【千代美】
朝ごはんは食べた。二度目の洗濯物干しも終えたし、サンドイッチも出来た。さっきまでぐったりしていたまほも、まあ、回復したし、パンツも換えた。
さあ、着替えてお化粧をして出発だ。
寝室の鏡台に向かっていると、まほの顔が横から割り込んできた。
「千代美は可愛いなあ」
「な、なんだよ急に」
ドキッとした。急に何を言い出すんだ、もう。
割り込んできた姿勢のまま、まほが言う。
「いや、私は化粧っ気というものが無いからな」
ああなんだ、そういう事か。
確かにまほは全く化粧をしない訳じゃないけれど、私ほど時間を掛ることはない。だからそのぶん私より支度が早く済むので、一緒に出掛ける時はこうやって待たせてしまうのがお約束。
「ごめんなー、暇だろ」
「いや、ゆっくりでいい」
これに関しては、まほは待つことが習慣になっているから苦にならないんだろうけど、私の方は待たせてしまっているという意識があるから、ちょっと焦る。
だからまほの気遣いが有り難い。
「千代美の変身を眺めるのは楽しい」
「あはは、変身か」
それこそまほじゃないけど、家事をやってる時は私だって化粧っ気が無いからな。よそ行きの顔になるのは、確かに変身だ。
「折角のデートだから気合い入れてるんだぞー」
冗談めかして言ってるけれど、これは本当の事。まほの隣は、可愛くして歩きたいという乙女心。
我ながら良いこと言ったなと思ったんだけど、まほは何も言わない。『んん』すら無いのは妙だなと思ってちらりと横に目を遣ると、まほが俯いていた。
髪で顔が隠れて見えないので、どうしたんだろうと覗き込むと、見事に真っ赤になっている。
驚いて、熱でもあるのかと声を掛けた。
「おい、大丈夫か」
「い、いや、本当に可愛いなと思って」
「んなっ」
どうやら『デート』という単語が思いのほかヒットしたらしい。
釣られてこっちまで赤くなってしまった。化粧にならないからあっちへ行ってろと、まほを追い払う。全く、変なところでうぶなやつ。それ以上の事、平気でしてくる癖に。
昨日のお風呂場での事を思い出す。
そのせいで、一人でまた真っ赤になってしまった。
ああもう。お化粧、もうちょっと掛かりそうだな。
――――――――――
【まほ】
いつもより少しだけ長い千代美の化粧が終わり、いざ出発。
昨日の雪はすっかり止み、外は晴天。若干ながら積もったようだが、陽射しがほとんどの雪を溶かしてしまっている。
見回したところ、日陰に少しだけ残っているのが確認できる程度だろうか。
凍結という程でもなさそうだが気を付けないといけない。
「えへへ、まほとお出掛けー」
意味も無くぱたぱたと小走りになる千代美の腕をぐいと引っ張り、手を握る。
「転ぶぞ」
千代美は一瞬だけ驚いたような顔をして、それから、にへらっと笑った。
「何だ」
「まほ、優しい」
そう言われると照れる。
それを隠すように憮然としてうるさいなと突っぱねたが、千代美には通じない。
彼女は変わらず笑顔のまま言う。
「手を繋ぐのが自然になったなあ」
言われてみて、確かにそうかもと思った。
最初の頃はどうしても照れ臭くて、手を繋ぎたがる千代美に対して私はよく、止せやめろと嫌がったものだ。それが今は自分から千代美の手を握り、引いている。
「嬉しいなー」
繋いだ手をぶんぶんと振る千代美。
考えてみれば、私が嫌がっていた頃から千代美はずっと手を繋ぎたがっていたのだ。私の方から彼女の手を引くことは、彼女にとって特別な事なのだろう。少し感慨深い。まあ、喜んでくれるなら何よりだ。
暫くそうやって歩いていると、前方から肩を落として歩いてくる友人に千代美が気付いた。
「あれっ、ミカじゃん」
「おや、お二人さん。お出掛けかい」
ついてないなあ、とぼやく。という事は私達、というか私達の家に用があったという事か。
まあ、ミカの用事などだいたい知れているが。
「お腹空いてんだな」
「そうなんだよ。恥ずかしながら」
案の定、うちに朝食をたかりに来るつもりだったらしい。
千代美は腹を空かせている者に甘い上に、分かりきった事だが料理が上手い。ミカに限らず、私達の家を訪ねる者の多くは千代美の料理を楽しみにして来るのだ。隣に住んでる奴までも。
それはさておき。千代美は、仕方ないなーなどと言いながらごそごそと鞄を漁り、弁当箱を取り出した。
ちょっ、それは。
「これ、良かったら」
「わ、サンドイッチか。でもこれ、君達のお昼なんじゃあ」
流石に人の弁当に手を付ける事はミカでも気が引けるらしい。しかし千代美は、いいからいいからとミカに押し付けるように弁当箱を持たせた。
ああ、こうなってはもう、あのサンドイッチに私がありつく事は絶対に無い。
「ま、まほが物凄い形相なんだけど、本当に良いのかい」
「良いんだよ。お腹空かせてる奴は見過ごせないからな」
甘い。甘過ぎる。
「食べ終わったら弁当箱だけは返してくれよ」
