BotW短編集『ハイラル・ドキュメンツ』   作:ほいれんで・くー

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◆編者前書き
 
 ここに取り上げるのは、約100年前に書かれた手記である。著者は城下町の商人で、名はオルト。その内容は、若い頃に海の彼方のサイハテノ島で体験した出来事について書かれている。にわかには信じかねるものだが、どこか真実味があり、収録する価値があると私は判断した。原題は単なる『手記』である。『サイハテノ漂流奇譚』という題名は、編者による命名である。

 なお、友人のカンギスがこの手記を廃墟から見つけ出し、編者にもたらしてくれた。この場を借りて礼を申し上げる。


『サイハテノ漂流奇譚』前編

 よく生き残ったものだと我ながら思う。

 

 その年、私は十八歳になった。学校卒業の一ヶ月前に誕生日を迎えた。同級生たちが、それまでに学んだ修辞学の技法を凝らして、祝っているのだか祝っていないのだか今ひとつ分からない、長ったらしい詩を贈ってくれたのをよく覚えている。

 

 卒業後の進路は、人それぞれだった。商館の勘定係として、あるいは商工会議所の書記として、もしくは下級官吏として、同級生たちは各々就職していったが、私はというと、特にこれといった道も見い出せず、卒業証書を片手に、ハイラル城下町南の歓楽街をぶらぶらしていた。

 

 在学中から、寮監や友人たちは私の将来設計の無計画さを危惧して、あれやこれやと話を持って来てくれていたのだが、私自身はどうにも真剣になれず、またどの話にも特に魅力を感じられず、いつも適当な理由をつけては断ったり、はぐらかしたりしていた。

 

「いつ本気になるんだ、君は? 私たちが耳元で怒鳴ってもちっとも腰を上げやしないじゃないか。とっくにケツに火が着いてなきゃおかしな時期なのに! この分じゃデスマウンテンが大爆発しても君は動かなさそうだな」

 

 五年間世話になった寮監は呆れ顔にこう言ったものだった。

 

 私自身は、こう言い訳をしていた。なに、商館の店員や書記なんてものは誰にでもできる仕事だろうさ。せっかくの一度きりの人生だ、それじゃつまらねぇ。俺が本気になるのは、誰もやったことのないようなことだ。それこそ勇者様でもやったことのないような、どデカイことを一発ぶちあげてやりたい……

 

 途方もないことをやってみたいと考えながら、その具体的な内容については一切考えていない私だった。野心だけが先行していて、それを実現させる努力はまったくしていなかった。勉強はまあまあできたし、成績も悪くはなかったから今まで誤魔化されてきたが、どうやら私は生来の怠け者だったらしい。

 

 ある友人は、私についてこう言った。

 

「お前って、空っぽだよな。野心だけがオクタ風船のように膨れ上がっていて、中身はスカスカのがらんどうみたいで……」

 

 そんな若い活力を持て余した青年が、無為に街をぶらついていたらどうなるか。結果は単純明解。酒と女と、賭博である。あらゆるいけない遊びに首を突っ込み、耽溺した。

 

 酒と女はさして面白くもないと思った私だったが、その反動のように、博打には熱中した。特に、サイコロ博打にのめり込んだ。

 

 博打を始めたきっかけはごく単純だ。ぶらぶらと手持ち無沙汰に裏路地を歩いていたところを、ガラの悪そうな兄ちゃんの呼び込みに会い、文句に乗せられてホイホイと誘われ、10ルピー賭け50ルピー賭け、三日目には100ルピー賭けるのが普通になっていた。

 

 言うのも恥ずかしい話だが、当然、私は身を持ち崩した。

 

 父と母が決して楽ではない生活をさらに切り詰め、血を絞るような思いをして私に送ってくる仕送り。そのほとんどは、私の生存に必要な費用を除けば、すべて賭場の闇の彼方へと消えて行ったのだ。カラカラという、サイコロが転がる乾いた音とともに。

 

 典型的なカモだったわけだが、私はそれに気づかなかった。博打は今まで経験したことがないほど刺激的だったし、何より「何か大きなことをしている」という感覚は、満たされない野心に身が灼かれるようだった私にとって、たまらなく心地よいものだったからだ。

 

 それまで少ない仕送りをやりくりし、つまらない内職をしてコツコツと貯めていたルピーは、あっという間に底をついた。

 

 宿の一室で空の財布の中身をあらため、あたふたと柳行李をひっくり返し、また財布を上下逆さまにし、パンパンと叩いて中身をあらためても、何も出てこない。

 

