鬱蒼としたトブの大森林の僻地に、黒く爛れた断崖に閉ざされる絶死の砂漠が広がっていた。
生命の痕跡さえ見られない褪せた大地を眼下に、ユンゲは身体を強張らせるマリーを横抱きにしながら軽やかに飛んでいく。
そうして、こちらの存在に気付いたらしい対岸の人影――初老の男の背後に控えていた冒険者が警戒のためか、武器を手に取るのが分かった。
距離が近付いたことで確認できた首元のプレートは、おそらくミスリル製だろう。
この場で騒動を起こしたい訳ではない。
敵意がないことを示して肩を竦めたユンゲは、冒険者の一団から少しの距離を置いて降り立った。
ようやっと地面に下ろされ、膝をがくがくとさせているマリーの非難めいた視線には気付かない振りをしつつ、ユンゲは冒険者たちに向き直る。
「……何者だ?」
くすんだ金髪をオールバックに撫で固めた大柄な男が、初老の男を庇うように進み出るや、剣の柄に手をかけながら誰何の声を上げた。
――初老の男の方がよほど手練れにも見えるのだが、冒険者を示すプレートを身に着けていない様子なので立場が違うのだろう。
やや不躾な態度に内心で思うところはあるが、ここは上位の冒険者を立てるべきだろうと、現実世界での社会人経験がユンゲの理性に囁いた。
「……失礼しました。エ・ランテル冒険者組合に所属する、ユンゲ・ブレッターと申します。こちらは今度から組むことになった――」
「マリーです。よろしくお願いします」
ユンゲに続いて促されたマリーが名乗り、頭を下げれば最初に反応を見せたのは初老の男だった。
「――なるほど、君が……ふむ、直接話すのは初めてになるかね。エ・ランテル冒険者組合を預かるプルトン・アインザックだ」
「……組合長、この森妖精〈エルフ〉の青年をご存知だったのですか?」
「あぁ、先日の共同墓地で起きた事件のときに、活躍してくれてね。君たち“虹”の有望な後輩だ。先達として、私からも彼らをよろしく頼むよ。――ユンゲ君と呼んでも構わないかね?」
思いがけない大物の登場に、ユンゲは驚きが顔に出ないように努める。
脳裡に思い描くのは、いつかの“漆黒の戦士”であり、落ち着いた振る舞いを心掛けながら「構いませんよ」と軽く手を払うように応えてみせた。
「なるほど、あの不死者〈アンデッド〉が大量発生した……分かりました。先ほどは済まなかったね、私は冒険者チーム“虹”のリーダーを務めているモックナックだ。よろしくな」
好々爺然としたアインザックと人の良さそうな笑みを浮かべるモックナックに、「こちらこそ、よろしくお願いしますね」と軽い一礼を返し、ユンゲは口許を綻ばせた。
二人の視線がエルフの耳を捉えているような気がしたが、そこに不快な感情は見られない。
「――もっとも、エルフだという報告は受けていなかったがね」
「ハーフエルフなので、半分だけですけどね。聞かれなかっただけなので、別に隠していたつもりはないですよ、……問題はありませんよね?」
「勿論だとも、冒険者組合は力ある若者を歓迎するよ。先ほどの〈フライ/飛行〉を見れば、報告を受けた通り第三位階魔法を行使できるようだから、すぐにでも昇格を検討しないといけないようだね」
好意を示すように両手を広げてみせながら、にやりと笑うアインザックに、「良い検討結果を期待させてもらいます」とユンゲは言葉を続ける。
「ところで……彼女だけでなく、あと二名の冒険者登録をしてもらい、新しくチームを組みたいと考えているのですが、その場合の冒険者ランクはどうなるでしょうか?」
「最初の登録段階では、誰にでも銅のプレートを付与することになるね。今後チームとして活動していくのであれば、昇格試験をチーム単位で受けてもらうのが良いだろう――」
アインザックは一旦言葉を区切り、マリーに視線を向けて問いかける。
