「中学の時に喧嘩別れした三橋君って子がいまして、だからまず三橋に。いや、今のコメントは忘れてください・・・そうですね。これまで支えてくれた両親、そして、本因坊算砂に伝えたいですね」
昇に勝利したカゲルは、プロになる資格を得た。対局に勝ちプロ入りを決めた途端、ボイスレコーダーを持った業界の名物記者が近付いてきて、さっそくカゲルにインタビューを頼んだ。
プロ入りおめでとうございます。今の喜びを、まず誰に伝えたいですか?
そう質問した記者に、カゲルは上のように答えた。
自然に三橋の名前が出てきて、自分でも驚いた。彼の名がこの場にそぐわないことぐらい、分かっているのに・・・
「本因坊算砂ですか?退藤先生は算砂の棋譜を勉強したと?」
幸い、記者はカゲルの失言には触れなかった。
「おかしいですか?算砂先生に学ぶのは」
「いやおかしくはないですが・・・しかし珍しいでしょう」
「確かに現代とは布石が違いますから、その辺りはあまり参考にならないかもしれません。しかし終盤は超一流ですし、何より空気感というか、手の雰囲気が好きなんです」
「現代に無いものを勉強できると?」
「ええ、そうですね。今の先生方もとてつもなく強いですが、大昔の先生方も負けてませんよ。アマチュアの方には、ぜひ算砂先生の棋譜を勉強していただきたいですね」
「はあ、しかし算砂ですか・・・・・・失礼。プロ棋士の先生相手に、僭越でした」
「いえ、いいんですよ。確かに算砂を特別熱心に勉強している人は、僕以外中々いないでしょうから」
「そうですよね・・・では次の質問に移ります。先生のライバルは誰ですか?やはり、同時にプロとなった昇先生ですか?」
質問を受けた途端、カゲルは、体温がぐっと上がったのを感じた。
そうだ。ついに俺は目標へ一歩踏み出したのだ。
「戸谷アキラ先生ですね」
カゲルは即答した。
「戸谷・・・え・・・?戸谷ってあの戸谷ですか?
先生、ライバルを訊いてるんですよ」
「承知しています。ライバルは戸谷アキラ。それ以外考えられません」
「カゲルく・・・いえ先生。あの、本気じゃないですよね?」
「まさか。本気ですよ。僕は戸谷アキラを倒すためにプロ棋士になったんですから」
そこまで聞いて、記者は笑い出した。どうやら彼は、カゲルの言葉をジョークだと判断したらしい。
今はそうやって笑っているがいいさ。不貞腐れつつも、カゲルは記者に対し、失礼な奴だとは決して思わなかった。
確かに、俺と戸谷は立場が違いすぎる。冗談にしか聞こえなくても無理はない。
ただ、記者さんよ。このインタビューは覚えておいた方が良いぜ。二、三年後にでも、あんたは、俺が本気だったと知ることになる。
カゲルはそう決意を新たにすると、引き続きインタビューに答え続けた。
軽いインタビューを終えると、祝勝会となった。院生の幹事が主催となり、プロになったカゲルと昇を高級レストランへ連れて行った。
料理を堪能したカゲルは、帰路についた。
「覚えてろよ。名人になるのは僕だからな」
別れ際、昇はカゲルにそう宣言した。カゲルが曖昧に返事をすると、昇は苛立ちながらすぐ帰っていった。
「名人か。志が高いなあ」
「高いなあ、じゃないでしょう。カゲルも名人目指して頑張りましょう」
「そりゃ、名人にはなりたいさ。勿論本因坊にもなりたい。一星にもまだまともに勝ったことないし・・・。
でも、まずは目標を達成しないと。勝ちまくって、戸谷を倒すんだ」
「なんにしても、まだまだ強くなる必要がありますね」
「そうだな!」
一星は、はじめてカゲルから彼の夢を聞いたとき、それは不可能だと予想した。そんなことできるわけがないと思った。戸谷に勝つことは勿論、プロになることすら難しいと判断した。
しかし今、カゲルは、プロになってみせた。
まだまだ、道は険しい。しかし、不可能ではないかもしれない。戸谷アキラ・・・ライバルと肩を並べ、またそれを打ち負かす。その目標を、カゲルなら、達成できるかもしれない。