 隣のベッドのゴロン族は、そんな私を不思議そうに見ていた。

 

「何してるゴロ? おまじないゴロ?」

「違うよ。ルピーがない。一ルピーたりとてないんだ。ついにシーカー族の聖者様みたいになっちまった」

 

 そのゴロンはなおも不思議そうな顔をして言った。

 

「ルピーがないゴロ? それなら働けば良いゴロ。オラの知ってる採掘場なら一日で100ルピーは稼げるゴロ。紹介してやろうかゴロ?」

 

 とんでもない、コツコツ働くなんて! しかも採掘などという泥臭い重労働を、ゴロンに混じってやるなど、できるものか! 俺はそんなつまらない人間じゃないぞ! それに、一日にたったの100ルピーだって? サイコロなら上手くやればその10倍は軽く稼げる! 

 

 それで、私は働かずに軍資金を得ることに躍起になった。つまり借金である。こんなことにだけは本気になれた私は、実家に手紙を書き、城下町の遠縁の親戚のところへ出向き、友人に無心し、宿のおかみからも少なくない額を恵んでもらった。

 

 仕送りに添えられた母の手紙の内容を、今になっても思い出す。

 

「お前が本代にも事欠いているとのことで、母さんはとても気の毒に思いました。結婚式の時に着けたブローチを売り払って、そのルピーをお前に送ることにします。どうかこのお金で高くて立派な本を買って、たくさん勉強をしてください、そして、どうか良い職場を得られますように……」

 

 そのうち返済が滞り、かつ私の博打癖が知れ渡るようになると、当然ながら誰も金を貸してくれなくなった。両親にも、誰か告げ口をした者がいたらしい。いくら手紙を書いても、返事は一切来なくなった。

 

 困った私は、ついに怪しげな連中の店に出入りするようになった。いわゆる、闇金というやつだ。店主の名は、サコンと言ったか。博打の世話役から紹介されたのだ。

 

 ルピーが無いから博打を打てないという私に、世話役は、何でも俺は知っているというような顔をして、馴れ馴れしい態度で話しかけたものだ。

 

「兄ちゃん、アンタは博徒の素養があるよ。そりゃ初心者のうちはカモられることもあるさ。でもアンタは学校出だろう? そんなら分かるだろうが、今はいわば勉強期間さ。学校だったら授業料は要るし、教科書代とか、他にもいろいろ金を使うだろ? この業界だって同じさ。勉強するには金が要るのさ。かけた金の分だけ賢くなって、将来的にはそれ以上に取り戻せるようになるよ。それを今、金がなくなったからってやめちまうのは、なんとも勿体無い話さ。学校を途中でやめちまうようなもんだよ。俺が低金利で金を借りられるところを紹介してやるから、もう少しこの道を極めてみなよ……」

 

 そんな馬鹿な話をなぜ聞いたのか、本当に愚かだったと思うが、当時の私にとってこれほどありがたい話はなかった。紹介された店はいくら借りても嫌な顔一つしなかったし、煩わしい督促も一切しなかった。私は最初はおずおずと、そのうち大胆になって、借金の額を膨らませていった。

 

 そんな生活を一年あまり続けた。友情も信義も、両親への愛すらも消え果てていた。絶対に捨ててはならないものを、全部自分からかなぐり捨てていたわけだが、当時の私はそれをなんとも思っていなかった。恐るべき悪徳と退廃の生活を送り、長い年月をかけて勉強した学問の数々も忘れ果てて、私は毎日遊び呆けていた。

 

 決着が一思いについたのは、ある意味で幸運だったかもしれない。

 

 その日の早朝も、私は無精ヒゲも伸ばしっぱなしにし、洗っていない髪を脂でゴワゴワさせて、安宿の寝床に横になっていた。頭の中は、遠い土地にいる父と母の健康のことではなく、どうやったら今日の博打に勝てるかだけを考えていた。

 

 そろそろ東の空が白んでくる頃、夢想することに疲れた私はうつらうつらとしていた。その時だった。私の部屋のドアが静かに開いたかと思うと、三人の男が音もなく入ってきた。いずれも黒い覆面をしていた。

 

 あっ、と思う間もなく、そいつらは私に近づき、私の口に猿轡を噛ませ、頭に麻袋を被せ、手足を荒縄で縛り上げると、三人がかりで持ち上げて部屋から運んで行ってしまった。

 

