恋色混じりのビター・ノストラム
「にがっ」
血染めのように紅い館の中で、小さな悪魔は苦悶を漏らした。
目をすぼめ、いーっと唇を引き攣らせ、味蕾の上を暴れまわる苦味から逃げ出そうと一生懸命舌を伸ばす。それでも味はしっかりと舌に絡んで離れないので、やり場の無い苦しみをパタパタと足を揺り動かすことで発散した。
「にッッがぁーいっ! なにこれ! ナニコレ!? 信じられないくらい苦いんだけどぉっ!?」
怒り半分、困惑半分。隠し味に涙を少々滲ませながら、レミリア・スカーレットはマグカップを叩きつける様にテーブルへ戻した。
カップの中には『まろみ』のある茶色い液体が溜まっている。仄かに甘く、幽かに高貴なフレグランスは、少女の心を掴んで離さない飲み物の香りだ。
要約すると、ココアである。
チョコレートの原材料として知られるカカオの粉末をお湯に溶かし、たっぷりの砂糖とミルクを融合させて堪能する魔性のデザート、ココアである。
ただし今回はその甘美なイメージと裏腹に、砂糖の優しさは含まれていなかった様子だが。
「咲夜、一体全体どういうつもりでこんなゲキニガドリンクを差し出してきたわけ!? きちんと納得のいく説明をなさいっ! 私が苦いの嫌いなことくらい知ってるでしょもーっ!」
ご立腹の先に立つのは、銀月の如く煌めく美しい髪をした従者だった。
深い青を基調とした使用人の正装。控え目ながらも視界に映えるフリルとカチューシャを添えつつ、遊び心にちょっぴり丈の短いスカートを着こなしているメイドさんだ。
名を十六夜咲夜。事実上紅魔館の管理を任されているレミリア自慢の右腕であり、『完全で瀟洒な従者』の二つ名に恥じる事なき仕事ぶりを誇る、完璧超人なヒトの少女だ。
……注釈として『レミリアのティータイムに試作のゲテモノオリジナルを淹れたり、時たま頓珍漢な言動をする点に眼を瞑れば』を加筆する必要があるのだが。
しかし、今回ばかりは流石のレミリアも堪忍袋の緒が切れた。怒髪冠を衝かざるを得なかった。
だってレミリアはココアが好きなのだ。甘くて美味しいココアが大好きなのだ。幻想郷では中々ココアパウダーを手に入れ辛いという理由もあって、『今夜はココアをお持ちしましょう』と珍しく言ってきた咲夜の言葉に内心浮かれていたほどなのだ。
それを超がつくほど苦いココア――否、ココアの形をした劇物に替えられたとあっては堪らったものではない。故にレミリアは激怒した。かの邪知暴虐な従者を叱らねばならぬと激怒した。
「――お嬢様」
「あん?」
「外の暦で、今日が何月何日かご存知でしょうか?」
今まで涼しい笑顔のまま静観していた咲夜が、おもむろにレミリアへ問いかけた。
怒りの熱が少し冷え、ふわっとした思考が生まれる。
そう言えば最近、咲夜がやたら『今日』を楽しみにしていたなぁ、と暫しの間考えて。
2月14日に行きついた。
「……ああ、バレンタインデーね」
バレンタインデー。かつて兵士の婚姻が禁止されていた時代、彼らを憐んだ司教が内密に結婚を執り行い、その果てに処刑されてしまった悲しき聖人の命日である。
そんな背景が手伝ってか、現代の一部地域……特にこの極東の島国では恋慕を抱く異性へチョコレートを贈ることで想いを伝えるという、変わった風習が根付いているのだ。
更に付け加えれば、今では恋人や想い人に留まらず、日頃の感謝を抱いている恩人、友人、家族など、大切に思う人へ贈るプレゼントでもあるという。
ある意味、レミリアは
「このココアは、その、つまりそういうこと?」
「はい。咲夜からの、日頃の感謝の気持ちですわ」
「いやおかしいよね。絶対おかしいよね。感謝なら美味しく作るハズじゃない? なんでこんなクッソ苦いのよ。感謝の『か』の字も見えてこないんだけど。むしろ日頃の恨み感満載でお嬢様泣きそうなんだけど」
「滅相も無い。咲夜は心からお嬢様をお慕いしております。その苦いココアは、故あって
てのものなのです」
というと? と怪訝な眼差しを向けつつ問えば、実はですね、とメイドは返し、
「今日のお昼に香霖堂の店主へチョコレートをお渡ししてきたのです。私の気持ちを込めて」
