まほチョビ(甘口)   作:紅福

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鰯は英語で

西住まほさんお誕生日おめでとうございます


文車妖妃の鰯

 みほと二人、映画館のロビーにある長椅子に腰を降ろして話している。

 

 なかなか珍しい光景だと、我ながら思う。私もみほも、わざわざ映画館に足を運ぶほどの映画好きではない。どころか最近では、こうして二人で出掛けるという事もあまり無い。

 今回は偶々、条件が重なった。

 

 本来、今日ここに来る予定だったのは、みほとエリカ。

 エリカがみほと二人で映画を観るためにチケットを取ったという話は、少し以前にエリカ自身の口から聞いていた。しかし当日になって、エリカに急な仕事が入り行けなくなってしまったというから可哀想なことだ。

 

 ともあれ、そういう訳で私に白羽の矢が立った。

 

 しかし私は、正直に言えば映画自体は特に観たいとも観たくないとも思っていなかった。テレビの宣伝か何かで目には入っていたから何となく知っていたが、要はその程度だ。どちらかと言えば、久し振りにみほと二人で出掛けるという事の方に魅力を感じた。

 千代美もそれに気が付き、『いいじゃん、行って来いよ』と言って小遣いをくれた。たまにはみほと外食でもして来いと言うのだろう。

 

 その小遣いを有り難く頂戴し、帰りは遅くなるぞと伝えた。

 

 そして映画を観終わり、今に至る。

 話題は勿論、たったいま観終わった映画のこと。

 

「面白かったね」

「んー。うーん」

「どうしたの、お姉ちゃん」

 

 面白かったのは確かだが、どうにも見覚えのある筋で、そちらばかりが気になってしまった。

 

「ああ、原作が有名だからお姉ちゃんもどこかで読んだことがあるのかも知れないね」

「ふむ」

 

 この映画の『原作』とやらは、無名の素人がインターネット上に投稿した短い恋愛小説なのだという。

 その小説は口コミでどんどん広まり書籍化までされ、挙句の果てには海外の有志によって翻訳された『英語版』が現れたことにより読者は現在も増え続けているらしい。世界中で読まれているという事か。

 

「その映画版が、今観たやつなんだよ」

「詳しいな、みほ」

「えへへ、エリカさんがファンなの。その影響」

 

 ああ、それでか。

 では今日来られなかった事はさぞかし残念だったろう。

 

「あ、パンフレット頼まれてたんだった」

 

 ぱたぱたと売店へ駆けていったみほは、程なくしてパンフレットを手にして戻ってきた。

 売り切れ寸前だったらしく、ほっと胸を撫で下ろしている。

 

「この、原作者というのは何者なんだろうな」

「それが一切謎なんだよね。あ、パンフレットにインタビューがちょっと載ってる」

 

 みほがパンフレットを開き膝に乗せた所を覗き込む。

 インタビューは記者と顔を突き合わせた形ではなく、インターネット上でのメールのやり取りという形式で行われたようだ。顔や性別を公表する気すら無いらしい。

 名前は『鰯』。明らかにニックネームと分かる。

 

 記事を読む限りでは、どうも作品に対する反響は嬉しく思っているものの、自分自身が前に出て有名になるつもりは無いらしい。映画化や書籍化に際しても『ご自由にどうぞ』と許可を出しただけで、自身は何一つ手出しも口出しもしていないという。どこまでも『原作者』でしかないのだ。

 

「何だか徹底しているな」

「だね。あ、理由が載ってる」

 

 この原作者に有名になるつもりが無い理由。

 曰く。

 

『恋人と静かに過ごしたいから』

 

 ああ。

 何故だろうか、物凄い説得力のようなものを感じた。

 

「映画よりロマンチックな人だな」

「本当。その恋人さんの事が世界一好きなんだね」

 

 みほはそう言って、見慣れない表情で笑った。

 

 さて、と腰を上げる。

 これからの予定としては、みほと何か食事でもして過ごそうかという所だったが、少し気が変わった。みほには申し訳ないが、抑えが効きそうにもない。

 

「みほ。悪いんだが、食事はまた今度にしないか」

 

 そう言うと、みほは驚いた様子もなく、頷いた。

 

「私もね、同じこと考えてたの」

「ああ」

「エリカさんに会いたくなっちゃった」

 

 映画の影響か、はたまた『原作者』の影響か。

 私もみほも会いたくなってしまったのだ。世界一、好きな人に。

 

「じゃあ、ここで」

「うん。またね、お姉ちゃん」

 

 みほと別れ、いくらも経たないうちにいそいそと携帯電話を取り出した。自分はこんなに堪え性の無い人間だっただろうかと、呼び出し音を聴きながら思う。

 千代美はすぐに出た。

 

「もしもし千代美、すまないがこれから帰るぞ」

『ありゃ、随分早いな。ご飯はどうした』

「まだなんだ。何か作ってくれ」

 

 リクエストはあるかと問われ『鰯』と答えた。我が儘な物言いになったが、まあ通じるだろう。

 真っ直ぐ帰って、千代美が作った夕飯を食べて。

 その後は、そうだな。

 

 千代美から本でも借りるか。

 

 今夜は静かに過ごそう。

 なんとも贅沢な日だ。


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