思いついたのは彼岸の頃ですので死ネタです。時期設定もその頃
pixivとのマルチ投稿。本当は絢辻×棚町に成るつもりだったんです。もっと濃厚な。
「つかさちゃん、もう帰ろう?」
嫌だった。
もう少し、もう少し
彼岸の頃、私は一つの墓の前に立ち続ける。姉の制止も聞かずに。
ピカピカに磨かれたお墓、いつ来ても綺麗な花。恐らく彼の幼馴染みが来ているのだろう。三日と開けず会いに来る私でさえ、落ち葉を拾うくらいしか掃除というものをしたことがない。家が近いからって、毎朝通っているんだろうか。
――桜井梨穂子。《彼》が死んで、一番に泣いたのは彼女だった。一番に心を崩して、立ち直るまで時間がかかったのも。
その日は
例えば、坂の勾配とか。例えば、トラックの、積荷の超過とか。例えば、トラックの過剰速度とか。例えば……そう、
原因は色々あった。色々あったからこその事件で、色々あったからこそ私の心の中にすとんと落ちるものがあった。
――
私は彼の死を二……いや、五……三十秒で理解した。
しかし、彼の妹含む彼の家族や彼の友人達――特に彼を好きだった女の子とか――はそうではなく。私と彼の妹は随分と責められた。と言っても、私達に取ってそれは理不尽でもなんでもないものだから、ただただ平謝りするしかなかった。
「ぐんもー」
「奇遇ね。おはよう、棚町さん」
長らく拝んでいたからだろうか、背後から投げられた声にビックリしつつ言葉を返す。ポーカーフェイスは学生時代からの得意技だ。
振り返ると、そこに居るのは予想通りの人物だった。
棚町薫。
「掃除しといてくれたの?」
「残念ながら、今日も掃除は先を越されたわ」
「でしょうねぇ……。なんたって、いつ来ても落ち葉一つ無い上に花だって毎日違う、豪華でピンピンしてんだもんね」
「仕事の方も忙しいはずなのに、ご苦労なことだわ」
墓掃除、と言うのは大事な仕事だ。なのに私はただの一度も
「はは、さすがに向こうに行っちゃってる時は私に頼んでくれるんだけどね」
目の前の棚町薫ですら何度も掃除をしてことがあるというのにだ。私だけが。五年も。
私は彼の恋人なのに。
同棲までしていたのに。
「ということは、まだ許してくれてないのね」
「……みたい?」
今にも『やべっ』とでも言いそうな失言顔で、両の視線を左に逸らす。聞かずとも、棚町薫の表情を見れば答えは分かる。
「残念」
「少しも残念そうじゃないけど?」
「桜井さん、あまりお話したことないから仕方ないわ」
桜井梨穂子。
つまり仲が悪い。
無論、謝る気はない。どうして私が。
更にいえば。
今更、仲直りをする気もない。どうでもいいのだ。
謝った所で、彼はいないし。
彼女の存在が、目標も消えてしまった私の生活を脅かすわけでもなく。
ならば愛想をしてやるつもりもない。
だから、どうでもいい。
「あ、そう」
「じゃあ、私はこれで失礼するわね」
気を利かせた姉が早々に車へ避難している。でも、話すことなんてない。どころか、私と
軽く手を振って踵を返す私に、棚町薫は最後の声を投げかける。
「今年も行くんでしょ? 創設祭」
「もちろん」
既にこだわりはないけれど、習慣だ。
空っぽになった私が唯一続けている習慣らしきもの。
どうしようもないものを抱えた、どうしようもない女に残った無機質。
それすら実際はどうでもいい。
改善しかけた姉との関係。積み上げた学歴、彼との思い出。
全てを捨てたいと思いつつも抱きしめたままに、死んだように生きている。
ピロリン。親からの最後の贈り物である携帯電話にメールが届く。
棚町薫だ。
内容は、
そう思って携帯電話を開く。from:棚町薫、to:絢辻詞
subject:朝言い忘れたんだけど……
body:今日飲みに行かない?? 返信ください
飲みの誘いだった。こういう誘いは断ることが多い(というか、基本断る)。彼が死んで、同窓会にも出席しなくなった。
そんなものだから、普段は宅飲み。彼のいなくなったアパートには以前よりも多くの酒瓶が飾られている。
面倒だ。しかし……まあ、飲む。 という話なら、いいか。たまには店で飲むのも悪くは無い。そういった心境だ。
なら、それまで――
「ちょっと寝よう……」
ゴトン、と。
選びに選んだ枕に頭を落とす。横向き、肘鉄、うつ伏せ、仰向け。どの体勢だろうと首が辛くならない優れものだ。
――と、
思い出した。
「返信、しなきゃ……」
思い出したが、体が動かない。だるいんじゃない、いや、だるいけど。そうじゃなくて、金縛り。
たまに、白昼夢のような金縛りに襲われることがある。今がまさにそれで、原因らしい原因はやはりというべきなのか
震える指を伸ばし、どうにか携帯を開く。開いた振動で取り落としてしまった。カタン――。響いた音が耳を打つ。フローリングの床に厚い長方形の重なりが転がって独楽のように一回転。私はそれを目で追うだけだ。今、背後から襲われたとして何も抵抗できない。
やがて、体は動きはじめる。返信、打たないと。
携帯電話を拾う。ポチ、ポチ、ポチ。
flom:絢辻詞、to:棚町薫
subject:Re:朝言い忘れたんだけど……
body:今日は休みだし、今からでもOK
送信して、外を見れば、もう夕方に差し掛かっている。今日の記憶はないのだけど。お墓に行って、それだけ。時計を見ると、四時半という所。……まあいいか。
この時間なら量飲んだとしても明日に響かないだろう。
