飛ぶ人。
UFOみたいなもの。
出港の汽笛が聞こえた。
「待っ」
叫ぼうとしたまほさんが、言葉を飲み込む。
まあ、気持ちは分かる。叫んでも仕方ない。
それに、あの学園艦に千代美さんが乗っているとも限らない。とは言え、未だ彼女が何処にいるのかは分からないけれど。
「あ、千代美」
「えっ」
まほさんは、艦上の何処かから手を振る千代美さんを見付けたらしく、腕を目一杯に伸ばして手を振り返している。
どんな視力をしてるのかしら、この人。
「さっきまで居た広場の辺りだ」
言われて目を凝らすと、あら本当。舳先の柵から身を乗り出して、特徴的な長い髪がぴょこぴょこと跳ねているのが僅かに見えた。ああ、事情は分からないけれど、退艦が間に合わなかったのね。
さて、どうしましょうか。千代美さんがあの学園艦を降りるには。
次の寄港日を待つというのが一番妥当ではあるけれど、まあそうなると早くとも向こう一ヶ月は待たなくてはならない。それに、また近くに寄港するとも限らない。
あー、陸へのボートを出してもらうという手もあるけれど、あれは手続きが面倒だし、何より物凄くお金が掛かるのよねえ。燃料代から何から全額負担だし。
益体もないことをぐるぐると考えていると、ペコが口を開いた。
「ダージリン様」
「なあに、ペコ」
「荷台に乗って頂けますか」
そう言って、ペコは何故かローズヒップの愛車、ハイゼット、つまり軽トラックを指した。
その荷台。
う、うーん。
何をする気なのか読めてしまった。出来れば乗りたくない。
けれど、有無を言わせない雰囲気のペコに気圧され、嫌々ながら荷台に乗る。ローズヒップは既に運転席に乗り込んでいて、すかさず車を発進させ、出港を始めた学園艦に向かってアクセルを思い切り踏んだ。
嗚呼。
「大丈夫です、ダージリン様。植え込みのある辺りを狙いますから」
「ペコ、あのね、そういう問題じゃなくてね」
「あまりお喋りをされると舌を噛みますわよー、お二方」
私のささやかな抗議は、ローズヒップの茶々によって遮られる。
段差を踏んだらしく軽トラックが大きく揺れて、ばこんと音を起てた。
「手荷物はこちらでお預かりします。お財布と、携帯電話だけはお忘れなく」
ペコはそう言って。
私の体を持ち上げ。
荷台から投げ飛ばした。
学園艦の上にある広場、千代美さんが居る辺りの植え込みを狙って。
そして、現在。
「ブラックでいいかな」
「ん、うん。ありがと」
長くなってきた陽も沈みかける頃。
奇しくも、さっきまでまほさんと二人で座っていたベンチに、今は千代美さんと座っている。
千代美さんは、見事に植え込みに引っ掛かった私を助け起こし、近くの自販機で缶コーヒーを買ってきてくれた。
ペコ宛に、無事に着地した旨の連絡を済ませ、缶コーヒーを受け取る。
「まさか飛んで来るとはなあ」
「私だって後輩に投げ飛ばされるなんて思わなかったわ」
そんな事はまあ、いい。
どうでもいいとまでは言わないけれど、とりあえずいい。
「ごめんな、面倒掛けて」
「いえいえ」
千代美さんの退艦が遅れた理由。
彼女が連れて行った迷子の母親が知り合いで、つい話し込んでしまったそう。だけど、実はその人は観光客ではなく、仕事のために学園艦に乗り込んでいた。なのでその人は『退艦』という発想が抜けていて、それに釣られて時間を忘れてしまった、と。
「コンビニの店長を任されたらしくてさ。それで、この学園艦の航行中、ここのコンビニで研修やるんだって」
「そう」
悪いけれど、あまり興味が無い。
貰った缶コーヒーも、開けずに手の中でころころと弄んでいる。
今の私達が直面している問題は色々ある。
今後どうするのか、差し当たってまず今夜はどこで寝るのか、いつ帰れるのか、私はどうして投げ飛ばされたのか、色々。
でもまあ少なくとも、投げ飛ばされた理由は何となく分かる。ペコは私の気持ちを汲み取ったのだと思う。お陰で、千代美さんと二人きりで話す機会を設けることが出来た。
決して積年の恨みをぶつけてきたとか、そういう事ではないと思う。思いたい。
まあ、そんな事よりも。
「怒ってる、か」
「ええ」
言ってやらなければ気が済まない事が、ある。
前置きを抜きにして、単刀直入に言った。
「何故あの時、まほさんを置いて行ったのよ」
迷子を保護した直後。
千代美さんは、まほさんの同行を断って迷子センターに向かった。
「なぜって、そりゃ、休んでて欲しかったからだけど」
「貴女、気が付かなかったの」
言葉が溢れた。
「子供を抱いて」
「まほさんに背を向けて」
「人混みに消えていく千代美さん」
「それを見て、まほさんは辛そうな顔をしたのよ」
