まほチョビ(甘口)   作:紅福

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釣瓶落としの陽

【まほ】

 

 もう、何度交わしたか分からないやり取り。

 

「ごちそうさまでした」

「お粗末さま」

 

 夕飯のあと。

 さて休もうかと言いたい所だが、残念ながらそういう訳にも行かない。寛ぎ始める前に、済ませなくてはいけない仕事がまだ残っている。などと大仰な言い方をしてみたが、別に大した仕事ではない。ただの洗い物だ。

 まあ予備の食器などいくらでもあるから洗い物の一度や二度をさぼった所で然したる問題も無いのだが、これはどうにもさぼる方が具合が悪い。習慣というやつだ。

 食器を重ね、流し台に置く。千代美は『シンク』と呼んでいるが、どうも私は『流し台』と呼ぶ方がしっくり来る。どちらも同じと言えばそうなのだが、違うのだ。

 そんなどうでもいい事を考えながらじゃぶじゃぶとやっていると、リビングから当の千代美の唸り声が聞こえた。

 

「んぬうぅ」

 

 絞り出すような面白い声だ。

 夕飯を食べ終わるなり、千代美はふらふらと倒れ込むようにしてソファに横になった。それからずっとああやって、ソファの肘掛けを枕にして唸っている。

 

「食べ過ぎたー」

「だろうな」

 

 何故だか知らないが、今日の千代美は随分と箸が進んでいたようだった。彼女のおかわりなど滅多に見られるものではない。まあ千代美の身体は華奢だから、食べ過ぎるくらいが丁度良い。今よりもう少し肉付きが良くても私は何も言わないぞ、なんてな。

 考え事をしている間に洗い物が終わった。始める前は少し億劫だが、始めてしまえばこうして一時で終わる。

 

「さてと」

 

 エプロンの裾で雑に手を拭き、読みかけの文庫本を持って千代美の傍に移動した。これでようやく自由時間だ。

 しかし、ソファには千代美が長くなっているので座れない。私はソファのクッション部分を背もたれの代わりにして、床に座ることにした。これはこれで案外楽だ。

 それに、読書をするならソファに身を沈めるよりはこちらの方がいい。ソファだと満腹も手伝って眠ってしまいそうだ。

 それから文庫本を広げて暫く読み耽っていると、不意に千代美の手が伸びてきて私の髪をふわりと撫でた。その手を捕まえて指を絡めてやると千代美がくすぐったそうに鼻を鳴らすのが聞こえて、こちらの顔も綻ぶ。

 

「腹の具合はどうだ」

「んー、まずまず」

 

 分かるようで分からない。

 千代美の腹をさすってやると、確かにいつもより膨らんでいるような気がした。食欲の秋とは言うが、本当に随分と食べたようだ。

 

「まほのご飯が美味しかったせいだよ」

 

 思いがけず嬉しい言葉が飛んできた。

 そう、今日の夕飯を作ったのは私。最近ようやく感覚が掴めてきたかなとは思っていたが、千代美に誉められるといよいよ上達の実感が湧く。

 それに、好きな人に自分が作ったものを食べてもらい、その上に誉めてもらえるというのは何とも気分が良い。もっともっと頑張ろうという気持ちになる。

 

 しかしまあ、頑張りすぎるのも考えもののようだ。苦しそうに呻く千代美を見ていると、段々と申し訳なくなってきた。

 腹ごなしに運動でもさせたい所だが、しかし自分のせいで横になってうんうん言っている者に『動け』と言うのもどうなんだという話だ。

 さて、どうしたものか。考え事を始めたお陰で、読んでいる小説も段々と頭に入らなくなってきた。

 

「まーほー、散歩でも行かないかー」

「ん」

 

 なんともタイミングの良い、お誂え向きの提案だ。考えを読まれたような気さえする。

 しかし何にせよ、千代美の方から言い出してくれたのはありがたい。私は文庫本に栞を挟み、善は急げとばかりにいそいそとコートを二着出して片方を千代美に着せてやった。

 

「自分で着れるよ」

「ふふふ、そうか」

 

 むっとする千代美が可愛い。

 

「どこを歩こう」

「公園を一回りでどうだ」

「あー、賛成」

 

 腹ごなしには丁度いい距離だ。

 近所だから大して時間も掛からないだろう。

 

 玄関を出ると思った以上に空気が肌寒く、コートの中にもう一枚着てもいいかなと思える。流石に息が白くはならなかったが、もう冬が近付いている事をぼんやりと実感した。

 

 冬か。なんだか少し、感慨深い。

 

「あらお二人さん」

 

 ふと、下の方から声がした。

 見ると隣の玄関先にカチューシャが座り込んで煙草をふかしている。ああ、そう言えば煙が苦手なダージリンに『外で吸え』と言われてるのだったか。この寒いのに、気の毒なことだ。

 

「思い遣りってやつよ」

 

 言って、カチューシャは地べたに置いたコーヒーの缶に煙草を捩じ込んで火を消した。

 そういうものだろうか。まあ本人達がいいなら、それでいいのだろうが。

 

「お二人さんは揃ってお出掛けかしら」

「えへへ、散歩だよー」

 

 嬉しそうに言う千代美につられ、カチューシャも顔を綻ばせた。千代美の笑顔は伝染するのだ。

 お気を付けて、とカチューシャはひらひらと手を振った。身長が高いお陰か、何気ない仕草のひとつひとつが実にさまになる。

 二人でカチューシャに手を振り返し、出発した。

 

 道に出ると辺りがすっかり暗くなっているのがよく分かり、いよいよ季節を実感した。夏ならまだ太陽の明るさが少し残っていた時間だ。

 

「陽が短くなったなあ」

 

 その辺の自販機で温かい缶コーヒーでも買おう。

 そんなことを思いながら千代美と手を繋ぎ、暗くなった住宅街を歩いた。


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