携帯電話の画面には手紙の絵に書かれた送信完了の文字が旋風の表現に乗って羽を広げている。多分、今から準備した方がいい。
化粧……はいいか、面倒だ。アクセサリーもやめておこう、臭いが移りそうだ。服も……このまま――薄手の桃色の長袖Tシャツと素っ気ないジーパン――でいいだろう。髪は寝癖を整える程度でいい。腕時計は流石に持っていこうか。そうだ、ジーパンが大きめなのでベルトを締めないと。すぐ緩められるよう、簡単なバックルタイプの物で……。後は財布を持って、携帯電話を持って、家の鍵を持って。これだけだろうか。いや。バッグを持っていこう。鍵は掛けていくが、もしもの時のためカードなどを常に持ち歩く習慣が私にはある。
――準備完了。
携帯電話を見る。着信履歴、あり。それも返信の二分後。音で分かってはいたが、どれだけ早いんだ。
内容は『やっぱりそっち行くわ。もちろん、泊まりで』。
巫山戯るなといいたいが、まあ、宅飲みとお泊まりに関しては歓迎してやってもいいし、細かく詰めずウキウキと用意していたのはこちらだから、仕方ない。特にいうべき事でもないか。
『買い物よろしく』と送り返し、一息つく。ベルトを外し、時計を外し、財布と鍵を入れ込んだバッグを放り投げる。
再び倒れ込む。後は棚町薫を待つだけ。彼女の家から私のアパートまで、そうかからない。二人とも輝日東からそう遠くない場所に住んでいる――流石に、同じ町内ということは無いが――。
私は家を出る――大学に入る――際に市町村を跨ぎたい程だったが、それは姉によって止められてしまい、そこまで遠くない――家から車で一時間程の――場所にアパートを借りて、それに付いてくる形で――付いてきてとお願いする形で、もちろんそれは意訳だが、とにかくそんな格好で――彼と住み始めた。
棚町薫はとにかく家を出たかっただけのようで、美大(寮)を出て画家となってからは輝日東近くを転々と――それだけの人気がある――していた。イラストレーター、と言うらしい。パソコンがあれば工房がなくとも良い時代、転居は楽チンだ。――余談だが、漫画の連載もしているとか。読んだことはない。本人曰く、『あっちをちょこちょこ、こっちをちょこちょこ』とのこと。
棚町薫の今の家――本人は当分落ち着くつもりは無いらしくボロアパートだが――はここから車で十分ほどの距離だ。棚町薫とは定期的に飲み会を開くが、彼女は毎回毎回――そりゃ居酒屋とかの日もあるが、基本は宅飲み――よく遠征するんだと思う。車など、仕事だけで十分だ。
と、言うわけで、棚町薫が家に来るまで十分ちょいってとこか。本人曰く『そこそこの絵師』は普段家で仕事しているから、出先というのも考えにくい。(もちろん、可能性が低いというだけだが)
それまで部屋を片付ける――いや、面倒だ。どうせ十分、なにもしないでいよう。
酒も入れることだし、少しの間体を横にして、休めていよう。
鍵は閉めているから、寝ないようにしないと。
ぐう。
ピン、ポーンと高らかに響くチャイムの音で意識が浮上した。頭の中が八割方寝ていたらしい。良くやったぞ、二割の私。
「痛っ」
腕が痺れて、机の足にぶつけてしまった。そりゃ十分とはいえ腕を枕にしていたから痺れる。このような些細な所からも加齢などの心配が出てくるから歳をとるのは嫌だ。後二十歳年をとっていたら、と思ってしまう。90くらいだと割と本気で危ないだろう。
と、そんなではない。棚町薫だ。寝起きに飲みかぁ。嫌だな。
近くにあったジャーキーを齧りつつ玄関の扉を開ける。
「ぐーてんたーく」
「こんばんは。取り敢えず、入って」
闇取引ではないが、立ち話もなんだから、というアレである。来客に酒を出す、ではないけれども。やっぱり立ってるのはつかれる。
「はいはい、勝手知ったるアパートだもんねー」
だなんてほざきつつ、棚町薫は我が家へ上がり込む。居間に入って、立ち止まる。私は無視して中央に置かれたローテーブルの前に座った。棚町薫から酒瓶の詰まった袋――手提げ袋――を奪い取って机の上に開けた。
「だっさいわね。セロハンテープくらい綺麗に剥がせないの?」
「面倒よ」
箱を乱雑に開ける私に棚町薫は小言を漏らすが、一言で切って捨てる。
棚町薫は、はぁ、とため息を漏らした。なんだか、私が悪いことをしたような雰囲気だ。棚町薫の欠点はこれである。彼が死んで、神経質に、重箱の隅を錐でつつくように、私の行動にケチをつける。私はそれに大体面倒の一言で反論するわけだけれども、その度ため息だ。まるで思春期の子供を持て余すように。こんなことは言うのもはばかられるが、私はわざわざ彼女の為時間を割いているのだからそんなに細かい事を気にしないで欲しい。夏の夜はタダでさえ暑いが飲んだら脱ぎたくなるほど暑いのだ、冬は昼から飲むほど寒いのだ。健康診断なんて気にするものじゃない。
……さすがに暴論がすぎるが、とにかく、ここが私の家ということを考えても、私の主張は明らかに正しい。
ので、どうやら彼女は
と、棚町薫は歩みを止めている。居間の入口で、真っ直ぐ突き当たりのドアを見つめているのだ。
その隣にあるのは私の部屋で、故人よりは生きているものに関心を向けてほしいが、まあ、仕方ない。葬式の事、私が桜井梨穂子に恨み節を聞かされる中彼女は一度も喋らなかった。受け止め方の違いというやつだ。桜井梨穂子は早々に立ち上がって、ファンの待つステージに上がっていった。棚町薫はそうじゃない。立ち上がる、立ち上がらないの二元論じゃないということ。