 半分夢の世界にいた私はろくに声もあげられず、抵抗もできずに連れて行かれた。そのうち気を失ってしまったのか、途中の記憶はまったくない。

 

 目が覚めた時には、見たこともないどこかの平原にいた。幌のついた大型馬車が一台、周りには虚ろな目をした男たち。若いのもいれば年をとったのもいる。中にはチラホラと、賭場で見知った顔もいる。全員一箇所に集められ、その四隅には短剣を持った男たちが立っている。

 

 痩せぎすの、顔に一筋の傷がある男が、馬車からのっそりと出てきた。ドスの効いた低い声で私達を怒鳴りつける。

 

「テメェら、このクソ債務者が! 人のルピーでのうのうと博打三昧をしてきた人非人が! いつになったらルピーを返す気だ? 俺たちは待ちに待ったぞ、テメェらのおふくろよりも忍耐強く待ってやった! それなのにテメェらは返す素振りすら見せねぇ! 借りたものを返さねぇやつは、ドロボーだ! ドロボーってのは、縛り首がお似合いだ! 本当ならお上に頼んでテメェらを片っ端から絞首台に送り込んでやるところだ! だが、俺達の親分は優しい。親分は、ボコブリンのクソより劣るテメェらがちゃんと更生して、まっとうな人生を歩めるようにと、チャンスを恵んでくれるってよ! ありがたく思え!」

 

 男は顔色一つ変えずに一気に捲し立てた。カタギの人間には決して出せないその迫力に、隣にいた気弱そうなメガネがビクリと体を震わせたのをよく覚えている。

 

 それからのことは詳述する必要もないだろう。要するに、私達債務者は全員「オクタ部屋」に入れられたのだ。馬車に乗せられてハイラル中のあちこちを行ったり来たりして、穴を掘ったり埋めたり、トンネル工事をしたり、銅の採掘をしたり、さる富裕商人の別荘の土台作りをしたり、沼の埋め立てをしたり、とにかく重労働の毎日だった。日が昇る前から働き始め、日が暮れると作業終了だが、その間は食事時間以外一切休みがない。

 

 食事は、塩味だけの具無しの薄いスープに、おがくず混じりの硬いパン一きれ。いや、それもあったらまだ良いほうで、何も食べられない日も多かった。

 

 私達をあえて空腹状態にしておくことで、頭を働かなくさせ、脱走や反抗などのつまらない余計なことを考えさせないつもりだったのだろう。

 

 どうしても空腹でやりきれない時は地虫を掘り出して食べたし、バッタやヤンマも生のまま食べた。カエルなどは貴重なタンパク源だったし、魔物だって、チュチュなんかが出た日には、皆で寄って集って叩き殺し、チュチュゼリーを奪い合うようにして啜ったものだ。

 

 そんな傍から見れば生き地獄そのもののような生活でも、渦中の当人にとっては、不思議なことにさほど辛いとは感じられなかった。他の連中が落盤で圧し潰されたり、栄養失調で死んだり、魔物に食われたりしたら、私も気の毒に思ったし、状況の過酷さを思い知って暗然たる気持ちになったが、それ以上に、私は心のどこかでホッとしていた。

 

 今は野心に灼かれることがない!

 

 野心ばかり先行していたあの頃は、それと同時に堪えきれないほどの焦燥感をも覚えていた。だが、今はその苦しみから解放されている。

 

 この安堵の気持ちは、その状況に実際に身を置いた人間以外にはなかなか分かるまい。とにかく、当時の私が、空腹を抱えて重いモッコやツルハシを担ぎながらも、一種の安らぎを覚えていたことは確かだ。以前ならば「重労働など!」と息巻いていた私が。

 

 あるいは、そういう心境にさせるのも、債権者と監視者たちの悪辣な目論見だったのかもしれない。事実、私達の中で、反抗をしたり、脱走をしたりしようとする者はほとんどいなかった。

 

 やろうとする者がいたとしても、それは労働開始数日後から数週間後の「若い」奴らで、数カ月経った「老人」の中にはまったくいなかった。反抗者は拳を振り回して精一杯の抵抗を示すのだが、すぐに監視者に顔面を殴られ、腹を蹴られ、短剣で脅されて、涙ながらにすごすごと帰っていくものだった。

 

 こうして皆、ハテノウシのように大人しく、無害な生き物として飼い馴らされていったのだ。

 

 眠れぬ夜を焦燥と共に過ごすよりも、醒めない悪夢を見続けているほうが良い。私達は皆、いわば眠りに取り憑かれた病人だった。

 

