わる。
それは駄目だ。
カゲルは冷静になった。
一手のミスを咎めてみせる。それは棋士らしい志だ。でもそれは、攻め合いで叩き潰すという意味ではない。確実に得できる率の良い手を返し、徐々に相手の無理を指摘する。そんな手を探さないといけない。
スッ。
盤面を滑らすように、カゲルが次の一手を進めた。
それは、大人の手であった。
いやだ、攻めたい、早く戦おう。そうワガママを叫ぶ子供を、まあまあ、と宥めつかせる手。宥めつつ、自分だけポイントを稼ごうとする、狡猾な手。
こんな手を思い付くようになったのか・・・
三橋は息を呑んだ。
その一手は、暴れまわる子供に対する大人の一手。優しいようでいて・・・上から目線で見下ろす、上位者の一手。
両者が成熟したプロ同士なら、この瞬間、勝敗は決しただろう。それほどカゲルの一手は完成度の高い・・・盤上この一手。まぎれもない最善手であった。
しかし、三橋もカゲルも、尻の青いアマチュアである。
ここから、まさにチミドロの戦いが始まった。
三橋の攻めは片道切符であった。仕掛けた瞬間から、もう戻っては来られない。それが止まった瞬間、負けが確定する。
しかし無謀ゆえか、その手は恐ろしく冴えた。
あの手この手を使い、時には小賢しい手で誤魔化し、とにかく勢いを殺さず、攻め続ける。走り続けないと負けると分かっているからこそ、三橋は必死に、走り続けるための最善手を選び続けた。
一方、元来が攻め棋風のカゲルは、三橋のなりふりかまわぬ攻めに手を焼いた。
局面は常にカゲルがリードしている。しかし、良かろうが悪かろうが受けに回るしかない展開は、カゲルの得意とするところではなかった。
自分の得意な分野でだけ力を発揮すれば良い。それはアマチュアの考えである。
自分の得意分野でなくとも、勝つためにはあらゆる展開を受け入れそれを乗り切る。
これがプロの、王道の考え方である。
そういう意味で、この対局は、カゲルがプロにふさわしいかどうかを見定める試金石と云えたかも・・・知れない。
手が進む。
三橋の表情が苦悶に歪む。カゲルは徹底して受けに回り、三橋の攻めを抑え込み続け、あと少しで完封という局面まで漕ぎ付けた。
ふと、ほとんどノータイムで手を進めていた三橋が手を止めた。
盤面、先手三橋の主張点はほとんどなく、勝負所を見出すことすら困難であった。
投了だろうか?
カゲルは盤面から顔を上げる。
三橋は、泣いていてた。
前髪に隠れカゲルからはその表情を知ることはできなかったが、頬を伝う幾筋もの透明な線は、涙に違いなかった。
いつものカゲルなら、何泣いてんだとからかうか、逆に、大丈夫かと心配しただろう。
しかしカゲルは馬鹿にもしなければ心配もしなかった。
ただ共感していた。
カゲルには、三橋が涙を流す理由が分かっていたのだ。
もし、自分がプロになるなんて言い出さなければ、あるいは、三橋がもうちょっと意地っ張りでなかったら、こんなにも悲しむ必要はなかっただろう。いずれの場合も、これまで通り、親友でい続けることができただろう。しかし、それらは両者譲ることのできない絶対の意思だ。カゲルには、それが分かっていた。
だから悲しいのだ。
盤面に水滴を落としながら、三橋はやっと手を伸ばす。
パチ。
カゲルはポケットからハンカチを取り出すと、盤面に落ちた涙を静かに拭く。三橋はそこではじめて、自分の涙が盤を濡らしていると気付き、急いで手の甲で涙を拭った。
パチ。
カゲルが打った手は、決め手であった。それは自分の勝ちを絶対に離さない、絶対に逆転を許さない、あまりにも手堅い決め手であった。
「・・・参りました」
三橋は丁寧に投了の意思を告げると、静かに部室を出て行った。