まほチョビ(甘口)   作:紅福

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摩訶鉢特摩の魚

【エリカ】

 

天井(あまい)は無い 底も無い

故に 光差す道理などなく 嗚呼

 

 透き通った水みたいな、冷たくて優しい歌声が店内に響き渡る。

 いつ聴いてもフリントの歌声は、同じ人間とは思えないほど綺麗。酒焼けしてるはずの喉で、よくもまああんな声が出せるものだと思う。いや、もしかしたら酒焼けこそがあの声の秘訣なのかも知れないけど。

 何にせよ、聴けば聴くほど良い声。

 

「これでもっとマシな曲を選んでくれたらね」

「なんだい、あたいの歌が下手だってのかい」

「違うわよ」

 

 歌詞がしんどいのよ、歌詞が。

 ただでさえ気が滅入ってるって言うのに、なにもそんな真っ暗な歌を歌うことないじゃない、と。そう思っただけ。彼女の歌唱力でそれを聴かされる方の身にもなって欲しい。

 でも、彼女は歌詞の意味なんて大して気にしていないのかも知れない。

 歌えればそれで満足。気分で何でも歌う。そういうひと。

 

 誰にも聞こえないように、小さくため息をついた。

 

 私は今、どん底に居る。

 比喩でも何でもなく、ここは正真正銘の『どん底』。みほの友人たちが高校時代、学園艦の底で開いていたというバーを陸で再オープンさせた店、その名前が『どん底』。

 現在では、みほはもちろん、私にとっても欠かせない行きつけの店になっている。

 そんな店のカウンターの、いつもの席で飲み始めて一時間ほどになるけど、もやもやと曇った気分は一向に晴れないし、どうにも落ち着かない。私はお酒に強い方じゃないんだけど、それでも、飲んでも飲んでもさっぱり酔えない。気持ちが酔っ払う方向にシフトしてくれない。

 原因は、分かっている。

 

「良いお店ね」

「ええ、まあ、はい」

 

 恐縮しきりで、思わず歯切れの悪い返事をしてしまった。

 変に思われはしなかったかと隣をちらりと見たけど、表情からその機嫌は読み取れない。

 背中を丸めて縮こまるようにして飲んでいる私の隣。普段みほが座るその席には、彼女ではなく、そのお母さん。西住流家元、西住しほさんが座っている。

 私が恐縮している上に、家元も自分から喋り出すようなタイプではないので大した会話も無く、これまでただ淡々と飲んでいるだけの時間を過ごしている。

 フリントの歌があるお陰で辛うじて間が持っているような、そんな空間。

 正直、居たたまれないので出来れば帰りたいです。

 

 発端は、日中のこと。

 

 何の予定も無い日曜日。普段は仕事で何やかやと忙しくしているせいか、急に暇な日がぽっかりと現れたところで何をする気にもなれず、みほと二人でごろごろしていた。

 二度寝三度寝の末に午後になり、流石にせめて部屋からは出ようという話になって、それで辿り着いたのが小梅の部屋。お隣。

 三人で集まって、ネットで下らないものでも買おうかーなんて話をしながらスマホでフリマアプリを立ち上げたその時。私とみほの部屋のインターホンが鳴ったのが聞こえた。

 買い物を始める前に配達屋が来る訳も無いし、一体誰かしらと思いながら玄関を開けて隣を覗き見ると、そこに西住しほさんが立っていたので、そっと扉を閉めた。

 あー、目が合っちゃった。

 

 やっべぇ。

 

 緊急事態発生。

 のん気にスマホで古着か何かを物色しているみほにそのことを報告すると、彼女は『ひょうぇ』みたいな声を出して固まってしまった。まだ家元と若干ギクシャクしてるのは感じてたけど、まさかこれほどとは。

 呆れながらも頭をフル回転させて状況を整理する。

 ひとまず、みほは無理。

 小梅に家元の相手をさせるというのも、まあ無い。

 居留守を決め込むという手も一瞬考えたけど、それは流石にあんまりだし、何より私が顔を出したところは見られているので、ここは必然、私が出るしか無いという結論に。

 