棚町薫は真摯に、情熱を持って見つめている。その目は冷たい氷の燃えている音を響かせ、私の鼓膜を確かに揺らしている。妊娠なんて騒ぎではない様な視線を一身に浴びる木の板は若干汗をかいたように見えない。熱烈に、強烈に、鮮烈に。棚町薫は見つめる。
この後の展開は予想できた。
「アンタ、まだ片付けてないの」
泣きながら。
残念ながら、一連の予言は当たったようだ。
「掃除はしてるわ」
別にいいだろう。ちょっと片付けが面倒くさいだけだ。
「座らないの?」
「……」
強めの口調で呼びかけ、ようやく棚町薫はドアを閉じて体面に座る。瓶を一本二本と並べ、これはなにそれはなにと買ってきたものの説明を始める。よかった、いつもの飲み仲間に戻ったようだ。
そう思って、私は冷蔵庫から出してきたビールの栓を二つ開ける。
何回目か分からない『乾杯』。何かを祝っているわけではないのに。
クッと煽ると、十分に冷えたビールの旨味とノドゴシが体いっぱいに広がる。炭酸が舌を刺激して、プツプツとした変な感覚。
ビールを飲んだ時のこの味わいが、私は好きだった。ク、クー。クー。と、
「おかわり!」
「相変わらずいい飲みっぷりで……」
我ながら印象が真逆だとは思うが、私はよく飲み棚町薫はあまり飲まない。その代わり棚町薫は種類を制覇したがる。コップに移したものくらいなら私が
「そりゃ、日々頑張って生きてますから」
「ちょっと、アタシが適当に生きてるみたいじゃない」
カシュッ。だべりつつも、棚町薫は次々に缶を開けていく。残りを私が飲む。私の缶は遅々としてなくならない。基本的に私たちの飲みはこんな感じだ。
棚町薫にはペースというものがない。いや、彼女は刹那的な生き方をしているから、意図的に考えないようにしているんだろう。画家――現代的に言うなら、イラストレーターとか絵師とかだろうか――
――。
ほら、今も勝手知ったるとばかりに台所からくすねてきたオープナーでボトルの栓を抜いている。グラスまで用意しているのだ。まあ、私の分もあるのなら文句はない。
どうやら
時代を感じる旨み。血の匂いが口に広がる。
――十回忌……か。
結局、
「でも、あんたも変わったよね。アレから」
「アレっていつのことよ」
ちょっと心当たりが多い。
「
「そうかもしれないわ」
知らず、スプーンを弄っていたらしい。指
赤い液体が舌の上を踊る。血袋を味わった鋼鉄の気持ちになる――。
――なんて、今なら格好つけて言える。だけど、当時はそれらが全て簡潔に、『私が殺した』。それに集約されて、支配されてもいた。言い換えると、頭の中の全てのことが
『酔っていたからだ』――誕生日会の企画は私だ。
『まさかそこまで前後不覚なんて』――酒の恐ろしさは、飲む量から考えて
『
最初の一ヶ月ほど、私は何もせず過ごした。やったことといえば布団を強いて寝転がったとか、掛け布団を被った・蹴り飛ばしたくらいだ。日がな一日中、月かな一月中、布団に寝転がってボーっとしていた。眠ってるか起きてるかなんて分からなかったし、分かろうとも思わなかった。
三食きちんと食べられたのは姉――
熟成された愛する人の血の鉄の葡萄の味に舌鼓を打ちつつ、在りし日に想いを馳せる。日が日だからか良いモノを仕入れてくれたらしい。
最初の一月はそんな感じで、姉の助けを借りてどうにかこうにか生き物をやっていた私は、次の一月で完全に復活、もしくは悪化することになる。吹っ切れて、頑張ったのだ。就活もあったし、滞納していた諸々の経済、止まっていた――もしかしたら姉が払っていて、通っていたかもしれない――電気・ガス・水道、家の掃除。彼に寄りかかって生きていた私は自立の必要があった。目につく問題には全力で取り組んだ。
そんな生活が一ヶ月。あえなく私の決意はポッキリ折れた。依存でもいい、弱くてもいい、そんな事を気付かされたのは高校の時だが、それを理由に
燃え尽きて、普通の人間をやっていた期間が四年と10月。そんな生活にも慣れた頃からは高校生の私が憑依したのかと思うほど、私の中身は若々しさを見せていた。計画を立て、可能不可能を見切り、目標をひたすらに最短で、最速で、最緻に追う。休みすらも計算の内だ。自分を分析して、頑張り続けることの出来る年齢でもなくなってきたという
そんな状態で迎えたのが――5年前のあの日――特に何も無かった日――全てが終わり、始まった日。何となく思うところがあった。それだけである。
そんなこんなで今のようになってしまった。
人間関係面倒、立つのもしんどい、何か動くことが面倒。
全てが億劫。
朝起きて、最低限の化粧を施した九割すっぴん顔で出勤、仕事もヤル気なく程々に進めるので解雇も昇進もなく、帰ったらすぐ風呂に入って布団を敷いて市販の既製品を食べて寝る毎日。当然肌ケアなどしない。髪はボサボサ、肌は荒れ放題。休日となれば一日何もしない日々。最低限家の事を済ませ、後は座って飲み物など飲む老人のような生活。テレビは付けていたり付けていなかったり、聞いていたり聞いていなかったり。笑っていたり笑っていなかったり。休みであれば、朝から飲む日もある。
趣味もない、楽しみもない、悲しみもない。涙だけはいつの間にか流れることがあるけど、それもよく分からない。
まるで植物、どうしようもない私が、死なないから生きている。心臓が止まらないので止めていない、と言った方が正しいかもしれない。
そんな状態が今。確かに、激動の人生を送っている。それよりももっと前に記憶を遡っても、そうだ。
「当たり前の事じゃない?