 

 転機になったのは、何年の何月だったのだろうか。おそらく私は二十歳になっていたと思うのだが、正確な日時など今となっては分かるはずもない。

 

 私達は、硫黄の採掘に従事していた。今となっては、その場所は奥アッカレのカザーナ裂谷にあるドクロ池付近だったのだろうと思われるが、当時の私達はいつもと同じように、言われたとおりに動き、言われなくとも動いていた。

 

 重い硫黄の入った粗末な籠と、大気を満たす重苦しい火山性ガス。フラフラとおぼつかない足取りで、私達は黙々と作業に従事した。真っ赤に固まった硫黄の塊を見て、あたかもそれは大地から吹き出た血膿のようだと私は感じたが、次の瞬間には、そんな詩にもならない詩的な表現が、かつての学校時代の残滓であることに思い至って、舌下にほろ苦いものを覚えるのだった。

 

 硫黄採掘に従事したのは一ヶ月か、それとも二ヶ月か。あるいは数週間だったのかもしれないし、一年に渡ったのかもしれない。風景に変化がなく、地熱により気温も一定なため、時間の変化を感じることはできなかった。

 

 だが、転機は確かに訪れたのだ。

 

 来た時よりも幾分か減った人数を馬車に詰め込み、私達は硫黄採掘場を後にした。次に向かうのはどうやら南のフィローネ地方らしかった。いつもは口を閉ざしている御者と監視役の男が、その時に限ってなぜか饒舌で、次の目的地についておしゃべりしているのが聞こえたのだ。

 

「で、このヒツジさんたちは次にどこへ行くんだい」

「フィローネだとさ。あそこで新しく水銀が採れる所が見つかったらしい。で、需要はあるが人手が足りない。人手は欲しいが金は掛けたくない。まあ、いつものことさ。安い労働力が欲しいんだよ」

「水銀か。バアさまから聞いたが、水銀ってのは猛毒らしいな」

「俺のバアさまの意見はまったくの正反対だったな。水銀ってのは不老長寿の妙薬らしいぞ」

「なんだそりゃ。どういうことだ」

「知るもんかよ。とにかくルピーになるから事業になるんだろ」

「しかしここからフィローネまでえらく遠いぞ。こんなボロの馬車でノロノロ行ってたら王女様だってバアさまになっちまう」

「キタッカレ海岸に船が来てるらしい。俺たちはそこまでヒツジ共を運べば良いだけさ」

「なんだ、楽な仕事じゃないか……」

 

 男たちの言ったとおり、私達「ヒツジ」は、とあるどこかの海岸で馬車から降ろされ、そのまま小型の帆船に移された。家畜の飼料や屑鉄を運ぶような、およそ人を積荷として想定していない、ボロボロの中古の帆船だった。

 

 帆船は私達を収容するやすぐに出帆し、一路南へと舳先を向けて、海面をノロノロと進み始めた。といっても、船底にいた私がその様子を直接見れたわけではない。私も皆と同じように押し黙ったまま、フナムシが蔓延る船底をじっと見つめていたのだから。今になって当時の状況を思い起こし、おそらく船はそういう状態で進んでいたのだろうと想像するだけだ。

 

 夜になると(これも無論想像だ。時計の類はなかったのだから)、帆船では何よりも貴重な真水が、バケツ一杯分だけ上から運ばれてきた。あとは、一人あたり半欠片のビスケット。水は清潔だったが、ビスケットには蛆が湧いている。食事はたったそれだけである。飢えた男たちにはまったく足りていない。

 

 それでも、何も問題はないのだ。ヒツジたちは魂が擦り切れるほど疲れ切っていて、食事の内容に不満を表明して抗議をするなど思いもよらない。そのことを甲板上の男たちはよく承知している。

 

 なに、海水でないだけマシさ。蛆だって、よく噛んで食べてしまえば栄養になる。

 

 ハイリア人が根っこから善良に出来ているのか(そうであるならハイリア人が同じハイリア人を虐待しているという、この状況は説明できないが)、それとも同病相憐れむというやつか、はたまた単なる無気力か。薄暗がりの中で、私達はバケツの水を静かに回し飲みし、ボソボソと蛆ごとビスケットを食べた。

 

 三文小説のありがちな展開では、この水を巡ってひと悶着起きるものだが、私達は王侯貴族のお茶会にひけをとらないほど上品に、言葉少なく、そしてそれ以上に満足して「食事」を終えた。そしてそれが終われば、また長い忍耐と沈黙である。

