BotW短編集『ハイラル・ドキュメンツ』 作:ほいれんで・くー
「姫様は、私の言葉を聞いて頷かれました。そして言いました。『あなたのおっしゃるとおりです。私も、できることならば、周りの人々のウツシエをたくさん撮りたいと思っています。ですが、その……』 姫様は少し言葉を濁しました。視線があっちにいったり、こっちにいったりして、その様子を見て初めて私は姫様も一人の女の子なのだと実感しました」
「やがて、姫様は言いました。『私が人をウツシエで撮ると、
「そこに写っていたのは、まさしく
「姫様は恥ずかしそうな御顔をして言いました。『この遺物に精巧な色付きのウツシエを撮る機能があることを知った時、私はさっそく父のウツシエを撮ってみたのです。父はウツシエを見て、「お前は今後もウツシエを撮っても構わぬが、ただ、決して人間のウツシエだけは撮るなよ」と言いました。どうやら、私には人物を撮る才能がないようなのです……』」
「そして姫様は、付け加えるように言いました。『そう、私には才能がない……』 消え入るような、まるで妖精の羽音のように小さな声でしたが、私にははっきりと聞こえました」
「そうおっしゃった時の姫様の表情と身振りを、あなたにどうやったら伝えることができるのか。あの時、姫様は悲しんでおられたのです。『才能がない』とおっしゃった時、姫様がぎゅっと握りこぶしを作るのを私は確かに見ました。私はそれを見ないことにしました。ええ、言うまでもないでしょう。私たち庶民たちですら姫様が宮中でどのような悪口を言われているか、うっすらながらも知っていたのですよ。『無才の姫』という、言うのすらおぞましい誹謗と中傷に、姫様は孤独に耐えておられたのです」
「その時になって、私は初めて姫様の凛々しい表情の下から、重苦しいまでの疲労感が滲んでいるのに気づきました。人を対象としてウツシエを撮るうちに身についた、ごく微妙な表情の変化を読み取るという自分の力が、その時ばかりは恨めしく思われました。ウツシエという、ほんの些細なことでも自分の才能について考えずにはいられないほどに疲れ切った姫様、楽しい話をしている最中でもつい己の責務を思い出してしまうほどに生真面目な姫様……」
「私は思わず、声を上げていました。『姫様、そのようなことはありません』と。姫様はびっくりしたような顔をして、私を見ました。私はさらに言いました。『姫様、お見受けしたところ、たしかに姫様には人のウツシエを撮る才能はまったくないようです。ですが、姫様には誰にも負けないほどの美しい風景のウツシエを撮ることができます。しかも着色済みのものを、です! あまり御自分を卑下なさってはいけません! 弱点や短所に目を向けるのではなく、ご自分の長所をどうか活かしてください!』 不敬ながらも私がそう言ったのは、それが私の本心だったからです」
「……ええ、嫌な若者だったと思います。私は嫌な若者でした。『誰にでも短所もあれば長所もある』『短所は気にしないのが一番』『長所に目を向けてそれを活かせば良い』……こういった言葉はすべて、恵まれた環境にいて、己の長所を見つめてそれを伸ばせるだけの豊かさを享受しているからこそ言えるものなんですよ。私は恵まれていて、そして嫌な若者でした。本心から言っていたのです。ハイラル王国において最も恵まれた環境におられるはずの姫様が、実はどれだけ不幸な方であるのか、当時の私はまったく分かっていなかった……」
「それでも、私の思い過ごしでなければ、姫様は私の言葉を聞いて少し表情を明るくされました。しかし、
「姫様はおっしゃいました。『私は個人的な趣味も兼ねて、この古代遺物の研究の一貫としてウツシエを撮っています。ですが、いくら私がこの石板でウツシエを撮ったとしても、それでこのハイラル王国全体のウツシエの技術水準が上がるわけではありません。私はもっともっと、この王国全体にウツシエが根付いて欲しいと願っています。ちょっと怪しげで薄暗いイメージを纏った今のウツシエが、次第にひとつの芸術となって、最後には文化となって民たちの間に定着する。そんな未来を私は望んでいるのです』」
「姫様がそこまでウツシエのことを評価しているとは私は知りませんでしたから、お言葉を聞いて深く感動しました。姫様はさらに話を続けました。ウツシエで正確なスケッチを残すことができれば学術研究は大いに進展するだろうし、遠隔地での情報を間違いなく伝えることも可能になる、民たちの美意識も変化するだろうし、芸術家たちも新たな刺激を受けて新しい活動をはじめるかもしれない……」