彼は恋人だったのよ。環境が変われば人も変わって然るべし、ね」
「え?」
と、棚町薫は突然、素っ頓狂な声をあげる。高校生時代、やりたいことを探していた彼女と違い、私は出来ることがなくて、だからこそ頑張っていた。しかしそれももう無価値。遺されたのは生きているだけの私だ。
「あんた、それ、本気?」
「? 当然ね」
「そう……。ならいいわ」
何か考え込むように頭を抱えた棚町薫は、暫くすると突然切り替えて、何も無かったように飲みはじめた。何かの伏線かあるいは地雷を警戒したが、まあ、そんなことは無いらしい。これ、酔っ払いにはよくある事だ。会話にどこか《引っかかって》、酒精の波が引いたと同時に答えが出る。『何もおかしいこと無かった』。これは私も結構ある事なので、客観視できて良かった。元から人前で飲む方ではないが、更に飲まない理由が増えてしまった。
「そう言えばさ」
「なに」
既に結構酔っている――酒代が安くついて羨ましい――棚町薫は、チラリと顔をあげた私に、ズイと顔を近付ける。突然変な事をするのは10年前からか。彼の癖だ。彼といえば、突然キメ顔を作ってみたり、手を繋いでみたり、後ろから驚かしてみたり……全然縁もゆかりも無い流れで《ヘンな話題》を振ってきたことも数しれず。
棚町薫も、やはりどこかで彼の死の影響を受けているのだ。先程の話題が頭のどこかに《引っかかって》いた私は安堵を覚える。
「『つかさちゃん、私がいなくても一人で眠れる? 電話しようか?』」
「それは誰の真似かしら」
「さあ? 誰だか」
「ノーコメント」
答える必要は無い、という意味で。だって、姉なら――
そして、私がどんなに酔っていようと、どんなに一人な気分だろうと、どんなに姉の声が聞きたくなかろうと――どんなに姉を嫌おうと。姉は私に、話を聞きたいと思わせてしまう。昔はそれが怖かった。姉を見れば声が掛けたくなって、抱き締めたくなって。魔性の女、というよりもっと上の存在である姉を恐怖し、疎ましく思っていた。血を分けた姉妹にすら――だからこそかもしれないけど――、何かもどかしい感情を与える姉。うざったかった。消えて欲しかった。――同時に、そばにいて欲しかった。縋り付いて泣きたかった。一番嫌っていたのは、そんな矛盾を抱えた自分。
それも和解――というか、私の一人相撲だったわけだが、それも集結――し、今では私の携帯電話の履歴には『絢辻縁』しか見えなくなっていた。かつての時間を取り戻すように。
服を見に連れ出してくれ、キャンプに誘ってくれ、温泉旅行に連れられた。遊園地で二人揃って小学生になったこともある。いい思い出だ。
「ノーコメント」
今の私に確かなものが残っているとすれば、姉だろう。――高校生の私に同じことを聞けば、唯一確かでない。と言うだろうと。予想は簡単に出来た。
「……寝る!!!」
三つ、四つほど船を漕いでいるのを私が確認した所で、棚町薫を立ち上がった。時間は……ありゃ、結構夜遅い。まだ十分程だと思っていた。時計の流れは加速度的に早くなる。
「おやすみなさい」
と、挨拶も聞かず部屋の奥に引っ込んでしまう。私の部屋に勝手に上がり込みやがった。……まぁ、いいか。見られて困るものもない、まさか
今の私に
静かに酒を飲む。思えば、いつの間にかワイングラスではなくガラスの丸っこいコップを手にしている。入っているのは焼酎だ。いつの間に、手の中が入れ替わったのか。どうやら、随分酔っている。
この分だと、棚町薫の話も無視して飲み続けていたのだろう。そりゃ、飲むしかない。棚町薫は弱いのでどれだけペースを緩めていても二時間も飲めば自制できないほど眠くなる。悪い事をした。
トゥルルルルル
しかしその音は聞き逃さなかった。反射的に手を伸ばし、開き、ボタンを押す。姉から電話だ、と気づいたのは三回目の『もしもーし』だった。棚町薫におやすみを返したのもそんな感じでタイムラグがあったのかもしれない。
「もしもしぃ?」
『つかさちゃん、こんばんは〜。大好きなお姉ちゃんだよ〜?』
「うん」
『……つかさちゃん、結構酔ってる?』
どうやら相当酔っている。その証拠に、話し方まで違う感じだ。なんだか甘ったるい。頭もクラクラするし。明日も仕事、あるくせに。
「うん」
『だらしないなー。じゃあ、もう寝る?』
「……もうちょっと飲んで寝るわ」
『ダメ! 明日も仕事でしょ? それに、今一人?』
「うん」
『じゃあダメ』
姉は私が一人で飲むのを嫌がる。歯止めが効かなくて、自分の分がなくなってしまうからだ。ちょっと面白い話だったりする。
「……おやすみ…………」
『はい、おやすみ。ちゃんと玄関の鍵は閉めてね。窓もだよ』
「分かってる」
戸締りくらいできる。私が幾つだとおもっているのか。
はぁ。
寝よう。
電話を切り、ゴロンと寝転がる。
そして気付いた。
お風呂、入ってない。
まあ、いいだろう。墓参りくらいしか活動していない。アルコールが服に染みてくるのなら別だけど。
ぐぅ。
深夜五時くらいにトイレに起きたが、
「あー、頭痛っ……」
「だから何度も謝ってるじゃない、申し訳ございません」
翌日、玄関で分かれるときになっても棚町薫は未だフラフラと千鳥足のままだった。聞けば、やはり私は話も聞かずボーッと飲んでいたらしい。上の空ながらも返事だけはどうにか返していたのは助かったが。
そんなわけで飲みすぎだ。棚町薫は二日酔い、私は健康。昨日は
「だーからもういいわよいつもの事だし…………おっとと」
「ちょっと」
大丈夫――?