一星はカゲルの目標設定を褒めはしなかった。棋士たる者、その道の名人を目指すべきである。しかし、カゲルの成長の早さには感心するしかなかった。彼なら、さらなる高みに届くかもしれない。そう思わせる凄みが、カゲルにはあった。
カゲルは、これからどうするかについて一星に語った。どうライバルを倒してやろうか、その夢について、夜道を歩きながら話し合う。
「まずあいつには同じフィールドに来てもらわないと・・・ふぃーるどとは何かって?。だからあれだ、夢の舞台だよ。
ただ、これは俺の勝ちっぷり次第かもな。戸谷はプロの中でもとてつもなく強いみたいだから、こっちがひたすら勝ち進めば、勝手に舞台は・・・夢の舞台は整う」
「勝ち進むことが、一番難しそうです」
「そうだな。ある意味では、戸谷に勝つより困難だろう・・・でもさ、自分で言うのもなんだけど、俺の成長ってチョー早いじゃん?」
「本当に自分で言うことではありませんね」
「だからさ、タイミングさえ合えば・・・焦点をきちんと合わせれば、きっと大丈夫だと思うんだよな」
「・・・・・・楽観は良くありませんが、そうですね。カゲルなら、きっと大丈夫です」
「だろ?」
雑談を続けながら夜道を進んでいくと、前から、誰かが歩いてきた。
その影を見て、カゲルは、会話を止めた。同じく一星も、前から来る人物に気が付き、固まった。
二人は揃って絶句した。どうやって目標を達成するか話していたら、その目標が突如現れたのである。
二人が立ち止まって動けずにいると、それに構わず、その人物はテクテクと歩みを止めなかった。
距離が近付くにつれ、その人物をはっきり目視できるようになった。
黒髪おかっぱ、凛とした顔付きに他者を寄せ付けない一種神々しい雰囲気を纏った同い年の・・・カゲルの、ライバル。
「ふざけるな」
カゲルに激昂した時から、その外見は変わっていなかった。いや、カゲルには、変わっていないように見えた。カゲルが最後に直接会ったのは今から二年前。あの頃と比べると背は少し伸び、また顔はぐっと引き締まり、より大人びた外見へと変わっていた。しかし、カゲルには、変わっていないように見えた。それは、カゲルもまた成長したからか、あるいはその独特な雰囲気に寸分の違いもなかったからか、何に起因するかは定かではない。
戸谷アキラは、退藤カゲルの前に姿を現した。
カゲルが立ち止まって戸谷をぼーっと見つめていると、戸谷はそれに気付き、ふと歩みを止めた。しばらく訝しげににカゲルを観察していたが、やがて何かに気付いたように「あっ」と声を上げると、再び歩き始め、そのままカゲルの横を通り過ぎようとした。
「待てよ」
戸谷とカゲルがすれ違った瞬間、カゲルは戸谷の腕を掴んだ。戸谷はその腕を払おうとしたが、カゲルは手に力を入れてそれを許さなかった。キッと戸谷がカゲルを睨むと、カゲルもまた戸谷を睨み返した。
「何か用か。退藤」
カゲルは、戸谷の声を二年ぶりに聞いた。その高く透き通った声もまた、二年前とまったく変わっていないように感じた。
「苗字は覚えていてくれたんだな」
「・・・いや、名前も覚えているよ。カゲル、だったかな」
ライバルが自分のフルネームを覚えていたことに、カゲルはちょっと嬉しくなる。
「何しろ、あんなに落ちぶれたやつは生まれて初めてだったからな」
こいつ・・・カゲルは頭に血が昇り、奥歯を噛み締めた。
いつもいつも、俺の神経を逆撫でしやがって。
「確かにあの時・・・中学の時の俺は、弱かったさ」
もう逃げないだろうと悟り、カゲルは戸谷の腕から手を離した。
「弱かった?過去形だね。今は強いとでも云うのか?」
戸谷は強い口調でどこまでもカゲルを蔑む。
カゲルは、今やっと、ライバルの苦悩に気付いた。
こいつは、強いライバルが欲しかったのかもしれない。
俺は戸谷のおかげで強くなれた。ライバルがいると、人は強くなる。インターネットで好敵手に出会った一星も、それに三橋も、みんな、ライバルの発見を喜んでいた。
戸谷も同じだったのではないか?
