真・恋姫†無双 ~凌統伝~   作:若輩侍

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改稿終了いたしましたので更新を再開します。
温かいお言葉を下さった読者の皆様方には、この場を借りて感謝を。

では、どうぞ。


第十二話

前傾姿勢で飛び出した俺の目の前に驚愕を浮かべた甘寧の顔が迫る。細い瞳が大きく見開かれ、その中に映っているのは腕を振りかぶった姿の俺だ。たった数歩分の間合いを詰めるのに必要な時間は一瞬。まばたきをする事すら許す心算のない時の中で、しかし今度は俺が驚愕を顔に浮かべる事となる。

 

咄嗟の事態に驚き、若干後ろに仰け反っていた姿勢を甘寧は自ら後ろへと倒したのだ。顔を狙う心算でいた俺の拳が空しく宙を過ぎる。しかし俺は伸びたその腕をそのまま手刀の形で下へと振り下ろし無防備な腹に一撃を打ち込む。だがそれも下から振り上げられた何かによって打ち据えられ弾かれる。

 

「おっと」

 

間を置かずして更にもう一撃、今度は俺の顎を狙ったらしい一撃が眼前を通り過ぎる。それは後ろに体を倒すと見せかけた甘寧が体を弓の様に反らせて地面に手を付き、後転を繰り出しつつその勢いに乗せて放った二段構えの蹴り上げ。一撃目は手刀の迎撃に、二撃目は俺への追撃に。特に二撃目は顔を後ろに引いて避けなければ確実に意識を奪われたに違いない。

 

「ちっ」

 

後転をしつつ距離を取った甘寧が悔しそうに舌打ちをする。俺から一撃を入れるつもりで、逆に甘寧から一撃もらう羽目になってしまったが、どうやら甘寧は腕に一撃を入れただけではご不満らしい。

 

「流石に江賊の頭をやっていたのは伊達じゃないか。随分と身軽なことで」

「貴様こそ不意打ちとはな。どういうつもりだ」

 

いつでも抜刀できるよう腰の得物に手を添えた甘寧が険しい表情を浮かべる。然もありなん、俺はそうされるだけの事をやったのだ。しかし俺は敢えて悪びれもせずに答える。

 

「共に戦う仲間になるんだ、その実力を確かめたくなるのは当然だろ? 生憎と前線を率いる将に足手纏いは必要ないんでね」

 

白々しいが、これが最もそれらしい理由だろう。実際嘘ではない。だがこれはあくまで建前だ。本当の理由は至極私的な理由に過ぎない。

 

俺が俺自身を納得させたいがための私闘。おやじの仇の実力を、この身で確かめ見極めたい。甘寧が呉の将として誇りを纏うに相応しい、その心は既に知った。なら残るはその力。誇りを掲げ、そして守り抜く力があるかどうかだ。

 

そうでなければ俺は自分を納得させられない。おやじを殺された事にも、甘寧が志を同じくする仲間になる事にも。

 

「浩牙! お前、一体何をして――」

「蓮華様、ご無礼を承知で申し上げますが、今この時だけは口出し無用願います」

 

俺がいきなり仕掛けた事に、一瞬遅れて蓮華様が驚愕と追及の声をあげる。だがそれに対する俺の応答は平静な拒絶。俺に向く蓮華様の声に怒りが生じる。

 

「なっ、馬鹿を言うな! 浩牙、お前はさっき、思春を認めたのだろう。ならば何故、二人が争う必要がある!」

「理由は先程申し上げた通り、甘寧の実力を確かめるためです。これに関しては雪蓮様も了承してくれています」

「姉様っ!」

 

蓮華様の怒りの矛先が今度は俺から雪蓮様の方へと向きを変える。しかし雪蓮様はどこ吹く風と言った様子で、無言のまま一つ頷くだけ。祭さんや海苑じいさんも同じように我関せずで務めている様子に、悔しそうな表情を浮かべて蓮華様が唇を噛み締めながら俯く。そんな姿に申し訳なさを感じながら、俺は俯く蓮華様を一瞥し、そして再び視線を目の前の甘寧に戻す。

 

「とまあ、そう言う訳だ。悪いがあんたの実力、試させてもらうぞ」

「なるほど……それが貴様の建前か」

「否定はしない」

 