聞きそうになって、やめた。
フラっ、とよろめいた棚町薫は私の肩に掴まり、
「うん、大丈夫……」
と、不安なことを言う。明らかに大丈夫じゃないけども。足元はフラフラ、頭はグラグラ、目はゴロゴロと全身波打ったように揺れ動いている。こんな状態で、車に乗れば事故では済まない。しかし、私は今日から仕事。彼女を送った後出なければならない。外出中を任せられるほど棚町薫に信頼を置いている訳じゃない。帰ってもらおう、タクシーでもなんでも。
「車は後で取りに来ればいいから」
「うん……」
やはり飲みすぎたようだ。携帯電話を耳に押し当てながら、棚町薫は去ってゆく。バス停に向かうのだ。後はタクシーを拾うなりなんなりするだろう。流石に時刻表くらい読めるはず。
――。
さて、私も仕事だ。面倒くさいけども、行くからには休むことも遅れることもしたくない。
『――いやー、しっかし、飲ませてもらったわー』
「はいはい、ごめんなさいね?」
『いや、いいんだけど。それより、車取りに行くの日曜日でいい?』
仕事が終わると早速電話が掛かってきた。というか、仕事中だった。折り返す、と言ってしまった手前無視もできず。仕方なくこちらからかけた。
「日曜日? 別にいいけど――」
なぜ日曜日か?
聞こうと思ったが、止めておいた。早く切りたいからだ。次の日曜までくらい、車一台――小さな軽四くらい。どうってことないだろう。
『じゃ、そゆことで。また日曜ね』
「ええ。それじゃ」
ブツっ。ツーツーツー。
早めに切って、車のエンジンを入れる。尻から入れているのでバックの必要は無い。早く帰るためだ。
早く布団に入りたい。
ピンポーン。
呼び鈴がなる。今日は日曜だし、棚町薫かなと思って玄関まで歩いてゆく。鍵はあるんだから、勝手に乗って帰ればいいのに、律儀なことだ。
案の定、玄関の扉を開けた先に立っているのは、肩まで伸ばした天パー、ビシッと格好よく決めた服装、目いっぱいに開いたペンダコの目立つ指をピラピラ振っている。ペンネーム、焼きそばもじゃ子。
「おはモニ〜」
「おはよう」
見た目通りに軽く挨拶をしたその人物は、「さっそく行くわよ〜」と何だかよく分からないことを言った。車を取りに来たついでに、どこかに連れ出す気なのだろうか?
最近、特定の人と交流する頻度が多いかもしれないな、思いつつ、疲れる?
と聞いた。重要なのはそこだ。日曜日は休みだし、どうせ1日カーペットと服の毛玉を付け替えるくらいしかやることは無い。付き合ってもいい。
「どれくらい長引くかわかんないのよね。座りっぱだから、座布団とかあればいいかも」
「了解」
言って、家の奥に引っ込んだ。準備しなければ。言うほどではないけど。
まず、ボサっと広がっていた頭を整える。洗面器に湯を貯め、髪を漬ける。四つん這いに縮こまる形になりながら、手を動かして髪を濡れさせる。しばらく待つ。もういいかな、という所で顔をあげつつタオルで髪を包んでやる。パジャマが多少濡れるが、まあそれは仕方ない。
タオルで包んだまま、別の作業に取り掛かる。まずは服。適当な服をタンスから引っ張り出す。時期的にコートは遅れている。最近はまだまだ寒いので、少し厚手の服に羽織を持っておけば間違いは無いはずだ。ズボンは少し緩めのものにしよう。ベルトを巻けば問題ない。
次に持ち物。財布など諸々入った鞄、携帯電話。それくらいかな。化粧道具は…………。
私は全身鏡を見る。選んだズボン、ベルト、服を品定めするように合わせてみた。羽織ったバージョン、羽織ってないバージョン。
むむむ。
当たり前だが、肌というのは荒れる。何もしなければあっという間に砂漠のようになる。若さでは隠せない年齢になってきたというのもある。化粧をやめるとこうも顔が《落ちる》のか。
一応、していくことにした。そういうことなら、打ってつけの人物が車の傍で待っている。私は結局着替えることも無く玄関を出、棚町薫に化粧してくれと頼んだ。化粧をしなくなって久しい。
「えっ、もしかしてあんた、化粧のやり方忘れたの?」
「忘れてはないけど……自信はないわ。道具にすら手をつけてないんだもの」
はあ、とひとつため息が聞こえる。とりあえず中に入んなさい、と言われて、私はパジャマのままであることに気づいた。敷地内だし、別に構わない。
「タオルから髪が飛び出してるけど?」
「寝癖よ」
「へー、知らなかった。まさか絢辻さんも天パーだったなんて」