「……」
何でこのタイミングでノロけられたの? レミリアは真顔になった。
一応、完璧超人な上に時間も操れるという人智を超えた能力を持つ咲夜だが、それでも彼女はれっきとした人の子である。色々あって吸血鬼の館に就職しているけれど、前提として、彼女は年若く麗しい乙女なのだ。
だから、特定の異性に好意を抱いたとしても別段不思議な話ではない。特に香霖堂の店主――森近霖之助は、少々癖のある男だが博識でウィットに富み、大人びていて、高身長のイケメンである。加えてその独特な人柄に惹かれるものがあるらしく、あくまで風の噂だが、あの博麗の巫女や黒白魔法使いまでもが懇意にしているとの話もある。
であれば必然、趣味で店に通っていた咲夜が何らかのキッカケと機会を重ねて、淡い恋心を持ったとしても疑問など有りはしない。どころか、レミリアは可愛い従者の恋愛事情を陰ながら応援していた節もあったくらいだ。
それがこのとっても苦いココアを作った理由と何の関係があるのか、スカーレットデビルにはとんと理解できなかった。
主の疑問符を捨ておき、従者は頬に人差し指を添えながら、語り紡ぐように話を進めてゆく。
「そう、あれは咲夜が勇気を出して店へ向かった時のこと……」
「……え? ちょっと待って、これ回想に入らざるを得ないくらい長くなるの――――」
ほわんほわんほわんほわーん…………――――
〇
予め断言しておこう。十六夜咲夜は恋する乙女である。
ほろ苦くも甘いこの気持ちを抱いたのが何時の日だったかは当人にも分からない。何が切っ掛けだったかは知る由も無い。
土砂降りの雨に濡れ、雨宿りをした先に介抱して貰った時かもしれないし、仕える主人の素晴らしさに共感してくれた時かもしれないし、無愛想ながらも隠れた優しさに気付いた時かもしれないし、彼の話が面白くてもっと聞きたいと思うようになった時かもしれないし、仕事で珍しくミスをして落ち込んだ時に励まして貰った時かもしれない。
とにかく、咲夜は森近霖之助を好くようになった。初めは戸惑ったけれど、今ではハッキリ好きだと言えるくらい慕うようになった。
そして今日はバレンタイン。外の世界では恋人たちの日とも言われる神聖な日だ。
風習の発祥がチョコ会社の陰謀だとか、幻想郷にそんな文化は根付いていないだとか、些細な事情は咲夜にとってどうでも良かった。そういう日がどこかにあったのならば、利用せずにはいられなかった。
森近霖之助は朴念仁だ。趣味人故の特性か、変な所には鋭い癖に心の機微に滅法疎い。だから厄介極まりない。急がば回れとは言うけれど、彼に関してだけは、回っていては望む結末など永遠に廻ってこないと自信を持って言えるだろう。
だから咲夜は決起した。当たれば砕けるかもしれない恐怖を呑み込み、後悔しない選択を取ろうと決意した。
「すぅ…………はぁ」
お世辞にも綺麗とは言えない店の入り口に立ち、深呼吸を一度。いや、やっぱりもう一度。保険も兼ねてもう一度。
張り詰めた心の線に緩みを作って、優雅に華麗に淑やかに。いつもの十六夜咲夜を演じつつ、勇気の門戸を叩いてみせた。
「ごめんください」
「おや、咲夜じゃないか。いらっしゃい」
「はい、いらっしゃいました。咲夜です」
「今日は――ふむ。どうやら買い物をしに来たわけじゃあなさそうだね」
心臓が跳ねる。どうしてこういう時だけ鋭いんだろうと血が熱を運ぶ。
けれどここで取り乱したらおしまいだ。イメージも、デモンストレーションも、この日のために何度も何度も済ませてきた。恥ずかしさといたたまれなさで逃げ帰るなんてもってのほかだ。
女は度胸と胸に刻みながら、咲夜は鉄の笑顔をもって応対する。
「バレちゃいましたか」
「君が買い物をする時は決まって大きな袋を持っているからね。けれど今日は影も形も無い。そういう日は、決まってお茶を飲んで帰っていく日なのさ。……それで、一応聞くけど何の用だい?」
「これを受け取ってください」
微妙に震える手を必死に誤魔化しながら、咲夜は背に隠していた小さな小包を手渡した。
一生懸命作って、丁寧に丹念に包装した、少女の想いの結晶を。