 

 ゴトゴト、ゴトゴトと、波が船体を叩く音以外は、何も聞こえない。甲板の上の音も聞こえない。隣にいるはずの人間の息遣いすら聞こえない。

 

 私はいつしか、夢を見ていた。これは、いつかの時の誕生日だ。私は上等な新しい上着と、糊のきいたシャツを着ていて、行儀良く座っている。目の前には両親。そして、私の大好物であるイチゴのフルーツケーキがテーブルにのっている。

 

 父がにこやかな表情を浮かべている。母も歯を見せて笑っている。二人が穏やかに話しかけてくる。

 

「オルト、誕生日おめでとう。学校も無事に卒業して、良い就職先を見つけたな。これからの人生は順風満帆だな。父さんも安心して隠居生活ができるってものだ」

「お父さん、まだ残ってることがありますよ。オルトの結婚がまだですわ。孫の顔を見ないうちから隠居だなんて……」

「おお、そうだった、そうだった。あとはお前の結婚だけだったな!」

「さ、オルト。お前の大好きなイチゴのフルーツケーキですよ。好きなだけおあがりなさい」

 

「ありがとう。いただきます」

 

 母に促されて、私はナイフをケーキに入れる。生クリームを切る、フワフワとした感触。漂うイチゴの香り。フォークで一角を削り、たっぷりと口へ運ぶ。

 

 ガリッ。味わう前に、何か硬い感触を歯で覚えた。思わず、ぺっと吐き出す。

 

 出てきたものは、サイコロだった。オオツノサイの犀角で出来た、正六面体の白いサイコロ。それがケーキの残骸とともに私の口から吐き出されて、紅色のテーブルクロスに黒い染みを作っている。

 

 母が驚きの声をあげる。

 

「あら、まあ!」

 

 私は、今度は喉に違和感を覚えた。ムズムズと何かが引っ掛かっているような、それでいて無理やり這い出てくるような、例えようもない不快感。

 

「むぐっ!」

 

 それは突然こみ上げてきた。深酒をした日の翌朝のように、私は堪える間もなく吐き散らした。

 

「なんと、これは!」

「オルト、お前!」

 

 父と母の叫ぶ声が聞こえる。だが、私はもはや両親を見ていなかった。私は、私自身が吐き出したものを見ていた。

 

 ザラザラと乾いた音を立てて吐き出されたのは、大量のサイコロだった。

 

 次の瞬間、視点が私の背後に移っていた。目の前の私は、なおもサイコロを吐き出し続けている。次第に口からだけではなく、鼻から、耳から、目から、サイコロが溢れ出した。

 

 その時、なんとなくだが、私は自分の中身が実はサイコロだったのだと思った。

 

 吐き終えた私は、皮だけになっていた。白いサイコロの山に覆い被さるように落ちている、だらりとした黄色い皮膚。ちょんちょんと、ルーレットボールのようにコロコロとした目玉が二つ、その頂点に転がっている。

 

 周囲は暗黒に包まれている。父も母も、もういなかった。

 

 どこからともなく声が聞こえてくる。

 

「お前には何も残されていない…… お前には何も残されていない……」

 

 バリッ、という鈍い亀裂音が、私の意識を現実へと引き戻した。私は元の通り船底に腰を下ろしていたが、夢を見ている間に状況は一変していた。

 

 船は大揺れに揺れていて、いわゆるピッチングを繰り返していた。それは次第に大きくなり、ついには船底の私達は座を保っていることができなくなった。

 

 強い波の衝撃を受けて、老朽化した船体のあちこちから部材の軋む音が聞こえ、時たま嫌な響きを立てて亀裂音が走る。

 

 そして、恐れていた事態が起こった。後方にいる誰かが、ギャッと叫ぶ。

 

「水だ! 水だ! 浸水してるぞ!」

 

 その声を聞いて、今まで静かに船の激しい動揺に耐えていた男たちは、一斉にわめき声を上げ始めた。

 

「何だと、浸水!?」

「本当だ! 床が濡れてるぞ!」

「おい、上のやつらを呼べ! 浸水だ! 浸水してるぞ!」

 

 何しろ灯り一つない暗闇の船底である。上への出口は外から固く錠で閉鎖されていて、逃げ場はどこにもない。そこへヒタヒタと浸水してくる海水は冷たく、男たちの恐怖心を極度に煽った。

 