軽口を叩かれつつ、リビングで――部屋の奥から引っ張り出した――化粧道具を起き、化粧をしてもらう。そう言えばお姉ちゃん以外から化粧されるのは初めてだ。だいたい、外出の時やむおえず化粧する際はお姉ちゃんに任せていたから。
と、そんな事を考えている内に化粧が終わった。ナチュラルメイク――に見えるが、実際はかなり盛っている。シミ・シワ隠しが同年代の比じゃないだろうと自分でも思う。不摂生は覚悟の内。
さて。避けていたタオルを外し、ドライヤーを掛けて――ドライヤーが苦手なのでできるだけタオルで水分を取りたい――、着替え、そして持つものを持てば準備は完了。玄関の鍵を閉める。
先に車で待っていた棚町薫は私の姿を見て、『反則よねぇ』と呟いていた。でも、髪は手入れした方がいいと忠告した。今から美容院に行く時間はないとの事なので、その忠告を聞き届けるのはまだまだ先になりそうだ。
さて。ブルンブルンと車が走っている。
窓から景色を眺めていると、すぐにどこを走っているのかよく分からなくなった。遠出することがないのだ。
仕方なしに流れる対向車と街路樹を見ていると、だんだん、よく分からなくなってくる。
――私は、何故ここにいるか。
――私は、何故棚町薫の誘いに乗ったか。
当然、そんなもの、一時の気分が分析できるはずもない。はずもないのに、私の頭はどんどん疑問を投げかける。だんだんそれが根本的、哲学的になってくる。
――私は今、誰なのか。
――
――
――昔話のカメさんは、その後どうなったのか。
――このまま生きていていいのか。
――生きていて楽しいか。
分からない。分からない。分からない。どうでもいい。いいわけがない。そんなことはない。
一人でボーッとしていると、ついつい自問自答を繰り返す。運転席のスタイリッシュな彼女は、掛けた音楽に合わせて肩を揺すっている。少なくとも、私にとって今は《一人でぼーっとしている》らしい。
最終的な問はいつも同じ。私はなんでこんなこと考えているのか。そこで終わる。今回もそうで、ようやっと白昼夢から抜け出せた。現実に戻ってくる。
ちょっと寝てた。そんな感覚だ。
気付けば全く見た事がない――いや、よくよく知っている、それでいて知らない場所。テレビに度々登場する、巨大な建物だ。武道館。全音楽家の夢、ということくらいしか知らない。
ていうか、何時間走ったのだろう。
武道館の入り口には大量の人集りがある。列を作っていて、うねうねとうねり、後ろの方がダマになっているのだ。
人混みは嫌いだ。人の数が多いために、誰も何も気にしない。お互いに対して無関心すぎる。いつ誰が刃物で誰を刺すか分からない状況なのに、誰も彼もがみて見ぬ振りをしている。
それと、単純に歩きづらい。
「ほら、こっち」
鞄を持って車から出ると、流石に寒い。分からないことは上着を着、ドアを閉める。ピコっと車の鍵が閉まる音がして。棚町薫は私の手を引いて歩き出す。
手首だ。逃がさないぞ、と言われた気がした。べつに逃げたりしないけど。
棚町薫に手を引かれて巨大すぎる武道館周辺を回り込むように歩く。
それにしても、武道館。日本武道館か。なんだろう。
武道館といえば、やっぱり音楽関係が真っ先に思い浮かぶ。《武道》館なのに。
棚町薫は音楽が好きだ。特に広瀬香美とか、SPEEDやZARDといったアップテンポな曲が好きだ。クール系だとなおよし、らしい。ちょっと古めだよピンク・レディー。洋楽も聞いたりするんだとか。
他にも、アニメソングなんかもよく聞く、と言っていた。
兎に角、彼女と話していれば音楽の話が多いわけだ。車や家には常に音楽が流れているらしいし、やれどこそこのアニメの主題歌だ、やれ誰々のプロデュースするアイドルだ、とか。あんまりうるさいもんだから、いくつか曲を覚えた。
真冬のチョベリバ、囁きオパールなど。どこに行ってもおそらく使わない知識だ。
さて。
先を急ぐ天パーに連れられて、即席の柵みたいなものを越えて、裏口のようなところまで来た。
やっぱりアイドルの公演らしく、若い、ヒラヒラしたピンクの衣装を着た女の子達が数人、スーツをかっちり着込んだマネージャーっぽい人がその倍くらいいた――女の子たちはその人たちと真剣に話している――。で、その他にもカメラだとか記者らしき人だとか、兎に角メディア達がいっぱい。こんな廃れた女がくるなんて場違いだとよく考えなくともわかる。
何のつもりだろうか?
