船乗りの幽霊
船の幽霊ではない
みほと二人暮らしのエリカ視点
全く、災難だったわ。いや、幸運だったと言うべきなのかしら。ううん、分かんない。
どっち、と断言することは出来ない。幸も不幸も一遍にやって来たような感じだわ。
ある、雨の日の夕方。傘を持って駅にみほを迎えに行く途中の出来事。
道路に飛び出した猫を助けようとして、車に轢かれそうになったところを、ある人に助けられた。
人だと思う、たぶん。
猫耳で金髪の、すごく綺麗な女の人。
その人が割り込んできて、車を止めてくれた。
素手で。
一言二言を交わしたような気もするけれど、正直言って現実味が無くてよく覚えてない。ちゃんとお礼言ったっけ。
その人はいつの間にか居なくなっていて、猫も勿論どこかへ行って。車の方は少し凹んだものの、結果的に怪我人が出なかったのを良いことに、そそくさと走り去ってしまった。
親切な誰かが通報してくれたらしく、程なくしてパトカーが到着したけれど、その時、現場には私一人。果たして一体、どう説明したものか。
猫を助けようとして猫に助けられたなんて、自分でも信じられない。
夢でも見たんじゃないかとさえ思った。
まあ、結論から言えばそれは夢でも何でもなく、現実だった訳だけど。
その人は、みほの知り合いだったらしく、彼女が連絡を取って確認してくれた。腕っぷしひとつで車を止めたのは、間違いなく、その猫田さんとやらであると。人だったのね。
ただし、残念ながらそれが分かった所で現場には何の変化も齎さない。周辺の防犯カメラでも調べれば、証拠になる映像が撮れているかも知れないけど、でもそこまですべきかどうかって考えると、うーん。
警察の人達も面倒臭そうにしている。
それもそうよね。『現場』とは言っても、怪我人は居ないし、物が壊れた訳でもない。まあ車は凹んだけど、その車は走り去った。現状、目に見える被害があるとすれば、弾みで尻餅をついた私のお尻が濡れただけ。
身も蓋もない言い方をすれば、もういいじゃん、という空気。
結局、私のお尻が濡れて、警察が面倒臭い思いをしただけでこの騒ぎは終わった事になる。
その後、珍しく自分から迎えに来てくれたみほ、更には偶然駅で一緒になったという、まほさんと安斎さんの二人と合流した。
「災難だったな。まあ怪我が無くて良かった」
「すみません、お騒がせしました」
久し振りにまほさんに会えたって言うのに、何と言うか、締まらないわね。災難と言うならそれが一番の災難だわ。
気を取り直し、合わせて四人でどこかへ食事にでも行こうかと相談する。
ただ、えっと、非常に申し上げ難いのですが。
「先に着替えて来てもいいですか」
「パンツ替えたいんだね、エリカさん」
「みほーーっ」
よりによって、まほさんの前で言わなくても良いじゃないの。
「あはは、仲良いなー」
「ふふ」
安斎さんが笑ってくれたお陰か、まほさんも釣られて笑う。ううん、笑って貰えたなら、良いのかしら。
ともあれ、パンツを替えるための一時帰宅を申し出る。
それなら折角だからと、まほさんと安斎さんをお招きする事に。というより、安斎さんがうちで夕飯を作ってくれる事になった。
あ、でも待って。
人を呼べる状態だったかしら、うち。
すると、みほが私だけに見える角度で手招きをしているのが見えた。
然り気無く隣に立つと、小声で指令が。
「エリカさん、先に帰って色々片付けてて。私は買い物で時間稼ぐから」
「りょ、了解」
ダッシュで帰宅。ひとまずパンツを替えた。
そんなこんなで最低限、リビング周りの体裁を整える。
雑誌、飲みかけのお茶のペットボトル、行きつけのお店からのダイレクトメール。明らかにゴミに見えても、独断で捨てるとみほが臍を曲げる事があるから、とりあえず纏めて寝室に放り込む。一通り掃除機もかけて、まほさんと安斎さんを無事に招くことが出来た。
安斎さんの料理は勿論絶品で、私達は揃って舌鼓を打ち、今は食後のゆったりとした時間。
「エリカもみほも、相変わらず楽しくやってそうだな」
「うん、エリカさんに振り回されながらだけど楽しいよ」
えっ、という私の反応を見て、きょとん、と首を傾げるみほ。
「どうかしたの、エリカさん」
「いやいやいや、振り回してるのはどう考えてもみほの方でしょうが」
「エリカさん酷ーい」
ああもう、酷いのはどっちだか。
「ふふ」
まほさんが私達のやり取りを見て笑った。
「何故だろうな、物凄く嬉しいよ」
「まほから見れば、妹二人が仲良くしてるように見えるんじゃないのか」
「言われてみればそうかな、そうかも知れん」
言って、また笑う。
当人は気が付いているのかしら、まほさんも笑顔が増えたわね。それはきっと、安斎さんのお陰なのかな。
嬉しいというなら、それはこちらも同じ。笑顔が増えるほど、まほさんが楽しく日々を過ごしている事が物凄く嬉しいです、私。
それにしても、妹かあ。
遠い存在に思えていたけど、いつの間にか近くなっていたみたい。
今の関係は昔より近いわね、確実に。
「エリカさん、お酒飲みたーい」
「また唐突な」
既に酔っ払ったようにしなだれかかって来たみほを手で押し戻す。機嫌良いわね。
うーん、お酒か。冷蔵庫にチューハイがあったような。
あったっけ、あった筈。
「人数分は無いよ」
ああ、そっか。ただ飲みたいんじゃなくて、酌み交わしたいのね。
それじゃあ、すぐそこのコンビニで買ってきましょうか。
「うーん、家飲みでもいいけど、もっと雰囲気ある所がいいかな」
「概ね賛成だが千代美は下戸だぞ」
「えっ、そうなんですか」
安斎さんを見ると、彼女は苦笑いで応えた。
偏見かも知れないけど、料理の上手な人がお酒を飲めないというのは結構、意外。
彼女の後輩のペパロニが蟒蛇(うわばみ)だから尚更、かな。蟒蛇というか、あの子はそれ以上の何かだわ。無限に飲むし。
さて、それはそれとして。外飲みで、お酒が飲めない人が一緒でも問題ない場所なんてあったかしら。ファミレスぐらいしか思い浮かばないけど、みほが嫌がりそうだし。
やっぱりコンビニで適当に買って来て家飲みにした方が気兼ねなく飲めるような。
あ。
気兼ねなく飲める場所、あったわ。
さっき部屋を片付けていた時に目に入った物が頭をよぎった。あのお店でも行きましょう。
「賛成~」
「馴染みの店でもあるのか」
問うまほさんに、えへへー、と意味ありげに笑うみほ。
彼女の友人が開いたバー。あそこなら気心が知れているから、お酒の飲めない人が一緒でも問題ない。
さっき寝室に放り込んだダイレクトメールを回収してきた。捨てなくて良かったわ。割引券ついてる。
「なんと言う名前の店なんだ」
「えっとね、『どん底』って言うの」
まほさんと安斎さんが、若干、引いたような顔をした。
にこにこと答えるみほの口から出る言葉としては、まあ、ね。でも良い店ですよ、どん底。
「それはそうと、みほ。ちょっと、はーってしてみなさい」
「はー」
うん。いつの間に飲んだのか知らないけど、お酒が人数分無いのはあんたのせいよ。