笑い声が聞こえる。
倩兮(けらけら)という、甲高い笑い声。
随分と盛り上がってるらしいな、隣は。
こっちまで笑い声が聞こえるなんて、滅多に無い事だ。
まあ、それはとりあえずどうでもいい。
私が今やらなくちゃいけないのは、夕飯の支度だ。今日は帰りが遅くなっちゃったから手早く済ませたい。
「今夜は何を作ろうかなー」
冷蔵庫の中身とにらめっこ。
料理が得意とは言っても、毎日毎日手の込んだものを作る訳じゃない。有り物で適当に作ったりもする。
まあ、料理が得意だからこそ、そういう事が出来るんだとも言えるけどな。ふふん。
あれっ、何だろう。買った覚えの無い食材がある。
明太子だ。
しかもこれ、めちゃくちゃ良いやつじゃないか。
まほが買って入れたのかなあ。いや、でもまほが入れたにしちゃ冷蔵庫の中が荒れてない。
変な言い回しになるけど、まほは冷蔵庫が下手だ。いじったらすぐに分かる。
ううん、あと可能性としては隣に住んでるダージリンだろうか。
まあ、なんかあった時のために互いの部屋の鍵を預けあってるから可能っちゃ可能だ。でも、流石に留守の間に出入りはしないだろう。
そもそも、わざわざこっちの冷蔵庫に明太子を入れに来る意味も分からない。
また、笑い声が聞こえた。倩兮。
その声に気を取られ、思考が一瞬中断される。
まあ、考えても分かる事じゃないんだけど、『中断された』という事によって何だか余計に混乱する。
ううーん、分かんないなあ。使っちゃっても良いんだろうか。
「ただいま」
「うわあ、びっくりした」
後ろからすすっと腰に腕を回された。
明太子と笑い声のせいで、帰ってきた事に気が付かなかったよ。
「おかえり、まほ」
まほは、ただいまあ、と珍しく間延びした声で繰り返しながら頬擦りをしてきた。
なんだなんだ、帰ってくるなり抱き着いたり頬擦りしたり。嬉しいけどさ。
ん、酒の匂い。どっかで飲んできたのか。
「うん、隣に顔を出したら飲まされた」
そう言って、まほは少し疲れたような顔をした。
それに合わせるように、隣の部屋からまた倩兮という笑い声が聞こえる。
倩兮というよりはもう、ゲラゲラって感じ。
「カチューシャとノンナが来ててな、随分と賑やかな事になっている」
ノンナのハイエースが停まっているのが見えたらしく、それで先日の礼を言いに顔を出したらカチューシャに捕まった。
そう言って、まほは酒くさい息を吐いた。
そっか、ノンナが来てるなら私も顔を出さなきゃ。
ノンナは冬に、私が失くした文庫本を見付けてここまで届けに来てくれた。お礼をしなきゃと思ってたんだけど、色々とすれ違いがあって、直接は会えてなかったんだ。
それにしても結構飲まされたっぽいなあ。
グラスにミネラルウォーターを注ぎながら、何やってんだ隣で、と訊いた。
まほが私の腰に腕を回したまま一向に離れてくれないので、動きづらい。
「録画の、笑ってはいけないやつを観てる」
水を飲むために漸く手を離したまほは、それを一口だけ飲んだ。
笑ってはいけないやつ。
ああ、年末にやってる、笑ったらお尻を叩かれるやつか。
「うん。それを観ながら、笑ったら飲まされるという余興をやってる」
た、たちの悪い事を。
待てよ。
って事は、さっきからひっきりなしに笑い声が聞こえるけど、あいつらはその度に飲んでるって事なのか。
「うん、奴ら、もうベロンベロンだ」
「お前もだろ」
あいつが容赦なく笑うから、そのせいでこっちまでつられるんだ、とまほはうんざりしたような顔をした。
まあ、仕方ないか。
よしよし、えらい目に遭ったなあ。
頭を撫でてやると、まほは気持ち良さそうに喉の奥で『んん』と唸った。
直ぐにでも、ご飯を出してやりたいんだけど、残念ながらまだ準備中。
「ごめんなー」
「気にするな。私は少し休む」
言うが早いか、まほはコートを脱いでソファに横になった。
年度の末はどこも忙しくなるもんなあ。それに加えて、今日はカチューシャに飲まされたのが堪えたみたいだ。
横になったんだか倒れたんだか分からない姿勢のまま、まほはまた間延びした声を出す。
千代美い、と呼ばれた。
「なんだよ」
「ちゅーして」
ゆるっ。
こんなまほ初めて見た。どんだけ飲まされたんだか。
はいはい、と返事をしてキスをしてやる。
くい、と顎を上げて私を待つまほに覆い被さるようにして唇を重ねた。
ちょっとだけだからな。
待ってましたとばかりに侵入してきた舌にびっくりして、んふ、という声を漏らす。
まほが絡めてきた舌はまだ酒の匂いがして、つい飲み下した彼女の唾液も、酒の味で。あっ、美味しい。
なんだろう、この香り、桜っぽいな。
じゃなくて、こら。
唇を離して軽く小突いて睨み付けると、まほは満足したように、にへっと笑って目を閉じた。
もう、何もかもが不意討ちで、心臓がバクバク言っている。
へなへなと、その場に座り込んでしまった。
えええ、なにこの可愛い生き物。まほって泥酔するとこんな風になるのか。
酒を無理に飲ませるのは良くないけど、カチューシャにちょっとだけ感謝しよう。いいこと知った。
早くも寝息をたて始めたまほに、毛布を出してきて掛けてやる。
不意討ちであんなキスをしておいて、いい気なもんだ、全く。
明日は休みだし、起きたら相手して貰おうかなー。
さて、気を取り直して。
夕飯の支度をしようか向こうに顔を出そうか。先に顔を出しちゃいたいけど、捕まったら面倒くさそうだなあ。
そういや明太子の謎はまだ解けてないや。まほが寝ちゃう前に一言訊いても良かったかな。
考えていると、インターホンが鳴った。
「済みません、少しこちらで休ませて頂けませんか」
あちらに顔を出すまでもなく、向こうからノンナがやって来た。
酔い潰れたらしい、ぐったりした誰かを背負っている。客はカチューシャとノンナだけじゃなかったのか。
「まほさんが来た時にはもう隅の方で転がっていましたから、置物か何かだと思われたのかも知れません」
あーあー、気の毒に。
二人とも、カチューシャ達の飲み方に付き合いきれず避難してきた、って所かな。
ノンナは運転だからそもそも飲むわけには行かないだろうけど、今のカチューシャが相手じゃなあ。
どうぞどうぞ、と言って二人を招き入れた。
「済みません、ご迷惑を」
「気にするなよー」
元々ノンナには借りがあるんだ。
とりあえず、背中のその子を寝かしてやるのが先か。ああ、でもソファにはまほが寝てるんだった。
という訳で寝室へ案内する。
「そこに寝かせてやってくれ」
「ありがとうございます」
よいしょ、とノンナがその子を背中から降ろす。
その子の顔を見て驚いた。
同時に、うちの冷蔵庫に明太子を突っ込んだ犯人にも思い当たる。
久し振りだなあ。
こんな所で何やってんだよ、お前。
隣の部屋からまた、倩兮という声が聞こえた。