と、思えばやはり。
「すみません。失礼ですが、出演者の方ですか?関係者以外立ち入り禁止区画なんですが……」
と、若い男性が話しかけてくる。一番の下っ端、という所だろう。まだまだ年季の入らない新品みたいなスーツに身を包み、ネクタイの結びも甘い。絶対に私の方が稼いでいる。
と、私が何も言わないでいると、隣から声が聞こえてくる。
「出演者じゃないけど、関係者よ。桜井リホ――桜井梨穂子の楽屋まで通してくれる?」
「申し訳ございません、同窓の方でも侵入は出来ないことになっているんですよ」
「マネージャーさんに問い合わせてくれる?」
「いえ、それもできないことに……」
「本人がいいっつってんだからいいでしょ!」
2,3の押収の後、棚町薫は携帯電話を取り出し、画面を見せる。桜井梨穂子とのメールのやり取りだろう。メールアドレスから見れば一発だ。でも、そんな下っ端じゃ何も知らない。ここは強引にでももっと奥まで攻め込む場面だろう。
て、いうか、棚町薫の用事って桜井リホのコンサートだったのか。いや、KBTの、か。KBTといえば今をときめくアイドル。かなりの大所帯で、何人なのか覚えていないけど、かなりの人気があることは分かる。テレビを付けていれば嫌でも目に入るのだ。いや、嫌じゃあないけど。
「えっと…………少々お待ち下さい」
話がついたようだ。携帯電話の画面をしばらく眺めた若者は、考えた後、奥の方へとかけてゆく。黒服(私より少し年上くらいの男)に何事か話し、その黒服が近付いてくる。黒服、といっても怪しい家業みたい、という訳じゃなく、その人だけ目立ってスーツが無地の真っ黒だからだ。
黒服は言う。
「どうも。KBTグループチームK担当の――大雑把に言えば、桜井リホのマネージャーの黒崎です、初めまして。絢辻詞様、棚町薫様ですね。お待ちしておりました。時間も押しているので短い時間にはなりますが、楽屋でリホが待っています」
ついてきてください、と私たちを先導する。それに続いて、小さなドアを潜り、複雑に移動する。
「こちらです」
KBTは人数が多いので、纏めての部屋ですが。
黒崎という男はそう言って会釈をし、扉を叩く。扉の向こうから「どうぞー」と聞こえてきて、「入るぞ」と声を掛けて扉を開けた。
中に見えるのは多くの女性。いや、本当に多い。学校の一クラスなんてレベルでもないくらいに多かった。とりあえず軽い会釈で済ませる。向こうもさして興味はないようで、「誰ー?」など近くの子と話している。イメージは高校などの学年集会だろうか。本当に人数が多い。
「何人いるのよ……」
小声でそう呟く。百人いってそうな量の女の子たちを前に立っていると、奥へと入っていった黒崎が桜井リホ――桜井梨穂子を連れて戻ってきた。一際豪華な衣装を着ている。
「黒崎さん、隣の部屋って使えますか」
「いや、使えない。隣の隣の隣が会議室なんだが、今は誰も使っていないから使えるはずだ。時間になったら呼びに行くよ」
「お願いします〜」
と、そんな話をマネージャーとして、私達についてくるよう合図し、部屋を出ていってしまう。なんだか雰囲気が変だ。
「桜井さんも変わったわよね。十年前から……」
「ええ」
彼女の個性が消えたわけじゃない。マイペース、ドジ、愛嬌。彼女の武器と言えばその辺りで、それは少しも損なわれた気がしないが、見ていると、やはりどこか欠けたような、別人のような印象を受ける。
そんなことを考えつつ、会釈で退室し、棚町薫の背を追った。
「ふっざけんじゃないわよ!!!」
「ふざけてなんかないよ!」
やれやれだわ。
私、絢辻詞はため息をついた。
話を聞いてみると、どうやら私たちは桜井梨穂子に呼び出されたらしかった。棚町薫にメールが届き、そこから私にも伝わっていた、とのこと。棚町薫が忘れていたのか、私が忘れているのかは結局の所わからない。
何故かといえば、桜井リホの卒業コンサートらしい。だから一番目立つ衣装なんだと。これから、彼女は大勢の前で踊った後、女優へと転身する。既に色々と動き始めているそうだ。
そんな話を聞かされていたはずなのに、どうして喧嘩になったか。それは桜井梨穂子――桜井リホの放った一言から始まる。『
「じゃあどういう意味で言ったのよ!!
納得させてみなさいよ!」
「そりゃ、リホだって――。ちゃんと、考えてるよ!!!
仕事を続ける上で、悲しんでばかりいられないってだけなんだから!」
「そこからどうやったら忘れるって発想になるの!」
「普通にかんがえただけ!」
あーらら。棚町薫は桜井リホの衣装――の上から羽織っている上着を掴んで、がなりたてている。その光景を見ても私は、止めようという気にはなれない。面倒だ。ていうか、早く帰りたい。
「あっそう!
――アンタの想いはその程度だったのね。墓掃除も何も全部、今日の為に
「違うっ!!!!」
「何が違うのよ!!」
「全部だよ!
――全部、全部違う!」
前向きに、合理的に、建設的に妥当な答えを導き出した桜井リホが責められている理由。それは彼女の言い方、いや、解釈の仕方にあった。『
――トン、トン。
と、扉がノックされる。
私は腰を浮かせ、二人を座らせ、ローテーブルに置かれた水を身振り手振りで勧め、飲ませる。メイクを崩さないためか、桜井リホはストローだ。
深呼吸させ、「どうぞ」と扉をに向かって声を掛ける。
「えっと、もう少し声を抑えていただけると……」
「ご迷惑おかけして申し訳ございません」
それだけ扉越しに言うと、男声の主はすぐに立ち去った。時のアイドル桜井リホの思わぬ場面に出くわして驚愕したのだろう、もう結構前から扉の前に気配を感じていた。
棚町薫と桜井リホはバツが悪そうにしている。桜井リホは俯いて水を飲んでいる。棚町薫は目を逸らしつつ手の指先をぐしゃぐしゃ落ちつかなげにしていた。あまりいい雰囲気とは言えない。
「私だって……ちゃんと考えてるよ。
「――私達が仕事してないとでも?」
「そうじゃないけど……テレビにもいっぱい出ることになるし、お芝居だって頑張らなきゃ」
「意味がわかんないわ」
しどろもどろになりつつも、支離滅裂ながらも自分の意見を語る桜井リホに対して、棚町薫は冷たく吐き捨てる。どうやら彼女の中に話は決着が着いてしまったらしい。喧嘩しに来たのだろうか。わざわざ武道館のスタッフ入り口まで?