「済まないね、ありがとう。恩に着るよ」
サンドイッチを受け取ったミカは、私の落ち込みようを見てか、逃げるように立ち去った。
「千代美ぃ」
「まあまあ。言ってたじゃん、あのサンドイッチは吉備団子って」
それを聞いた私は、何も言い返すことが出来なかった。成程、吉備団子の使い方として見れば至極真っ当だ。
そしてまた、千代美の『吉備団子』を日常的に食べている私が彼女と手を繋ぐのに抵抗を覚えなくなるのも道理なのだろう。
ほら行こう、と差し出してきた千代美の手を取り、また握る。
私は心の中でひとつ、ワン、と鳴いた。
――――――――――
【千代美】
本屋に到着。ああ、まほと本屋デートなんて夢みたいだ。
まほが本屋に足を向ける事は滅多に無い。と言うか、そもそも彼女には読書の習慣があんまり無い。気が向いた時に私の薦めた本を読む程度で、そのほかは雑誌が精々だ。
その雑誌だって、読むというよりは目を通すといった感じ。そんなだから、昨日まほが本屋に行こうとした途端に雪が降り始めたのも、悪いけど頷ける。
そんなまほに対して私は読書が大好き。本屋は私のテリトリーみたいなもんだ。いつも一人で来てる店にまほが居るのが、なんか、すごく変な感じ。大袈裟かも知れないけれど、実家に連れてきたみたいな心地良い違和感を覚える。
いつも一人で来てる私が、まほを連れている。
店員さんにはどう見えるんだろう、なんて考えて少し緊張してみたりして。
「さてと、ブックカバーはどこだ」
独り言のようにつぶやいて、きょろきょろと売り場を探すまほ。
ああ、まほの買い物ってこうなんだよな。
目的の物に直行して、ぱっと買っておしまい。簡潔って言えば聞こえは良いけど、どっか味気ない。
「もうちょっと色々眺めて回ろうよ」
「そういうものか」
「うん」
しかし見て回るにしても目標の確保が先だと言われて、まあそれは確かになと思い直す。というわけで、ひとまずブックカバーの売場へ。
「本屋とは言うが、本だけを売っている訳ではないんだな」
「うん、文房具とかも私はここで買うよ」
平静を装ってるけど、実は滅茶苦茶にテンションが上がっている。まほとの本屋トーク、その何気ない一言一言がすごく楽しい。
でもまあ、買い物してるだけでテンションが上がってるなんて、流石に恥ずかしくて言えないよなあ。
ともあれ売場に到着。手帳や栞のコーナーに混じって、ブックカバーのコーナーが作ってあった。
ブックカバーなんて一回買っちゃうと暫く替えない物だから、来るたびにレイアウトが変わってて面白い。以前に来た時より心なしか広くスペースを取ってるように感じた。
「ず、随分と種類があるんだな」
まほが若干引いている。
ああ、ブックカバーに色んな種類があるって知らなかったのか。
柄は渋いのから可愛いのまで、材質も革だったり布だったり。確かに予備知識無しでこの中からひとつ選べと言われたら、多少面食らっちゃうかも知れない。
「千代美、あの」
「んーと、布で、紐の栞が付いてて、フリーサイズのが良いなあ。柄は任せるよ」
早くも弱った様子のまほに、ある程度のヒントと言うか希望を伝えてあげた。
手触りは柔らかい方が好きなので、革製より布製。
栞は物によって付いてたり付いてなかったりするけど、紐の栞が付いてるやつがいい。
そして、色んな本に使いたいからフリーサイズ。
あと、わがままかも知れないけれど、柄はまほに選んで欲しい。
「フリーサイズって何だ」
「片側が開く造りになってて、本の厚さを問わずに使えるやつ」
片側が開かないと、本によっては使えなかったりするからな。
まほは、ふうむと唸って選考に入った。私はその場から動かなくなったまほの周りで、文房具やら何やらを物色しつつうろうろ。
うーん、色んな色のペンとか、眺めてると欲しくなっちゃうよな。たぶん買ってもあんまり使わないと思うけど、売り場に並んでるのを見てると欲しくなってくる。
そんな時間が暫しあって。
「うーん」
「決まらないか」
「いや、候補は絞った」
どれどれと覗き込むと、まほは渋い和柄と可愛いハート柄の二つを手にして唸っていた。
どういう二択なんだろう、これ。
「こっちは千代美が普段読んでる恋愛もののイメージ。それと、こっちは昨日見た『鉄鼠』のイメージだ」
あー、そっかあ。成程なあ。
まほは、どちらかと言えばピンと来たのは和柄なんだけど、和柄のカバーで恋愛小説を読むのも変じゃないか、という理由で悩んでるらしい。
なーるほど、そういう事なら決まりだ。
「こっちがいい」
和柄のカバーを指差した。確かに和柄は恋愛小説には合わないけど、まほがピンと来たならそっちで決まりだ。
ちゃんとフリーサイズだし、紐の栞も付いている。完璧だ。
「えへへ、ありがとー」
「んん」
ぐいぐい身体を押し付けてやると、まほは照れ隠しのようにいつもの唸り声を上げた。
このカバーで本を読むのが楽しみだなあ。