「これは……」
「店主さん。今日は外の世界で何の日と呼ばれているか、知っていますか――――」
「チョコレートじゃないか!」
「――は。え、あ、はい。そうです、チョコレートです」
まずバレンタインデーの概要を説明して、それからチョコの意味を括りつけて、それからそれから、思い切って告白をする――というのが十六夜咲夜のパーフェクトプランだった。
けれど計画は序章に差し掛かるよりも早く、予期せぬリアクションを前に呆気なくふっ飛ばされてしまった。普段は冷静沈着な彼が、まるでプレゼントを貰った子供のように語気を荒げるなんて想像もつかなかったからだ。
知らずして先手を取った霖之助は、捲し立てるように言葉を飛ばす。
「なんという、っはは。いや失礼、君があまりにもタイムリーな品をくれたものだから、柄にもなくつい興奮してしまったんだ」
「はぁ……喜んでもらえて何よりです……?」
「良い機会だ、チョコレートを持ってきてくれた君に是非とも見せたいものがある」
ちょっと待っててくれ、と言い残し、席を立つ霖之助。彼の中でどんな化学反応が起こったのか知る由も無い咲夜は、溜め込んでいた勇気の風船にぷしゅーっと穴を開けられたように、呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
幾拍の間が空き、青年が会計所へと戻ってくる。手にはボロキレ同然な一冊の本があった。
「これは今朝、無縁塚を歩いていた時に見つけたカカオについてのグリモワールだ。正確にはカカオという魔法薬の原材料、その歴史書――と僕は睨んでいる」
「カカオ……チョコレートの原料の?」
「そう、そのカカオさ。この書籍にはチョコレートの――ひいてはカカオの歴史について断片的ながら記されているんだ。激しい劣化のせいでかなりページが抜け落ちてしまっているが、しかし重要な部分は運よく保存されていた」
趣味人、森近霖之助の本領発揮か。彼は機関銃の雷針が如く舌を動かした。本を台の上に広げ、慎重ながらも素早い手つきでページを捲り、とある箇所を突き止めると、水垢や汚れで半ば崩壊しかけている文字列に指を這わせながら、
「見てごらん。この記事によると、カカオとは遠い遠い世界でとても貴重な代物として扱われていたものらしいんだ。ある時は貨幣に、ある時は王の飲み物に、ある時は薬に、またある時は血と心臓の代わり――即ち、生贄の象徴として使われた」
「は、はぁ」
「これだけでもカカオというものがとても有用性が広く、愛され、そして活用されてきた一品だと分かるだろう? けれど面白いのはそこだけじゃない。僕が一番興味を惹かれたのは、このカカオの薬効さ」
「薬効、ですか」
「そうだ。とても残念な事に、薬効の詳しい効果について記された部分は破けていて解読できなかったのだけれど、数々の断片を組み合わせて僕は一つの仮説を組み立てたのさ。文を読み解くに、どうやらカカオは万病を治し人に幸福をもたらす作用を持っているらしくてね。数々の権力者たちを虜にしたのも納得というものだ。しかしここで疑問が生まれた。この植物は何故そんな効果をもって、彼の大地に生まれたんだろうかと」
「あの」
「この地には根強い信仰がある。大和の八百万の神々にも負けないくらい、多様な神々が祀られている。この図を見たまえ、日輪の様な紋様が一人の人物を中心に囲っているだろう? 恐らくこれは太陽神だ。そして彼らは贄を捧げる事で神の威光と恵みを受け取り、栄え続けてきた種族なんだ」
「霖之助さん」
「まぁ聞きなさい」
軌道修正しようとしたら手で制され、新設レールの増設が続行された。
咲夜は知っている。こうなった霖之助を止められる者は、幻想郷に誰一人として存在しないと知っている。
なので咲夜には、もはや時の流れに身を任せるしか道は無く。
でも流し聞きするのも勿体ないので、折角だから店主の話に耳を傾けてみる事にした。
〇