まあ、いいかな。
――はぁ。
私は一つため息を吐いた。結局一言も喋らなかった。来る意味があったのだろうか。いや、来なかったら来なかったでまたムカムカするはずだ。
難しいものだ。
「それに、
「はあ?」
その一言が、更に棚町薫の怒りを加速させてしまう。
「はっ!
忘れたい〜、なんて言ってる奴のセリフじゃないわよ、それ。兎に角、もう話は終わり。来て損したわ。帰る」
「…………。言いたいことは今日伝えたから。交通費はマネージャーさんに渡してる。今日のチケットも渡してるから、良かったら見て行って」
「そんなの要らない。バカと天然ボケが移ったらいけないものね。
――いこ、絢辻さん」
扉を開けて、境を跨いだところで、棚町薫は捨て台詞のようにそう投げる。しかし私は首を横に振った。笑顔で。
「私は、見ていこうと思うわ」
「――どうしてよ」
「天然パーマが移るもの」
もちろんそんな理由ではない。
少しは、そう、少しは納得できる。
――彼の事を忘れ、乗り越え、過去のものにして、進んでゆくべきだ。いつか、笑い話にでもなれば最高だ。そう思う私がいないわけではない。心の中の私ではかなりの極小数ではあるが、そんなことも考える。
桜井リホはアイドルだ。時には男女間の本気の愛をぶつけられるだろう。そんな時、個人に囚われたままでもダメだ。それもちょっと分かるのだ。
「そう」
少し頷くと、棚町薫は本当に部屋から出ていった。これ、帰りは送って貰えたりするんだろうな。電車賃、もしくはビジネスホテルの一室を借りたいぞ。
私と桜井リホが取り残された部屋の中には、思い溜め息が響く。
まあ、棚町薫の気持ちも大いにわかる。
その主張は言わずもがなだが、加えて、今日新たに一つ理由ができただろう。
要するに彼女は、桜井リホの口から『忘れる』旨を聞いて、怖くなったのだ。自分もいつかそうなるのではないかなと。そして、それに合わせ、桜井リホが忘れるなら尚更自分が覚えておくべきだとも感じよう。自分だけは覚えて、悲しんでいてあげようと。
私は恋人枠なので別カウント。
と、棚町薫がマネージャーに連れられて去っていった。本当に帰るつもりらしい。彼女も随分怒っている。結局の所、
「さて。私は有難くチケットを貰おうかな。桜井さん、さっきの人から貰えばいいの?」
「うん…………ごめんね、こんな所見せちゃって」
それは、泣いているところか。それとも喧嘩しているところか。
ああ、でも。棚町薫と桜井梨穂子。二人が仲良いわけだ。こうして何度も衝突したんだ。その度、お互い謝って、関係を修復し、距離を測ってきた。そりゃ、それだけ仲がいいだろう。私には面倒で出来ない生き方だ。
でも。
今回ばかりは仲直りできない。私はは、二人を一緒に見るのは初めてながらもそう感じていた。
「別にいいわよ。人が亡くなったんだもの、それぞれの衝撃は大きいし、受け止め方も違う。喧嘩くらいあって当然だわ。
――じゃあまた、ステージで」
「うん――また、ステージで」
最後にカッコつけてそう言って、別れた。他人と衝突なんて面倒で嫌だけれど、思うところはある。少しだけ、一人で考えたかった。
桜井リホの卒業コンサートは最高だった。
関係者席から見たので彼女はとても近く、多く行ったファンサービスの中にもかなりの数私へと向けたものがあった。他にも、MCで私達の事を少し語ったりもしていた。
彼女が汗も気にせず踊る、歌う。喋る。大勢の人たちが涙して笑っていた。
その他のメンバーは目に入らなかった。覚悟を決めたような表情で登場した彼女だけが視界に映り込んでいた。
社会的に見ても凄かった。武道館は言うまでもなく満席。ライブ中継を行った各会場も満席、建物外には音を聞こうとするファン達。終わってみても興奮は収まらず、ヤンチャしてしまうものまで出た。テレビでは連日その話題で、1週間ずっとボケ老人の相手をした気分だ。そんなお祭り騒ぎを、
一人だけ楽しめなかった者がいる。棚町薫だ。
もちろん、だからと言って変わりは余りない。
相変わらず私は死んだようにそこに在るし、桜井リホは女優としてドラマに引っ張りだこだし、棚町薫はどこか悲壮感漂う作品を創り続けている。
変わったことは、二つだけだ。
まず一つ、棚町薫は私と同居し始めた。
もとより家はどうでもよかったらしい。安く済むならそうすべし、と。そして、今回の一件で結構親密な中になった私に同居を相談したのだ。もちろん、恋人ではない。私の恋人は天国にいるし、棚町薫の好きな人も天国にいる。だから、これは同居というよりはルーム・シェア。今のところ上手くやれている。
二つ目。墓掃除が毎日できる。
幾らでも早起きして、頑張るというもの。棚町薫は、面倒だからそういうのはやらない、らしい。桜井リホもアレから墓には来ない。彼岸には顔を出すだろう。今では、雑巾と花を持って朝早く車に乗り込むのが日課だ。
と、そんな私でも。
充実した生活という訳では無い。変化は二つだけ、私が死んだように、義務感の中で生きているのは変わらない。
次に何かがあるとすれば、五年後だろう。自殺を決心することを望む。