察しの良い奴だ。どうやら俺の心内など既に見透かしているらしい。それでいてなお、この俺の自己満足のための茶番劇に付き合ってくれると言うのならば、俺はそれに存分に甘えさせてもらうとしよう。

 

「全力で来てくれ。無手だからといって遠慮はいらない」

 

目を細め、殺気を込め睨みつけるようにして俺は言う。無手と言えども、俺の手には鉄鎚を扱うために拵えた重厚な手甲が装備されている。俺の腕力で急所を殴打すれば人を殴殺するくらい容易い。それが甘寧の様な細身の人間なら尚更だ。

 

「いいだろう。私も貴様とは一度、刃を交えてみたかった。蓮華様の口から幾度も英傑と聞かされた貴様とはな」

「それは光栄だ」

 

甘寧が柄に手を添えていただけの剣を鞘から逆手に抜き出し構えを取り、俺もまた腰を軽く落として拳を構える。誰かとこうして正面から一騎打ちをするのは、黄巾党が暴れ出してからずいぶん久しい。昔は祭さんや海苑じいさんに相手をしてもらっていたものだが、個人の武よりも軍全体の練度が必要な今、俺も含めて将達は皆兵達の調練に掛かり切りだった。

 

だからこうして実力者と武を交える機会が与えられた事に、一人の武人としてどうしようもなく気持ちが昂ぶる。そんな血の滾りと共に、長年胸に抱き続けてきた感情は闘争心となって、そしてついに俺の中で爆発した。

 

「凌公積、推して参る!」

 

名乗りと共に、己の足が力強く踏み込み大地を蹴る。脚甲の蝶番が軋みをあげ、乾いた固い大地が削れて窪む。

 

「おおおぉぉぉぉぉぉ!!」

 

彼我の距離を詰めるは最速の一歩。

 

咆哮の轟きと共に放つのは敵を屠る一撃。

 

ただ真っ直ぐに突き出した俺の拳が確実に甘寧を捉える。避けられないと咄嗟の内に判断したか、甘寧が剣を構えつつ自ら後ろに飛び退く。しかし俺の踏み込みの方が断然早い。振り抜いた俺の拳は甘寧の剣を殴りつけ、盛大に火花を散らしながら甘寧を大きく後退させる。それでも衝撃は上手く受け流された様で、甘寧の剣を破壊するまでには至らない。

 

「ぐっ……出鱈目な踏み込みの速さに、その馬鹿力か。厄介な」

「得物持ちだと流石にここまで速くは動けないけどな。一撃が軽くなった分を速さで補ってるだけさ」

 

普段片手で悠々と振り回しているあの鉄鎚も、鉄の塊である以上は相応に重い。勿論それで明確に動きが鈍くなるほど軟弱な鍛え方はしていないが、それでも鉄鎚を持っているのといないのとでは身軽さが段違いになる。流石に明命ほど俊敏には動けないが、今の俺なら並の隠密達にも負けない自信はある。そんな速さに乗せた普段は鉄鎚を操る手から繰り出される拳は、速さと重さを兼ね備えた一撃であると自負している。

 

だというのに、目の前の人物は困難を感じさせながらも受け切った。しかもそれを初見で行ったという事に、俺は内心驚きを隠せないでいた。

 

「そら、どんどん行くぞ!」

 

そんな動揺を表に現さないように、俺は再び空いた甘寧との距離を先程と変わらぬ勢いで詰め、今度は無手ゆえの手数の多さで甘寧を猛烈に攻め立てる。剣と拳の応酬の中で俺の拳を見切ろうと甘寧の瞳が目まぐるしく動く。だが見切った所で体が追いつかなければ意味は無い。加えて自分で言うのも何だが、俺は甘寧の言うところの馬鹿力。拳を剣で受け流そうにも細身の甘寧にはかなりの負担になるはずだ。そして予想通り、防戦一方の甘寧の表情には一片の余裕も見られない。対して俺は、こうして思考するだけの余裕がまだある。

 

傍から見れば完全に俺の優勢だ。しかしだからと言って決して甘寧が弱い訳ではない。むしろ強いと言える。今の状況こそ防戦一方だが、俺としては正規の訓練を受けて日の浅い甘寧がここまで食らい付いてきている事に正直驚いているほどだ。随分と戦い慣れしている。どうやら伊達に江賊を率いて戦場を戦い抜いてきた訳ではないらしい。

 