「『ウツシエで、ハイラルの民はより豊かに、そしてより賢明になれるのです』 そのように姫様はおっしゃって話を終えられました。私には到底考えつくことができないほど、姫様はウツシエの未来について思いを馳せておいででした。いえ、むしろ、姫様はウツシエを通じて未来を見ておいでだったのでしょう。それは私たちのような
「ですが、私はここに来た経緯を忘れてはいませんでした。姫様のお話が一段落したのを見計らって、私は尋ねました。『それでは、姫様はどうして私をここへお呼びになったのですか? 私は姫様のお考えを聞いて、今ではウツシエがどれだけこの世界にとって大切であるかが分かったような気がしています。そうであるからこそ、いっそう分からないのです。そのような重大な任務に、私のような未熟者に何かできることがあるとは思えません』」
「姫様は答えました。『騎士リンクから話を聞いたのですが、あなたは着色されたウツシエを撮る方法を知っているとのことですね? ハイラル大森林に棲息していると言われている『森のホタル』、それを用いれば着色されたウツシエを撮ることができるのではないかと……』 私は『はい、そのとおりでございます、姫様』と答えました」
「姫様は頷いて、また言いました。『実は、あなたに『森のホタル』を探してもらいたいのです』」
「思いがけない言葉に私はしばらく何も答えられないままでした。そんな私に、姫様は納得させるようにまた言葉を続けました。『ハイラル大森林はこのハイラルの大地に住まうすべての生命の源、犯すべからざる王家の霊地……そのように言われています。不思議な力で守られていて、森に選ばれた人間でないと入口から奥へと進むことすらままならない。魔力の込められた霧が侵入者を阻むのです。しかしながら、ここに数少ない例外がいます』」
「姫様はそう言って、私の背後へと視線を投げかけました。私は振り向きました。そこにはリンクが、いつもながらの真面目腐った顔をして立っていました。姫様は言いました。『騎士リンクは、森を抜けることができます』 そして、少し苦しそうな声で、付け加えるように姫様は言いました。『彼は選ばれた人間だからです』 なおも姫様は話を続けました。『彼に従って森を行けば、きっとあなたは『森のホタル』を見つけることができるのではないか……私はそう考えます』」
「それにしても不可解なお話でした。たしかに、着色されたウツシエが一般人でも手軽に撮ることができるようになれば、ハイラルのウツシエ文化はよりいっそう発展するでしょう。そのために『森のホタル』を捕まえることは絶対に必要です。しかし、それならば私を伴わずとも、騎士リンクに命じて『森のホタル』を探しに行かせれば良いだけの話です。私はそのように抗弁しました」
「すると姫様は、にっこりと笑って言うのです。『私は、あなたのようなウツシエ師に『森のホタル』を見つけてもらいたいのです』 そう言ってから、姫様はやや視線を上に上げて、認めたくないことを認めるかのような口調で、また言葉を続けました。『あなたのおっしゃるとおり、騎士リンクならば簡単に『森のホタル』を見つけることができるでしょう。彼にはそういう能力があります』」
「そこまで言ってから姫様はまた視線を戻して、言いました。『でも、騎士リンクは心の底から『森のホタル』を望んでいるわけではない。私に命じられたから『森のホタル』を探し、そして見つけるだけです。それは、ハイラルのウツシエの歴史においては、幸せな出来事というより、むしろ不幸な事件として記憶されるのではないでしょうか?』」
「姫様は、お話を締めくくるようにおっしゃいました。『あなたは心の底から『森のホタル』を望んでいる。私にはそのことがよく分かります。だからこそ、私はあなたに新しいウツシエの歴史を切り開いてもらいたいのです。騎士リンクの導きがあっても、あなたが『森のホタル』を見つけるのには時間がかかるかもしれません。森があなたという人間を見定めるのに、私たち人間には想像もできないほど長い時間をかけるという可能性はあります。ですが、純粋な願いを持っている者すら排除するほど、ハイラル大森林は狭いわけではありません』」