 私も、このままでは下手をすると溺死だと感じ、腰を上げて手探りで昇降口へ行くと(船が大変な勢いで揺れ動いているので、並大抵のことではなかった)、扉をドンドンと拳で叩いて外へ呼びかけた。

 

「おい、おい! 船底に浸水だぞ! ここを開けて出してくれ! おい! 俺たちこのままだと溺れ死んじまう! おい、開けろ!」

 

 こんなことをやったならば、普段は扉が開くと同時に鞭が飛んできて、「ヒツジごときが口を利くな!」とばかりに折檻を加えられ、沈黙を強要されるのだが、このときは何も返事がなかった。

 

 私は、連中が私達のことを忘れ去っていて、どこか船の別のところに固まっているのかと思い、それならさらに大声を立てて騒がなければと、一層激しく喚いた。

 

「おい! おい! 開けろ! 畜生め、開けろ! おい!」

 

 意外なことが起こった。ドンッ、と一際強く扉を叩くと、なんとそれはあっさり開いたのだ。鍵が壊れていたのか、それとも何らかの理由で鍵が掛けられていなかったのか。今となっては分からない。

 

 様子を見ていた男たちが口々に言う。

 

「開いた! 開いたぞ!」

「早く外に出ようぜ!」

「オルトさん、アンタが最初に外に出てくれよ!」

 

 私は身を乗り出して、一番最初に甲板上へ出た。そこには、なんということだろうか、私の想像もしていない光景が広がっていた。

 

 空は紫色をしていて、黒雲は渦を巻いている。生暖かい烈風が吹き荒び、無数の緑色の稲妻は轟音と共に空を駆け、大粒の雨は世界全土を水没させんとばかりに天から降り注いでいる。

 

 甲板上に、私達の監視者は一人もいなかった。船員もいなかった。船底の私達以外、人間は誰もいなかった。

 

 しかし、そんなことよりも私の心に怪訝の念を起こさせたのは、船の上部構造物が軒並み破壊されていたということだった。メインマストは中程からへし折れ、キャビンは粉砕されており、ボートも残らず破壊されていた。

 

 特に、ボートがおかしい。私は、船員たちと監視者たちはこの嵐に遭遇して、このオンボロの帆船では沈没は免れないと、早々に船を(そして私達を見殺しにして)捨てたのかとはじめは思った。しかし、そうであるならば、ボートが残されていて、しかも破壊されているのは辻褄が合わない。

 

 私が考えに耽っている間に、船底の男たちはゾロゾロと甲板上に上がってきた。

 

「なんだ、なんだ!? 誰もいねーぞ!」

「なに!? どういうことだ!?」

「いない、誰もいないぞ!」

 

 突然得た思わぬ自由に、男たちは浮かれたように騒ぎ始めたが、私は怒鳴りつけてそれを静止した。

 

「お前ら落ち着け! 何かよく分からんことが起きたみたいだが、これはチャンスだ。俺たちで船を動かして逃げ出すんだ! おい、だれか船に詳しい奴は……」

 

 動悸が激しい。おかしな話だ。厳重な監視下で重労働をさせられていた時は安逸を覚えていて、いざ逃げられるとなったらこんなにも早く心臓が脈打つなんて。

 

 しかし私の言葉と思考は、そこで中断せざるを得なかった。というのは、息をするのも忘れるほどの壮絶な光景が、突如として嵐の海面上に現出したからである。

 

 帆船の左舷前方に、それはヌラリと現れた。

 

 それは、紫色の血管の走る、白くて太い、数え切れないほどの吸盤がついた、長い触手だった。それが一本、次に二本目が程なくして海面下から生えてきて、垂直にそそり立った。

 

 その二本の触手の根本から、海水を白く泡立てて、渦巻きが発生した。あっという間にそれは直径を長くして、私達の帆船はいとも容易くそれに巻き込まれた。船はぐるぐると渦巻きに沿って流され始めた。

 

 男たちは言葉もなく、その光景をただ見ていることしかできなかった。

 

 そしてついに、私達の前に触手の本体が現れた。

 

 それは、巨大なイカだった。大きさは、中型のコルベット艦ほどはあるかもしれない。無数の黄色い目をギョロつかせて、甲板上の私達一人ひとりを、その目一つひとつで凝視している。

 

 誰かが放心したように言った。

 

「ダイオクタだ……」

 

 ダイオクタ! 私も学校で習ったことがあった。海に棲む伝説上の怪物で、巨大なイカやオクタのような姿をしている。普段は海中深くに潜んでいて、時たま腹を空かせると海上へ浮上し、嵐を呼び起こし、獲物をたらふく喰ったあとは、また海中深くへ帰っていくという。

 

 あくまで伝説上の存在であり、本当にいるかは疑問視されていた。近年の徹底的な海洋調査の結果、少なくとも近海で存在は確認できなかったと、王立アカデミーが報告していたはずである。

 

 それが、確かに目の前にいる!