個人の武は高く、頭領をしていただけに将として指揮を執るにも不足は無し。蓮華様が傍に置くだけあって人としての内面も悪くは無いのだろう。

 

まさに非の打ちどころの無し。あぁ、認めよう。甘寧、あんたは確かに呉の将たるに相応しい武人だ。だからこそ、今この場で俺はあんたを本気で叩きのめす。確かにあんたは強いが、この程度の強さで満足などさせてなるものか。仮にも蓮華様の傍付なんだ。あんたにはもっと上を目指してもらう。

 

「どうした、江賊を率いる頭領だったんだろう! 攻められっぱなしで終わるつもりか!」

 

攻める手を休めないまま、俺より背の低い甘寧を見下ろす形で俺は甘寧を挑発する。我ながら随分と安っぽい挑発だ。しかし苦戦を強いられ余裕の無い状態にある甘寧の奮起を促すには十分だったらしい。苦しげに細められていた甘寧の瞳に強い光が灯る。思わず背筋をゾクリと震わせられるほどのそれに、俺は反射的に手加減抜きの、体重を乗せた重い一撃を甘寧を叩き潰す様にして放つ。避けるには両者の距離は近過ぎるし、受け切るにも甘寧の剣では脆すぎる。

 

一体どの様にして切り抜けてくるのか。そんな俺の勝手な期待に答えるかの様に、甘寧は鬼気迫る表情を浮かべながらその動きを見せた。

 

「舐め、るなぁぁ!」

 

常に平静さを取り繕っていた甘寧が、感情むき出しの叫びを上げて強引に俺の右拳を討ち払った。無理を行使した反動か、顔に険しい表情を浮かべて甘寧が姿勢を崩す。そこに続く俺の左拳の追撃。だが意表を突かれたせいで俺も少し目測が狂った。それでも普通なら拳が迫る恐怖で甘寧も反射的に回避行動を取るだろうと思っていた。

 

しかし甘寧は俺の拳が右頬を掠めるのも気に留めず、半ば体ごと突っ込むようにして俺の懐に潜り込んできた。虚を突かれ大きく隙を晒した俺に、甘寧がここぞとばかり横一閃に剣を振り抜く。早く、そして的確。どうやっても両手での防御が間に合わないと直感した俺は即座に左足を畳んで掲げた。

 

「なっ!?」

 

次の瞬間、甘寧の驚愕と共に硬質な音が辺りに響き渡った。拳の雨を掻い潜っての甘寧の渾身の一閃は、この身と迫る刃との間に掲げて挟まれた足が纏う脚甲によって空しく弾かれる。欠けた刃の破片が飛び散り、それは偶然にも俺の拳が掠った甘寧と同じ、俺の右頬を浅く切り裂く。

 

「惜しかったな。俺じゃなければ今ので終わってた」

「しまっ――!?」

 

言いながら俺は、咄嗟に飛び退こうとする甘寧より早く、弾かれた反動で身を固くしている甘寧の剣を持つ右腕を素早く掴む。俺の一撃を無理やり受け流し、その上で強引に剣を振り抜いたその腕には、やはりと言うべきか抵抗をするだけの大した力は入っていない。恐らくしびれてしまっているのだろう。何とか脱出を図ろうと甘寧が残る左腕と足で殴打を仕掛けてくるが、俺はそれを難なく受け流す。そして止めの一撃を放とうと右腕を引き絞り、

 

「終わりだ」

 

一言そう告げ、俺は甘寧の鳩尾目掛けて拳を放った。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

「そこまで!」

 

迫る凌統の止めの一撃に不覚にも目を瞑っていた甘寧は、主君である孫策の声にゆっくりと目を開けた。そして目に入って来た目前の光景にゴクリと喉を鳴らす。目を瞑る直前に放たれた凌統の拳が己の鳩尾の寸前で止まっていたのだ。加えてその手には九つの節のある棍が見事に絡み付いている。恐らくこれが凌統の拳を止めたのだろう。

 

もし入っていたなら悶絶程度では済まなかった事が容易に想像できるだけに、内心でホッとする。と同時に、一体誰が止めてくれたのだろうと疑問に思い、九節棍を辿って持ち主に目をやれば、そこには少し困った様にして笑みを浮かべる陸遜の姿があった。

 

「まあ、ここらが潮時か」

 