私は隣で見ていたから気が付いた。
まほさんには、千代美さんのその背中が『何か』に見えたのだと思う。
その事に漸く思い当たったらしく、千代美さんは小さく、あ、という声を漏らした。
「正直に答えてね。貴女、『子連れ』が嬉しかったんでしょう」
まほさんと居ては永遠に授かる事が出来ない、子供。
迷子センターまでの短時間とは言え、『子供を連れて歩く』という行為が、千代美さんは嬉しかった。普段は過剰にすら思えるまほさんへの気配りを、忘れてしまうほどに。
そしてそれは、まほさんにも伝わってしまった。
暫しの沈黙があって、千代美さんは観念したように無言で頷いた。
はーあ、と大袈裟にため息をつく。まあ、分かる。
聞けば、さっきの子供の母親は私達の二つ下。ペコ達と同い年だとか。それはつまり、私達だって子供を連れていても何らおかしくない齢と言うこと。
憧れは分かる。
私だって、分かる。
でもね、それはそれなのよ。
「まほに謝らなきゃな」
「必ずよ」
次にまほさんに会えるのが、いつになるかは分からないけれど、必ずね。
「あれから、まほに付いててくれてたのか」
「ええ」
「そっ、か。ありがと」
まあ、車酔いをさせてしまった事に対するお詫びというのも、少しはあるけれど。
あの時のまほさんは、一人にするにはあまりにも忍びなかった。
「私の好きな人に、あんな顔させないで」
遂に言った。
千代美さんは目を瞑り、言葉を探すように暫くくるくると指を回して、結局『ごめん』とだけ呟いた。
拍子抜け。
「もうちょっと派手に驚くかと思ったら、案外冷静なのね」
「なんとなく、そんな気はしてたし」
千代美さんはそう言って、困ったように笑う。
驚かせるつもりだったのに、反対に驚かされたような感じ。
でもまあ、考えてみれば道理だわ。同じ人を好きなのだもの、隠し通せるものではないわね。同じことを考えていれば、それはどこかで分かってしまうもの、か。
「もしかして私のこと、ずっと邪魔だったんじゃないか」
「そんな訳ないでしょ。私は貴女の事も好きよ」
うえっ、と千代美さんは声を上げる。そのリアクションは、さっき欲しかった。
まあ、好きと言っても、まほさんに対する感情とは違う、友達の好き。だけどそれは、言葉なんかでは簡単に言い表せないほどの、大好き。
私は、貴女の優しさにずっと惹かれているのよ。
気付いてるかどうかは分からないけれど、呼び方を『安斎さん』から『千代美さん』に改めるくらいには大好きなの。
「私は貴女達のファンなのだと思うわ」
「あはは、なんだよそれ」
笑われたけれど、本当のこと。
私自身、感情を上手く整理できていないけれど、詰まるところ、好きな人と好きな人が仲良くしている所を一番近くで見ていたい。それが願い、なのだと思う。
それはきっと、『ファン』と表現するのが一番近い。
地平線を追い掛けるようなもの。
遮るもの無き海にて。
なんてね。
「なんだっけそれ」
「ふふふ、さあね」
意地悪を言って、腰を上げる。
釈然としない表情のまま、千代美さんもそれに倣う。二人で海を見た。
「私も好きだよ、ダージリンのこと」
「やだ、そういう時は名前で呼ぶものよ」
少しだけ、我儘を言う。
「うええ、恥ずかしいなあ」
「いいじゃない、呼んでよ」
改めて。
千代美さんは、しょうがないなと呟いて、わざわざ姿勢を正してこちらに向き直り、名前を呼んでくれた。
「好きだよ、ミホのこと」
大好きな友達に名前を呼ばれ、どきん、と心臓が跳ねる。自分で振っておいて、虚を突かれたような気持ちになった。
そう言えば、千代美さんに名前を呼ばれたのは初めてだったかもね。
んふふ、と変な笑いが出た。
「やっぱりダージリンでいいわ」
「なんなんだよ、もう」
恥ずかしいし、ややこしいものね。
やっぱり私は『ダージリン』でいい。
照れ隠しに、キン、と缶コーヒーを開ける。
少し赤くなった私の顔は、夕陽が誤魔化してくれた。
にっが。
「陸はどっちかなあ」
「あっちでしょ。ほら、ヘリが向かってきてるもの」
ぼやくように言う千代美さんに、ヘリが高く飛んでいる方を指す。
んん。あれは何のヘリかしら。
ぼんやりと眺めていると、ぽけっとの中でスマートフォンが震えた。普段はあんまり鳴らない、まほさん用に設定した着信音が辺りに響く。
『俺にカレーを食わせろー』
一体何事かしら。
「何だよその変な歌」
「名盤よ」
通話のボタンを押して電話を耳に当てると、何かけたたましい、ばたばたという強い風のような音が聞こえた。そのせいで、肝心のまほさんの声が聞こえない。
ああ、そういうこと。
あのヘリに乗ってるのね。