「姫様は、じっと私を見つめて言いました。『あなたならばきっと、『森のホタル』を見つけられます』」
「そこまで言われては私としてもこれ以上断るわけにはいきませんでした。私は姫様に、この身に代えてでも、きっと森のホタルを見つけてみせますと答えました。すると姫様は狼狽したような顔をして、戸惑ったような口調で言うのです。『いえ、この身に代えられては困ります! いつでも命だけは大切にしてください』と……」
「最後に、ひとつだけ私は姫様に訊きました。どうして私のウツシエをそこまで高く評価してくださるのですか、と。すると姫様は意外そうな顔をしました。姫様は書き物机のそばまで行き、その上に置いてあった小箱を開くと、中から一枚の紙を取り出されました。それを私に見せて言うのです。『これほどまでに素晴らしいウツシエが撮れる方が、どうして優秀ではないと言えるのでしょう?』 それにはリンクが写っていました。訓練を終えた後、椅子に座って休んでいるリンクです。ちょっと俯いていて、でも視線だけはちらっとこちらに向いている。それは私が近衛騎士たちのところへ牛乳を運び始めてから、一週間後に撮ったウツシエでした」
「姫様はおっしゃいます。『ウツシエに撮られるとなると、人は必ず緊張するものです。でも、このウツシエのリンクはどこまでも自然体で、力んだところがまったくない。どこも無理をしていないし、心も体もリラックスしているのが伝わってきます。私はこういうリンクを初めて見ました。ウツシエには人のまだ知られていない姿、ありのままの姿を写し取る力がある。そのことを私は知りました。だから、私はあなたを評価するのです』」
「急に、私はリンクが羨ましくなりました。姫様は随分とリンクのことを見ているようです。お付きの騎士だからそれも当然だったのでしょうが、それにしても私は彼が羨ましかった。それほどまでに姫様に見てもらえるとは! 私は、冗談半分に姫様へ『リンクは幸せな男ですね』と言いました。私の言葉に、姫様は疑問の色を顔に浮かべました。『そうでしょうか? そうかもしれませんね』と姫様は言いました。あれほどまでに聡明な方が、私の言葉の言外の意味を読み取れないのは、今思い返しても面白いですね」
「やがて、私とリンクは姫様の部屋から出ました。リンクは『すまないが、今は少し忙しい。時期が来たらこちらから声をかける。いつでも出られるように準備をしておいてくれ』と簡潔に言いました。私は承諾し、感謝の意を伝え、その日は満足しきって家に帰りました。今日の出来事を話すと、両親は大変喜びました。しかし、最後に母が言いました。『それで、アンタはちゃんと姫様にうちの牛乳を売り込んだんでしょうね?』 ええ、怒られましたよ。父は笑っていましたがね。それはまたの機会に、ということになりました」
「……これが面白おかしい物語ならば、この後、私はリンクに連れられて森へ行き、大冒険の果てに森のホタルを見つけて、紆余曲折あってそれを捕獲し、それからまた父と一緒に苦労をして新型のウツシエの箱を開発して、着色済みのウツシエを撮って、姫様にそれを献上して、私は王国一のウツシエ師として名を馳せて……というところになるのでしょうか。物語にしてはあまりにも芸がありませんが、芸がないからこそ物語として語り得るということなのでしょう。しかし、残念ながらそういうことにはならなかったのです」
「ええ、そういうことにはならなかったのですよ」
「あの日のことは今でも忘れていません……忘れられるものですか! ハイラル王国が一撃で滅んでしまったのですから。大厄災が起こったあの日、私はその日に限って王城へ行かなかったのです。その少し前に、私はハイラル平原の中央部にあるメーベの町に出張していました。町の近くにある牧場との取り引きのため、それからメーベの町の町長夫妻のウツシエを撮るためでした。その帰り道に季節外れの激しい雨が降りましてね、風邪を引いてしまったんです。幸い、肺炎になるようなことはありませんでしたが、しばらく寝台から離れられませんでした」
「その日の午前中は、暖かい牛乳のスープを飲んで横になっていました。午後に入り、ようやく体が動くようになって、あまり寝てばかりいても健康に良くないだろうと思ったので、離れにある暗室へと向かったのです。現像しなければならない原板がたくさん溜まっていたので。まず家から出て、裏手にある牛小屋に寄って牛たちの様子を見ました。いつもよりも牛たちに落ち着きがないのが気になりましたが、また嵐でも近づいているのだろうと気にしませんでした。牛小屋の隣りにある暗室へ足を踏み入れ、一枚の原板を現像し終えた、その時でした」