思わぬ人物に甘寧が言葉を失っていると、凌統が一言呟いて甘寧の右腕を解放する。同時に九節棍から解放された右手を痛そうに摩る凌統を見て、痛みはないが甘寧も無意識に凌統に掴まれていた箇所を摩る。するとそれを見た凌統が申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 

「加減はしたつもりだったんだけどな。どこか痛めたか」

「別に……問題は無い」

 

心配する凌統に甘寧はぶっきらぼうな態度で返す。実際、甘寧としてはそんなことどうでもよかった。腕は多少赤くなっているだけで痣などは出来ていなかったし、そんな事よりも遥かに大きな問題が発覚したからだ。

 

無手の上でなお凌統に手加減されていた、その事実である。

 

無論、英傑と称される凌統を相手に勝利出来ると考えるほど、甘寧は自分の実力に自惚れてはいない。それでも凌統の不意の一撃を見切り、終始押され気味ではあったが、この手にある剣一本で応酬を繰り広げられるほどには善戦出来たと自負していた。

 

だが、そんな自負心は呆気無く砕かれた。彼我の実力差をまざまざと見せつけられた気分だった。なんて無様なことだろうか。遥かな高みにいる相手を前に己の無力を感じながら、悔しさに甘寧は強く唇を噛み締める。そんな甘寧の前に凌統が平然と歩み寄ってくる。

 

酷評でも下しに来たのか。暗い考えが脳裏をよぎり、無意識に身が固くなる。しかし凌統の口から出た言葉は、そんな甘寧の予想を大きく裏切るものだった。

 

「あんた、随分と目が良いみたいだな。流石、あの距離からおやじを射抜いただけはある。久しぶりの強敵だった」

 

それは称賛だった。からかいでも、ましてや皮肉でも無い。真っ直ぐ甘寧を射抜くその視線に嘘偽りは感じられない。

 

ただ純粋に称賛を受けた。

 

普段動揺する事の少ない甘寧だが、敗北によって些か気落ちしていた事と己の予想の逆を行く展開に、甘寧は何故か自分の顔がボッと熱くなるのを感じた。

 

「き、貴様に褒められても皮肉にしか聞こえん」

「そうか。ならそれで構わない。だが俺はあんたの反撃を避けられずにもらった。それは事実だ」

 

甘寧が咄嗟に口にしてしまった心にもない言葉をさらっと流し、蹴り上げられたところを指さしながら凌統は淡々と述べる。

 

「やはり油断は大敵だな」と、付け足す様にして言ったその言葉は自身の失敗への言い訳なのだろう。そんな所は例え英傑と称えられる人物であっても、さほど常人と変わりないらしい。甘寧が凌統に意外な身近さを感じていると、スッと甘寧から視線を外した凌統は、場の行く末の静かに見守っていた孫策の下へと歩み寄り、預けていたらしい二本の鉄鎚を孫策から返却してもらっていた。

 

あれが、凌統の本来の得物なのか――。

 

鉄鎚を手にした凌統の姿を見て、甘寧は改めて自分が手心を加えられていた事を認める。小振りとは言えあんな鉄の塊を凌統の力で振り下ろされては、とても甘寧の力では受け切れない。仮に受けたとしても、並の得物ではその手にある得物ごと打ち砕かれてしまうだろう。凌統が孫呉の鉄鎚と呼ばれるのも納得である。

 

あの様な男が己を仇と見て追っていたのだと思うと、甘寧は今更ながらに背筋がゾッと寒くなる。何となしに甘寧は孫策と言葉を交わす凌統へ視線を向ける。と同時に、耳に届いた思い掛けない言葉に甘寧は内心で驚愕した。

 

「それで、思春と手合わせしてどうだった? 何気に手こずってたみたいだけど」

「気付かれてましたか。上手く隠したつもりだったんですけどね」

 

孫策の問い掛けに凌統は頬を掻きながらそう答えた。

 

凌統が私を相手に手こずっていた?