 

「あっ」

 

 誰かが、声を上げた。ふと後ろを振り返ると、あまりパッとしない茶髪の新入りが、いつの間にか白い触手に捕まっていた。

 

 触手はビュンと力強く茶髪の新入りを天高く持ち上げると、そのまま本体の口元へ勢いよく運んでいった。

 

 茶髪の断末魔が途切れ途切れに聞こえてくる。

 

「うわああぁぁぁぁ……!」

 

 彼は、海面下へ姿を消した。食われたのだ。今まで上甲板にいた船員や監視者たちも、彼と同じように食われたのだ。

  

 悲鳴にならない悲鳴が、あちこちで漏れる。

 

「ひっ……」

「う、うわぁあああ……」

 

 次に、パニックが起こった。甲高い悲鳴をあげる者、喚き散らす者、奇妙な笑い声と共にへたりこむ者。

 

「ひっ、ひぃいいいいい!!!」

「逃げろ、逃げろぉおおおお!」

「うへ、へへ、へへへ……」

 

 甲板上を男たちがなすすべなく右往左往しているその間にも、ダイオクタは次々と触手を伸ばしてきては、着実に獲物を捕まえた。

 

「落ち着け、落ち着け…… どうすれば良い、どうすれば……」

 

 私は、考えた。甲板にいる限り、ダイオクタの餌食となることは免れない。船底に逃げ込めば、あるいは触手からは助かるかもしれないが、この嵐の様子ではいずれ船そのものが沈没し、結局は溺死するだけだろう。

 

 状況を分析している最中にも、心臓の鼓動はますます激しくなり、呼吸も荒々しくなる。混乱した頭脳では、最善の選択肢というものがどうしても思いつかなかった。

 

 しかし、もはや猶予はならない。直感が体を動かしていた。私は渦巻く漆黒の海面へ、思い切って身を投げた。

 

 ダイオクタは帆船に夢中で、海に飛び込んだ私など眼中にないようだった。したがって、触手は一本たりとて来なかったのだが、私の方は体をなんとか浮かせるのに必死で、それに安堵している暇などなかった。

 

 激浪が頭と体を揺さぶる。浮きつ沈みつを繰り返し、海水をガブガブと飲んだ私は、次第に意識がぼんやりと希薄になってきた。もとから重労働と栄養失調で衰弱していた肉体である。体力など、飛び込む前から底をついていた。

 

「グギャゴォオオオオオオオオッ!!!」

 

 突如、海面上に咆哮が響いた。ダイオクタの鳴き声だ。怪物は帆船に泳いで近寄ると、触手を何本もその古びた船体に巻き付けて、力いっぱい締め上げ、空中に持ち上げた。

 

 伝説では大型の戦列艦すら沈め得る怪力とされている。そんなものに中古の帆船が耐えられるわけがない。数秒も経たずして、あたかも穴の空いた古樽を粉砕するように、ダイオクタは帆船を空中でバラバラにした。

 

 中身がこぼれ落ちてくる。船底へ逃げ込んでいた男たちが、無数の破片とともに海面へ落下していくのを、私は確かに見た。

 

 帆船を完全に破壊したダイオクタ。では、次に興味を持つのは、海面を漂う私であろうか? だが、ありがたいことに幸運が私に味方した。

 

「グォオオオオ!!!」

 

 ダイオクタは、食事と破壊に満足すると、短い咆哮を上げて、暗い海中へと帰って行ったのである。後に残されたのは白いあぶくだけだった。

 

 これで捕食される心配だけはしなくて良くなったわけだが、小山のように大きかった怪物がいなくなったからと言って、海の嵐はまだまだ止まなかった。むしろ、これからが本番だと言わんばかりに風雨と雷はその威力をますます強めた。

 

 波を被り、海中に押し込まれ、もみくちゃにされながら流され続ける。私は既に限界を超えていた。グッタリとして、指一本たりとも動かせない。視界はぼやけて、耳も良く音を拾えない。ブクブク、ゴボゴボと、たまに泡の音が聞こえた時に、ああ今は海中にいるんだな、とぼんやりと思った。