 観念して玄関を出て、家元と対峙。

 挨拶もそこそこに、改めてその存在感というか圧みたいなものにたじろぎつつ、家元を外に連れ出した。恥ずかしながら、うちの部屋の中は人を招ける状態ではありません。

 

 それから私と家元の、奇妙なデートが始まった。

 

 とは言え。連れ出したはいいものの、行く宛てが無い。

 さてどうしようかしらと考えを巡らせていると、歩き始めていくらもしないうちに家元が『冷蔵庫を買いに行きましょう』と言い出した。

 どうやら、まほさん辺りから聞いていたらしく、家元はうちの冷蔵庫がいつまでも壊れたままなことを知っていて、それを見かねて買い換えてくれる、ということみたい。いやいや流石にそんなものをポンと買っていただく訳にはと遠慮してはみたものの、案の定そんなことはお構いなしに家元はタクシーを捕まえてしまった。

 この勢いからして私がいくら遠慮してもただのタイムロスにしかならないな、ということが何となく分かったので、ありがたいやら申し訳ないやらを感じつつ、そこからは粛々と従うことに。

 そうやって着いた電気屋ではやっぱり遠慮する隙すら無くて、私は家元に言われるがまま、うちに置ける大きさの冷蔵庫の中でも一番立派なものを買って頂いた。

 配送の手続きを済ませて店を出ると、今度は『逸見さんの行き着けのお店があれば、そこでお酒を飲みましょう』と来た。

 

 そんな訳で私は今、どん底に居る。

 

 ほんと、どういう時間なのよ、これ。

 緊張し過ぎてお腹痛くなってきたんだけど。

 そんなことを考えていると、フリントがつかつかと寄ってきて、家元の反対隣にどっかりと腰掛けて絡み始めた。

 

「見たことある。あんたさ、西住みほのおっ母さんだろ」

「そうよ」

「ちょっ、ちょっと、フリント」

 

 家元に向かって何たる態度。と思ったけど、そっか。フリントには関係無いんだわ。彼女から見たら、家元といえど『西住みほのおっ母さん』でしかない。

 無礼なのではなく、自然体なだけ。

 とは言え、その自然体には私も家元も若干面喰らっている。それを知ってか知らずか、フリントは調子を変えずに話を続けた。

 どういう癖なのか、『キツネ』の形に作った指をぱくぱくさせながら。

 

「大方、娘の恋人と親睦を深めたいのに取っ掛かりが掴めなくて、どうしたらいいか分かんないってとこじゃないのかい」

「え、ええ。その通りよ」

 

 えっ。

 

「分かるんだよ。こういう、ギクシャクした親御さんってさ」

「ああ」

 

 成程。

 ここにはそういうお客さんが来ることもあるから、フリントには雰囲気で分かった、ということなのね。

 飲んでも飲んでもギクシャクしたままな私たちにイライラして話し掛けてくれた、か。

 図星を突かれた家元は、グラスを置いて椅子を回し、私の方に向き直った。つられて私もそれに倣う。

 バーのカウンターで、私と家元は真っ正面から向かい合った。

 

「急に押し掛けてしまってごめんなさいね。びっくりしたでしょう」

「ほんとですよ」

 

 今さらのように『親睦を深めましょう』と、ばつが悪そうに言う家元は、さっきより幾分か柔らかな表情をしているように見えた。照明の加減でそう見えただけかも知れないけど。

 家元は、みほを置いて私だけが出てきたことに気付いていた。欲を言えばみほとも話したかったけど、ここでそれをどう切り出したらいいかは分からなかったみたい。

 みほとのギクシャクが解消されるのは、たぶん、もう少し先のこと。

 

「逸見さん。みほをよろしくね」

 

 その日。

 しほさんと私は、以前よりちょっとだけ仲良くなった。




お久し振りです
本作ってました

今日の即売会で出すやつ

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