 

孫策の言葉に甘寧は疑問を浮かべる。どう考えても終始、凌統の表情には余裕があった。しかし主君である孫策はそんな凌統が苦戦していたという。一体どういう事なのか。一番理由を説明してくれそうな人物である黄蓋に視線を送れば、甘寧の疑問を察したのか視線を受けた黄蓋がくつくつと笑い声を上げた。

 

「まあ、思春からしてみれば手加減された上に手こずっていたというのは可笑しい事じゃろうな」

「はい。私の目から見た凌統は終始余裕を保っている様に見えましたが、祭殿は違うと?」

「おう。浩牙の奴、最初の一撃で勝負を決めるつもりだったみたいじゃが、お主に上手く受け流されて驚いておったぞ。気取られぬよう、必死に隠しておったがな」

 

黄蓋は言って愉快そうに口元に笑みを浮かべる。最初の一撃、それは凌統が雄叫びと共に凄まじい勢いで踏み込み放ってきた拳の一撃の事だろう。あの時、甘寧は咄嗟の判断で後ろに下がったが、打ち合った今だからこそ分かる。もし反撃を狙って剣で受け切ろうとしていたなら豪撃の前に剣を叩き折られ、甘寧は為す術も無く吹き飛ばされていたに違いない。

 

「しかし、たかが初撃を避けられただけで手こずると評するのは……」

「何を言っとる。その後、何合も打ち合っとったじゃろう」

「それこそ、凌統が手加減をしていたからで――」

「確かにそれもある。だが良いか、思春よ。浩牙はな、英傑なのじゃよ。己の得物を取り上げられ、策殿から釘を刺されていようとも、その強さは策殿に勝るとも劣らぬ孫呉の英傑。その浩牙を相手に、例え手心を加えられようともあれだけ食い下がれる者はそうはおらぬ。手心を加えてなお、並の相手では手こずりもしない。それが凌公積という男じゃ。だから思春よ、今回の敗北で己を卑下する必要はない。むしろ苦戦しながらも食らいつけたことに自信を持て」

 

真剣な眼差しを伴った黄蓋の強い言葉には慰めや同情と言った感情は一切含まれていなかった。ただ事実を述べただけなのだと、そんな響きであった。

 

「……祭殿」

「なんじゃ?」

 

甘寧は問いかける様に黄蓋の名を呼ぶ。そして次の瞬間、無意識に口をついて出た言葉に、甘寧自身が一番驚いた。

 

「もし私が、凌統を越えたいと言ったなら……祭殿はどう思われますか」

「ほぅ」

 

甘寧の言葉を聞いた黄蓋が口元に笑みを浮かべて目を細くする。内まで見透かす様なその視線に、甘寧の額をツッと一筋の汗が伝う。

 

「なかなかに言うではないか。なるほど、浩牙を越えたいか。なぜじゃ?」

「それは……」

 

黄蓋の問いに甘寧は言い淀む。凌統を越える事は即ち、ここにいる将の誰よりも強くなるという事。そうなれば主である孫権を守るという己が使命にとって大きな力となるのは間違いない。何よりも確実な甘寧が強くなりたいと願う理由の一つだ。

 

しかしここにきてもう一つ、甘寧が強くなりたい理由が増えた。それは何よりも単純なもの。一人の武人であるがゆえに、そして敗北を喫したがゆえに芽生えた、至極簡単な理由であった。

 

「私が奴を、叩きのめしたいからです」

 

奇しくもそれは、凌統が甘寧に抱いたと感情と同じものであったのを甘寧は知る由も無い。凌統から受けた敗北の味は凌統の目論み通り、見事甘寧の胸に熱い何かを灯したのである。それは不甲斐ない自分に対する悔しさか、高みを垣間見たがゆえの向上心か。もしくは自分を負かした男に対する敵愾心かもしれない。

 

そんな感情によって生まれた本音を露骨に叩きつける甘寧の言葉に、黄蓋は一瞬言葉を失った。耳に飛び込んできた甘寧の言葉がじわじわと黄蓋の頭にしみ込んでいき、そしてようやくその意味を完全に理解したところで、黄蓋は堪え切れずに腹を抱えて笑いだした。

 

「な、何を笑われますか」

「いやはや、余りに正直な理由だったのでな。そうか、あ奴を叩きのめしたいからか、くっくっく」

「…………」

 

からかうような黄蓋の言葉に甘寧が無言で不機嫌そうな表情を浮かべると、黄蓋は悪かったとばかりに苦笑を浮かべる。

 

「すまんすまん。なぁに、そう怒った顔をするでない。良いではないか、つらつらと七面倒な理由を連ねるよりかはよっぽど潔い。そうじゃな、もしお主が本当に浩牙へ迫りたいと思うのなら、差し当っては海苑に手解きを受けると良いかもしれぬな」