「それは猛烈な地震でした。天地がひっくり返るかと思えるほどの強烈な揺れでした。四方八方から突風が吹くような得体のしれない轟音が聞こえてきます。悲鳴も聞こえてきましたが、次第に聞こえなくなりました。下から突き上げられ、揺さぶられ、簡単な木造だった暗室の小屋は耐えきれずに、ほどなくして崩れ落ちました。私はすぐに小屋から飛び出したので、なんとか下敷きにならずに済みました。私はじっと地面に伏せて、揺れが収まるのを待っていたのですが、なかなか終わりません」
「揺れがおさまってくると、私は顔を上げました。ああ、その時の怖ろしい光景と言ったら! それまで真っ青だった空は怪しく赤紫色に変わり、緑と黄色の電流が渦を巻くようにして走っています。雷鳴が響いていました。大気は魔力でも含んでいたのか、空を飛ぶ鳥たちが力を失い、地面へ向けて紙切れのように落ちてきました。私は周囲に目をやりました。建物が倒壊し、瓦礫が散らばっていて、路面が割れて水道管が破裂していました。助けを求める声、苦痛の呻き声、悲鳴、子どもの泣き声、いろんな声が満ちていました」
「私は思わず、城の方へと目をやりました。すると、見たこともないほどに巨大な塔が、四つの塔が、いつの間にか城の周りに立っているではありませんか! 塔は大気と同じ色に輝いていました。心臓の鼓動のように、呼吸をするように、塔の表面に刻まれた巨大な円形の紋様が明滅しています。私は息を呑んで、その塔を見ていました。よく見ると、塔には同じような円形の紋様が無数にありました。その紋様から、なにか小さな丸いものが次々と吐き出されているのです。この距離から見ると小さいだけで、実際はもっと大きいのでしょう。明らかに不吉な光景でした」
「私たちの家と店は無事でした。母と父の行動は素早かったです。城下町に家族のいる従業員はさっさと家に帰らせて、独り身の従業員たちと一緒に速やかに避難することにしました。母に命じられて、私は牛小屋の鍵を破壊し、扉を開け放って、牛たちが逃げられるようにしてやりました。でも、牛たちも心細いのか、いつまでも鳴いて私を引き留めようとするのです。私は彼女たちを置いていかざるを得ませんでした」
「私たちが最低限の身の回りの品を牛乳運搬車に載せた頃には、城下町の各所で大きな火災が発生していました。のみならず、それよりもはるかに怖ろしいことが起こり始めていたのです。そう、ガーディアンたちが、私たちを守り、王国を守り、復活すると言われている厄災を封じ込めるはずのあのガーディアンたちが、町を襲い始めていたのです」
「信じられない光景でした。ガーディアンたちは生き物のようにその白い多脚を蠢かせ、黒い頭部を振り回し、逃げ惑う人々を追いかけ追い詰め、ビームを放って一瞬のうちに灰にしていきました。瓦礫の下敷きになっている家族を助けようとしている人々、消火活動に当たっている兵士たち、怪我人を手当てしている医者、私たちのように町の外へ避難しようとしている人たち、そのすべてが無差別に攻撃されました」
「私たちは馬車に乗ると、全力で町の外へ向けて走らせました。しかし、地面はどこもかしこも亀裂が走っていて、とてもではありませんが馬車が走ることなどできません。父が『馬車から下りて走るんだ!』と叫びました。私は母の手を引きました。私たちは一番近い城門へ向かって走りましたが、その間にもガーディアンたちは続々と数を増していて、飽きることなく殺戮を繰り返していました。真っ白な光線が飛び交い、爆発音がし、人体が四散して瞬時にして燃え尽きる……」
「途中で母が転んで、足を
「そのガーディアンは、私と母を次の目標として定めました。何か赤い点が私の額に合わさっていて、仄かな暖かみを伝えてきました。狩人が獲物に弓矢を向けて、弦を引き絞っている。まるでそのような感じでした。私は死を予感しました。私は母を遠くに投げ出すと、両手を広げてガーディアンに向かって叫びました。『俺を撃て!』と。母を救いたい気持ちでいっぱいだったのです」