戸谷も俺に・・・一星の力を借りた俺に負け、悔しいと同時に、嬉しかったのかもしれない。
そして、再び対局したとき、俺のあまりの弱さに、奴は失望した。しかしその失望は、寂しさを伴うものだったのかもしれない。ライバルが、見違えるほど弱く落ちぶれてしまった寂しさ。
それはあまりにも残酷で腹立たしいことだろう。
カゲルは、自分の状況に置き換えて考えてみた。今、再び会った戸谷は、あの頃と何も変わらない。俺はそれに安堵したが、もし戸谷が変わってしまっていたら?プロにすらなっていなかったら?
ライバルの消失。それは、人の心に深刻な影を落とす。
「ふざけるな」
その言葉の真意が、今のカゲルには理解できた。
ならば、戸谷に見せてやらねばならない。
ライバルが復活したところを。自分が、強くなったところを。
「プロになったぜ、俺は」
唐突な告白に、戸谷は目をぱちくりさせる。
「お前は半年前にプロ棋士になったんだろ。
でもな、俺もプロになったぜ。今日から俺は、プロの碁打ちだ」
「な・・・なにっ!」
戸谷は大きく狼狽した。口をポカンと開け、目も見開き、最大級の驚きを露にした。
「そ、そんなはずないだろう。だって君は」
「嘘だと思ったらスマホでもケータイでもいいから見てみな。もうプロ試験の結果が更新されてるだろうぜ」
戸谷はポケットからすぐさまスマートホンを取り出し、詳細を調べた。そこには、カゲルが囲碁のプロ棋士になった事実が示されていた。
「ま・・・まさか本当なのか・・・信じられない」
戸谷はスマートホンの画面と、目の前に立つカゲルの顔とを交互に見やった。
「・・・・・納得できないか」
驚くのも無理はないと承知しつつも、あまりにも自分のライバルが驚きすぎるので、カゲルは少し悲しくなった。
「そりゃ、納得なんて・・・いや、しかし・・・受け入れるしか、ないか」
戸谷は乱れた呼吸を整えると、やっとのことでその事実を認めた。
「君は、プロ棋士になったんだな。正直驚いているが・・・それより、おめでとう。これは凄いよ」
やっとライバルが自らの出した結果を認めてくれた。カゲルはほっと息を吐く。
「凄くなんかないさ。戸谷、お前の方が半年も先にプロになってるんだ。俺なんか大したことないさ」
「・・・いやいやいや。それとこれとは関係ないだろう。全然」
「いや、関係はある。俺はお前を倒すためにプロになったんだからな」
「へ?」
いつになく間抜けな声を出して、戸谷は大きく首を傾げる。その仕草がおかしくて、カゲルは笑みをこぼした。
そして、戸谷の前に右手を差し出し、握手を求めた。
「俺はお前を生涯最大のライバルだと思ってる。はじめて会った時から、ずっと。だからお前と並ぶため、必死で努力して、ここまでやってきた。
まだ対等だとは思わないさ。でもお互いプロ棋士になったんだ。これから、よろしく頼む」
「・・・ええっ」
戸谷は握手の要求にたじろいだ。
しかし、カゲルの真剣な目を見ると、表情を整え、背筋を正し、その握手に応じた。
「ああ、お互いプロ棋士だ。こちらこそ、よろしく頼む」
まだ、カゲルの夢は達成されてはいない。しかし、もう、決して不可能ではなかった。それは手の届くところにあった。
戸谷の細い手をがっちり握り、カゲルは一層想いを固めた。俺はこいつに勝つ。同じプロ棋士としてこいつに勝つ。勝って、そして、俺のことを認めさせてやる。
彼の思いは、後に叶えられるのだが。しかし、この時点でそれを知る者は、誰一人としていなかった。