「海苑殿にですか?」

「うむ。別に儂が鍛えてやってもよいのだが、見ての通り儂の本分は弓。同じ剣を習うのならば儂よりも韓当の方が適任じゃ。まあ海苑は浩牙の師匠でもあるが、今の理由でお主が教えを請えば喜んで手解きしてくれるじゃろう。あ奴も愛弟子があまりに無事に巣立って、少々寂しげじゃったからな」

 

韓当にちらりと目を向けながら言う黄蓋を見て、甘寧は何となく韓当の気持ちが分かる気がした。よく手の掛かる弟子ほど可愛いと言うが、たった一度相対しただけでも分かる程に凌統は武人として完成されていた。恐らく今となっては、かつての師匠である韓当であっても凌統には勝てないのだろう。

 

そんな事を思いながら凌統に目を向ければ、当の本人は何事か陸孫に叱責を受け、地面に正座をさせられ小さくなっている。剣を交えた時とは凄まじい食い違いっぷりに、本当に視線の先にいる男に自分は負けたのだろうかと、甘寧は小さくため息を吐いた。

 

「やれやれ、何時まで経っても騒がしいのう。どれ、少しばかり火に油を注ぎに行くか」

「えっ……?」

 

この時、不覚にも間抜けな声を出してしまった甘寧を誰が責める事が出来るだろうか。呆然と立ち尽くす甘寧を置いて、黄蓋までもが凌統を弄る輪に加わろうと鼻歌交じりに歩きだす。しかしその途中、黄蓋は一度立ち止まると甘寧の方へと振り返ると、その場で固まっていた甘寧に向けて優しい笑みを浮かべた。

 

「思春よ。高みを目指す精神も確かに大事じゃが、常に心の余裕だけは失うでないぞ。策殿や権殿がお主を見出したように、儂もお主には期待しておる。決して折れてくれるなよ」

 

それだけ告げ、今度こそ黄蓋は凌統達の下へと向かう。立場も何も関係なく、まるで家族の様に和気あいあいとした光景がそこにはあった。

 

呉の将兵は皆が家族である。

 

ああ、なるほど。家族の輪に囲まれながら強くなった果てにならば、凌統の様な人物がいても不思議では無いのかもしれない。そして自分も今はその輪の内の一人ではある。しかし幾度も冷遇を受けた事のある甘寧には些か以上にその場所は温かく、そして眩し過ぎた。

 

「思春ー! あなたもこっちに来て手伝って頂戴!」

「……」

 

こんな時でも、あなたは私に手を差し伸べて下さるのか。自分を呼ぶ孫権の声に我知らず甘寧の口元に小さく笑みが浮かぶ。あぁ、そこに行けというのが主の命ならば、例え眩しくても目を見開いて自分はそこに進まなければなるまい。

 

遥かな高みへ続く一歩を甘寧は踏み出す。

 

強くあろう。自分を掬いあげてくれた我が主のために。

 

強くなろう。孫呉の英傑をも超えて、自分こそが主を守る最強の矛となるために。

 

変わらぬ決意と新たな決意を胸に秘め、甘寧は孫権達の下へと歩きだした。

 

 

 

 

 

 

因縁を胸に抱きながら夢を追い求める青年と、

現実を知り遥かな高みを目指し始めた忠義の少女。

 

二人の若き将達の道が交わり、物語は動き出す――。

 




どうもお待たせしました、作者の若輩侍でございます。読者の皆様の温かいお言葉により、無事改稿作業を終える事が出来ました。作業と言ってもたったの二話だけですけどね。

改稿と言うより、ほぼ全文書き直しです。書いては消しを繰り返し、ようやくこの形に落ち着きました。改稿前とギャップがあり過ぎて、正直どうしてこうなったと言いたくなる心境です。というか何故最初にこうならなかったのかと過去の自分を殴りたい。

まあ、それだけ改稿前の文章とその時の作者の頭がぶっ飛び過ぎてた証拠なのかもしれません。危うく凌統のキャラを見失いかけるほどに……。

今後は作風を壊さないよう、ギャグなどは少しずつ散りばめる形で入れるようにし、堅実な文章構成で執筆していこうと思います。旧第十二話は作者の中で永久に黒歴史として封印される事でしょう。

と言う訳で、改稿前の残念りょーとー君の事は記憶から抹消して下さいませ。あれは凌統の皮を被った名状しがたいナニカだったのだ……。

相変わらずの亀更新ですが、どうぞこれからも凌統伝を宜しくお願いします。

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