「ガーディアンの魔物のような単眼に、白い光が収束していきました。それが終わった瞬間、私の命は終わる。私の思考は完全に停止していました。何も考えられませんでした。ですが、その次の瞬間でした。何かが飛んできてガーディアンの単眼に突き刺さり、のけ反らせたのです。何が起こったのか理解できないままそこに立ち尽くしている私に、誰かが大きな声をかけてきました。『おい、牛乳屋さん! はやく逃げるんだ!』」
「それは私のよく知っている人でした。近衛騎士団の騎士長が、大勢の部下を連れてそこに立っていたのです。騎士長は言いました。『ハイラル平原で演習をしていたらこんなことが起こってしまって、本当に不覚だった。王国の一大事の時に近衛騎士団が国王陛下と王女殿下の傍にいないとは!』」
「騎士長はさらに言いました。『ここで俺たちが時間を稼ぐ。牛乳屋さんはさっさと逃げるんだ!』 私は『騎士長!』と叫びました。私たちが短い会話をしている最中にも、周りで近衛騎士たちは民を助けるために戦っていました。いえ、それは戦いにすらなっていませんでした。ガーディアンたちはあまりにも強く、そして数が多すぎたんです。死んでいった近衛騎士たちは、みんな私のよく知っている人たちでした。騎士長は怒ったように言いました。『さっさと行け! 行くんだ!』 私は母を背負うと、そのまま走り出しました。私の背後から騎士長の声が響きました。『またウツシエを撮ってくれよ! 牛乳屋さん!』」
「……その後のことですか? ええ、私と母はなんとか城下町の外へと出ることができました。父とは合流できませんでした。今でも行方不明のままです。きっと、城下町で死んだのだろうと思います。従業員たちも、あの大厄災の時にほとんどが死んでしまいました。今、こうしてお話をしている段階で生きているのは私だけです。私だけが生き残ってしまった……」
「母を背負って城下町から脱出した私は、とりあえず唄ドリの平原を抜けて、その南部にあるハイラル軍駐屯地へと向かうことにしました。そこならば避難民の受け入れをしているだろうと思ったからです。ですが、ガーディアンはすでにハイラル平原の全域に出現するようになっていました。街道は危険でした。ガーディアンは避難民の馬車の車列を優先的に攻撃していましたから」
「私は道なき道を行かざるを得ませんでしたが、何も装備を持っていない私たちにとって逃避行はあまりにも危険で、無謀でした。食糧もなく、防寒具もなく、寝具すらもない状態だったのです。夜になると気温が下がり、凍えるように寒くなりました。私は母と抱き合ってなんとか寒さを凌ごうとしましたが、日が経つにつれて母はみるみるうちに衰弱していきました」
「私は乏しい食糧を母に与えて、なんとか駐屯地にまで辿り着くまで頑張ってくれと声をかけ続けました。ですが、母は言うのです。『店は無くなってしまって、父さんも死んでしまった。店のみんなもきっと全員死んでしまった。でも、今はアンタだけが残っている。アンタだけが私の最後の希望なんだよ。私はもう、ここでいい。ここでいいよ』と……母は明らかに生きる気力を失っていました。城下町を出てから五日後の明け方、私は抱き合っている母が冷たくなっているのに気づきました。母は満足そうな顔をしていました……」
「その後、私は駐屯地に辿り着きました。ここはまだ平和な状況でした。駐屯地では避難者のために炊き出しが行われていて、宿泊用のテントまで設けられていました。駐屯地の軍は義勇兵を募っていました。ガーディアンと魔物の群れに反撃し、王国を奪還するために戦うのだと。もちろん、私も志願をしました。逃げることもできたのですが、私は私なりに敵に対して怒りを抱いていたのです。家族は死に、店はなくなり、近衛騎士団は全滅して、きっと国王陛下も、そしてあの優しくて聡明な姫様も、それにリンクも、みんな死んでしまったに違いない。どうせこのまま死ぬのならば、何か仕返しをしてから死んでやろう。そう思ったんです」
「ウツシエが撮れるということを申告すると、指揮官は私に軍用のウツシエの箱を渡して、『これで偵察に行ってきてくれないか』と言いました。危険な任務でしたが、私は喜んでそれを引き受けました。ガーディアンの群れが北のグスタフ山の麓に集結していて、この駐屯地の襲撃を計画しているようだという避難民からの報告が入っていたので、それを実際にウツシエに撮って確認して来いということでした」