「太陽は生命に恵みをもたらす命の源泉の一つと考えられている。そして彼らは太陽神から慈悲を受け取る神事を生業としていた。よく考えてごらん? 彼らは太陽神から直々に加護を頂戴していたんだ。大いなる命の源から大陸規模で授かっていたんだよ。すると何が起こるか? そうだよ咲夜、太陽神の力をふんだんに取り込んだ大地から芽吹くものがあるとしたら、それは一つしか無い。太陽神の分霊ともいえる植物たちだ。最高位に座る神々の祝福を一身に受けた緑たちだ。そしてその中で最も強い力を授けられ、蓄え、凝縮を果たした黄金の果実こそが、カカオの正体という訳なのさ」
「……なるほど。カカオが様々な効果を持ち、多様な用途に使われる理由がそこにあったののですね?」
「その通り。使っても使い切れないほどのエネルギーを蓄えたカカオはまさしく神の心臓、その断片と呼ぶに相応しい代物だ。そんな仰々しいものを取り込んでいたのだから万病が治るという伝承にも納得がいく。なにせ太陽の恵みを塊で飲んでいた訳だからね。妖怪と違って日の下に生きる人間が幸福になるのは自明の理さ。まさしく、カカオとは神に選ばれ、神によってもたらされた古代の霊薬……いや、聖遺物の構成要素だったんだ」
「まぁ……! カカオにそんな歴史が」
「驚くのはまだ早い。仮にカカオが神の心臓であるとするならば、それを溶かして飲むという行為は即ち、神の血を飲む事と同義なんだ。分かるかい? ほら、ここの記述と合わせると、その時代の王たちは皆、神の子孫でなくとも現人神に成り得たのさ。人造もとい、
「しかし、そうなるとお嬢様がココアを飲めていたのが不思議ね。太陽の神様の力を取り込んだのなら、吸血鬼であるお嬢様は大怪我を負ってしまうはずでは?」
「ふむ。面白い仮説だね。僕の説を述べるならば、今のカカオに神秘は含まれていないから――という側面が大きいのだと思う。カカオは吸血鬼の弱点として伝えられていないし、外の世界ではもうオカルトは絶滅危惧と化している。コンキスタドールと称される謎の人物によって世界中に広まったとも書かれているし、それが手伝って、太陽神の神威が削がれてしまったんだろうね。けれど今なお外で愛用され、嗜好品の一部を担うほど活躍しているのであれば、少なからず恩恵は残っているんだろう。吸血鬼的視点で言えば、都合のいい栄養だけ残されている状態だから平気なのさ」
「ではお嬢様の健康にも良いという事になりそうね。折角だからその栄養を最大限引き出してみたいですわ。どうすればいいのかしら?」
「恩恵をもっと受けたいというのなら、やはり原始への回帰が大きな効果をもたらすだろう。例えば、そうだね――――」
〇
「という訳で、神様の血を最大限に活かしたココアをお嬢様に召し上がって貰いたくて、敢えて甘味を取り除いた次第なのです。なんでも余分な要素を抜いたほうが、純化されて体に良いだろうと」
「……………………」
ツカレタ。レミリアの脳内からそれ以外の文字が消えた。
一体どれだけの時間が流れたのかは分からない。が、とにかく咲夜と霖之助が熱心にカカオの起源について考察し合い、この至高の妙薬ホットココアを作るまでに至ったかを延々と聞かされ続けた。こんなの疲れない方がおかしいというものである。
もっと言うと、さりげなく無自覚に猛烈なノロケを食らった。話のどこが楽しかっただとか、やっぱり霖之助さんといると心が彩られるだとか、それはもう盛り沢山に。
詳細に語ると本当に砂糖が口から出て来そうになるので、説明は省かせてもらうけれど。
「しかし如何に良薬は口に苦しと言えど、気分を害してまで飲むのもお辛いでしょう。一口は飲まれましたし、残りは砂糖とミルクを加えてまろやかに」
「いや、いい」
「……大丈夫なのですか? 苦手なのでは?」
「今は、いい。これが、いい」
若人の恋は砂糖よりも甘く濃厚だ。普段の立ち振る舞いが幼いとはいえ、レミリア・スカーレットは五百年を生き続けた吸血鬼である。なので、本物の若さが放つ色恋パワーを長時間一身に受け続けたスカーレットデビルは、胸やけを超越したナニカに苛まされていた。
「……にがっ」
だから、最初は大嫌いだったこの苦みも、今では不思議と美味しく感じた。
「で、肝心の恋慕は伝えられたの?」
「……………………あっ」
前途多難、ここに極まり。