 

 ここで再度の幸運に恵まれなければ、私は無残にも海底に屍を沈め、魚たちの思わぬご馳走となり果てていただろう。

 

 その幸運は、小さな樽という形で現れた。帆船に積まれていたそれは、ダイオクタによる破壊を免れて、なんの因果か私のそばへ流されてきたのだ。

 

 私は樽を見つけると、最後の力を振り絞って、両手でそれを捕まえた。腹と二本の腕でがっちりと小さな樽を抱え込む。強力な浮力を得た体は、以前よりも沈まなくなった。

 

 ここで、私の気力は遂に尽きてしまった。意識を失えば、この樽を手放してしまうだろう。そうなれば、死だ。でも、死か。どうでも良い。今は眠い、ただひたすら眠い。どうか眠らせてくれ……

 

 

 よく生き残ったものだと我ながら思う。

 

 ザザザ、ザザザと波が打ち寄せる音がする。体に、波がかかっている。日光の温かみを背中に感じる。冷たい砂の感触を、顔面で感じる。私はうつ伏せで倒れていた。

 

 声が聞こえる。甲高いが、女の声ではない。若い盛りを過ぎた、男の声がする。

 

「生きてるかな? 死んでるかな? それともそのどっちもかな?」

 

 つんつんと、何か棒のようなもので、体を突かれている気がする。

 

「むむ、これは妖精さんにお知らせしないとなのだ! 早速……っと、おお?」

 

 私の意識は、ここで現世に戻ってきた。

 

 首を上げて薄目を開け、目の前を見る。そこには、人がいた。強い日光があたりを白く染め上げている中、その人物の姿だけは、やけにはっきりと認識することができた。

 

「ワォ! 目が覚めたのだ!」

 

 その男は、妙に小さな体格をしていた。学校に入る前の子供と同じか、もしくはそれよりやや大きい程度。

 

「大丈夫? 大丈夫? あ、大丈夫ではないかぁ」

 

 だが、問題なのは背丈の高さではなかった。男の格好が、まさに奇妙奇天烈なのが問題だった。

 

 全身を緑色のピッタリとしたタイツで包み、赤色のパンツを履いている。その道化師じみた格好とは裏腹に、顔の作りは醜悪そのものだった。真っ赤な鼻はブツブツとしていて、まるで腐りかけのイチゴのよう。あごひげは綺麗に整えられているが、それが却って顔全体の醜悪な印象を増している。

 

 この珍妙な男は、そのクリクリとしたガラス玉のような目で私を見つめていたが、突然妙なことを言い始めた。

 

「あ、そうか! 元気が足りないんだな! じゃあここで秘密の呪文を一発、いっちゃうか!」

 

 こう言うと男は、どこから取り出したのか紙吹雪を辺りに舞い散らせ、独特のアクセントともに呪文を唱えた。

 

「チンクル〜チンクル〜、クルリンパッ! 元気になぁれ!」

 

 唱え終わると同時にポーズをとる男。そして、なぜか背後で起こるピンク色の爆発。舞い散る色とりどりの紙吹雪。

 

「ニッヒッヒッヒ……」

 

 ニンマリとこちらへ笑みを浮かべる男。

 

「今のはチンクルの秘密の呪文。真似すんなよ!」

 

 気色悪い。そう思っていると、今度は別の声がした。

 

「……おーい! おーい! チンクルさーん!」

 

 遠くの方から、誰かが駆けてくるようだ。可愛らしい、鈴を転がしたような声。どうやら少女のようだが……

 

「おーい、チンクルさーん! 今の爆発音は何なのー! って、誰か倒れてる! 助けてあげないと……!」

 

 私の精神力は、そこでまたもや尽きた。駆け寄ってくる新たな人影を確認する間もなく、私は再び意識を失ってしまった。

 

 ぼんやりとだが、次のような会話を聞いた気もする。

 

「あれ? また気を失っちゃったのだ」

「ええっ!? 大変! どこかに運んで手当をしなきゃ! チンクルさんも手伝って!」

「力仕事は妖精さんの役割なのだ! チンクルの仕事は応援だけ! ハッ、ヨッ! クルリンパッ! 力持ちになぁれ!」

「そんな呪文なんて効果ないよ! それにわたしは妖精さんじゃなくてリンクルだって、何回言ったら分かるの……」

 

 ともあれ、こうして私は九死に一生を得たのであった。


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