「その場所までは、何の問題もなく行くことができました。話の通り、ガーディアンたちはその場に何体も、何十体も集まっていました。私はより正確な情報が持ち帰れるように、もっと近づいてウツシエを撮ろうと思いました。こういう状況下でも、手の抜いた仕事をしたくなかったのです。あともう少しで絶好の位置に着けるというところで、私はガーディアンたちに気づかれてしまいました。空を飛ぶ『飛行型ガーディアン』に見つかってしまったのです」
「散水機から水が吐き出されるように、ビームが私に向かって降り注ぎました。私は走って逃げましたが、何とかして、一枚だけでもウツシエを撮ろうとしたのです。頃合いを見て振り返って、ウツシエを撮ろうとした、その瞬間でした。横合いからビームが飛んできて、ウツシエの箱を持っている私の両手を一瞬のうちに手首の先から焼き切ってしまいました。痛みはありませんでしたが、とにかく傷口が熱かった。居ても立っても居られないほどの熱さでした。血は出ませんでした。高熱のビームが血管の出口を焼き潰していたからでしょう」
「私は走って、とにかく走って、これ以上走れなくなるまで走りました。どこに行くとか、どこへ逃げるとか、そういうことをまったく考えず、とにかく生き残るために走り続けました。ガーディアンたちはどこまでも追ってきました。私は川に入り、対岸へと泳ぎ渡り、また走り続けました」
「いつの間にか夜になっていて、私は深い森の中に入っていました」
「ガーディアンはどこにもいませんでした。私はあの殺戮兵器を振り切ることができたのです。急に疲労感が湧き、そして両手に激痛を覚えました。私は痛みをごまかすためにまた歩いて、森の中にある水辺へと辿り着きました。水辺というより、そこは湖のようでした。水面にミルクのような濃い霧が漂っていました。手がなくなっているので、私は動物のように跪いて、泥と砂の混ざった水を飲みました。ああ、あの水の美味かったことといったら! 悔しい話ですが、それは私がそれまでに売ってきたどの牛乳よりも美味しかったのです」
「水を飲んだら、すべてがどうでも良くなってしまいました。明らかに、私は生きる気力を失っていました。私は地面に横になりました。死ぬという気はありませんでしたが、死が迫っているのだろうとは思いました。私はただ、ぼんやりとしていました。なにもできず、なにも考えられませんでした」
「やがて、夜が深まっていきました。私の意識は次第に、夢と思い出と、妄想と現実が入り混じったものになっていきました。すぐそばの木陰で、父がウツシエの箱を整備していました。母が作業着を着て、牛たちの乳を絞っています。従業員たちは汗を流してバターの攪拌をしていて、馬車に牛乳缶を積んだり、チーズの包みを積み上げたりしています。着飾った人たちが、森にやってきて、森の向こうへと消えていきます。みんな、かつて私がウツシエにとった人たちです。近衛騎士たちが牛乳を飲んでいます。騎士長が私に言いました。『またウツシエを撮ってくれよ、牛乳屋さん!』」
「リンクがいました。難しい顔をしてそこに立っています。リンクは姫様を守っていました。姫様が、疲れた寂しそうな顔に微笑みを浮かべて、私に向かって言いました。『あなたならばきっと、『森のホタル』を見つけられます』」
「突然、幻影がすべて消えました。しっとりとした夜の闇が満ちているあたりには、緑色の燐光が舞い踊っていました。それはシズカホタルたちでした。シズカホタルたちは私の周りを飛び交い、水面に静かに舞い降りて水を飲んでいました。美しい光景でした。この世のものとは思えないほどに幻想的な光景で、きっと姫様ならばこの光景を上手くウツシエに撮れるだろうと思いました」
「私はその時、初めて涙が出ました。『このまま死んでしまいたい』 そう思いました。本心からそう思ったのです」
「すると、ただ一匹だけ、不思議な
「森のホタルだ。私はそう言おうとしましたが、声は出ませんでした」
「息を止めて、私はそのホタルをずっと見ていました。ホタルもまた、私を見つめていたと思います。見つめ合って、どれだけ時間が経ったのでしょうか。やがて、森のホタルは飛び立ちました。まるで魔法のように、色とりどりの光の玉を降り散らしながら、森のホタルは星々の煌めく夜空の彼方へと飛んでいきました」
「私はいつの間にか意識を失っていました。目が覚めた時には、私はまだその場に横になったままでした。死にたいという気持ちは消えていました。なんとか起ち上がってそこを歩き出すと、すぐに森の出口へと出ました。出口には警告の看板がありました。『王家の許可なき者、森への立ち入りを禁ずる』」
「ええ、私はハイラル大森林にいたのですよ」
「不思議そうな顔をしておられますね。あるいは疑っているのでしょうか。無理もないことです。私にしても信じられないことなのですから。グスタフ山からハイラル大森林まで大変な距離があります。足の速い馬に乗っても丸二昼夜はかかる距離です。ハイラル城の外堀を泳ぎ渡り、エルム丘陵かラウル丘陵を抜け、またハイラル大森林をぐるりと取り巻いている湖を越えなければならない」
「両手を失うという重傷を負い、ただ逃げ惑うだけだった男が、それだけの難所を突破してハイラル大森林に辿り着くことができたのか? それに、なぜ許可のない男が森に排除されることなくその場へと行くことができたのか? すべては謎のままです。端的に言えば、あり得ない話なのです」
「あるいは、私の記憶がおかしくなっているのかもしれません。森のホタルを見たというのは瀕死の状態だった私の見た幻覚で、目覚めた後にハイラル大森林にいたというのも私の記憶違いで、本当はまったく別の場所で、別のことが起こっていたのかもしれません。私はまったく別の場所で、単に断末魔の妄想に苦しめられていただけなのかもしれません。しかし、今となってはどうでも良いことです。時の女神は、時を切り刻むウツシエ師に復讐をしたのでしょう。私の記憶は長い時の力によって、どこまでも不確かなものとなってしまったのです」
「それでも、きっと私はどれだけ時が経っても、あの時に見た森のホタルを決して忘れないでしょう。私は姫様がお命じになられたことを果たすことができました。『あなたならばきっと、『森のホタル』を見つけられます』 残念ながら捕まえることはできませんでしたが……私は満足しています。心からの満足というわけではありませんが、今日まで生き続けられるだけの満足ならば得ました」
「私はその後、アッカレ地方へとやってきました。両手を失っていたので、牛の乳を絞ったり、ヤギやヒツジの世話をしたりということは難しかったのですが、シーカー族の偉い学者の人がちょうどアッカレ地方へと引っ越してきたところで、その人に簡単な義手を作ってもらいました。すっかり元のとおりというわけではありませんでしたが、それでまた仕事ができるようになったので、今ではこの馬宿に雇ってもらって動物たちの世話をして過ごしているわけです」
「その後、ウツシエは撮らなかったのか、ですって? いいえ、ウツシエを撮ることはしませんでした。ウツシエは、私にとってあまりにも辛い思い出と結びついていましたから……」
「でも、今日ここであなたにお話をしたことで、なんだか心の中で決着がついたような気がします。決着というよりは、整理がついたというか……こんな僻地のヒガッカレにまで機能を保ったままのウツシエの箱がやってくるか分かりませんが、またウツシエを撮りたいと今は思っています。森のホタルをもう一度見つけることはできないでしょうが、それでも構いません。白黒のウツシエでも大したものなのですよ」
「ほら、これをご覧ください。私が今でも持っている、最後の二枚のウツシエです。こちらは私の両親のもの。そしてこれが……ゼルダ姫のものです」
「あの日、部屋を去る前に、私は姫様に頼んで一枚のウツシエを撮っていました。大厄災が起こるその直前に暗室で現像できたのが、この姫様のウツシエだったのです。私の最高傑作だと思っています。できることならば、この手で直接、あの優しい姫様にお渡ししたかったのですが……」
「どこまでも美しくて、それでいて疲れていて、どこか寂しそうなお顔をしているでしょう? このウツシエで、私は姫様を笑顔にしてあげたかった。もし私に心残りがあるとすれば、それだけですね」
「さて、私のお話は以上になります。なにかご質問はありますか?」
(おわり)
これにて『ウツシエ師ロコーのお話』はおしまいです。最後までお付き合いいただきありがとうございました。去年の5月から書き始めていた物語だったのですが、完成させるのに妙に時間がかかってしまいました。なお、最後まで「写し絵」と表記するか「ウツシエ」と表記するかで迷ったことをここに付記しておきます。
次回もお楽しみに!(リンクとゼルダ書くの楽しかった!)