「……信仰系の魔法詠唱者かな。もしや、君も第三位階魔法を使えたりするのかね?」
「森祭司〈ドルイド〉の職を修めていますが、私が使えるのは第二位階までです」
「なるほど……ふむ、そう気負わなくとも良いよ。第二位階まで使えるのならば、君も彼と同じシルバー級にはすぐにでも昇格できるだろう」
勢い込んで答えたマリーを落ち着かせるように、アインザックは柔らかい口調で言葉を紡いでほほ笑んでみせ、ユンゲに問いを重ねた。
「あとの二名というのも、近くにいるのかい?」
「帝都からの帰路でしたので、街道の馬車で待ってもらっています」
「……そうか。君たちがこの場所を訪れたのは何故か、その理由を聞いても構わないかね?」
「特に理由があった訳ではないのですが、妙な胸騒ぎを覚えて様子を見に来たところ、このような有様でしたので……」
ようやく本題に入れたことを安堵しつつ、口にしながら背後の光景を振り返えれば、どうしてもユンゲは苦笑を浮かべてしまう。
「いったい何が起きたのかと思っていたとき、対岸に皆さんの姿をお見かけしたので、何かお話でもお聞きできないかと思いまして――」
ユンゲの言葉に、アインザックはモックナックと無言で目配せを交わすと、一つ小さく頷いてから説明をしてくれた。
アインザック曰く、この惨状は“漆黒の戦士”モモンがとあるモンスターを討伐した戦場跡らしい。
エ・ランテル近郊に隠れ処を持っていた盗賊団が出没しており、その調査に向かったはずの冒険者の一団が道中で未知の怪物に遭遇し、半壊してしまうほどの事態となった。
生き残った数少ない目撃情報から、そのモンスターは第三位階魔法すら使いこなす強大な力を持った吸血鬼〈ヴァンパイア〉だと考えられた。
そして、上位冒険者や街の有識者を交えながら緊急の吸血鬼対策を協議していたところ、討伐に名乗りを上げたのが先のモモンであり、件の吸血鬼はモモンが故郷から追っていた二匹の吸血鬼の片割れ“ホニョペニョコ”であったとのことだ。
第八位階の魔法が込められた“魔封じの水晶”を切り札として討伐に乗り出したモモンは、激戦の末に件の吸血鬼討伐を果たす。
しかし、ようやくと帰還を果たしたモモンの全身鎧は大きく破損しており、焼け焦げて切り裂かれた傷痕が戦いの凄まじさを物語っていたのだという。
「――同行したミスリル級の冒険者チームは全滅してしまい、遺体の回収すらできていない。大きな痛手ではあるが、この状況を目の前にすれば、それもやむを得ないといったところだろう。……モモン君の話を疑った訳ではないのだが、やはり自分の目で確かめるべきだと判断して、私もモックナック君たちに同行を依頼して、この地に来たのだよ」
やれやれとばかりに肩を竦め、アインザックは説明をそう締め括った。
「第八位階……そんな神話みたいな魔法が実在するなんて」
声を震わせて狼狽するマリーの背を支えながら、ユンゲは凄まじい力の奔流に曝されたであろう黒々とした大地を振り返り思考に耽る。
(……第八位階程度の魔法で、これほどのことが可能なのだろうか?)
特定の魔法職に特化すれば、五十レベル程度でも使用可能になる魔法のはずだった。
いや、ユグドラシルの基準を当てはめようとするのが間違っているのか――そもそも、この転移した異世界においても、ユグドラシルの魔法が使えることを疑問に思うべきなのだろうか。
判断のつかないことではあったが、アインザックやマリーの様子を見れば、この世界における第八位階魔法が如何に凄まじいものなのかは、勘の悪いユンゲであっても想像に難くない。
第三位階魔法が使えるだけでも上位冒険者として位置付けられる世界なのだから、それは無理もない基準といったところだろうか。
(……けど、これは不味いよな)
位階魔法の威力についても検証する必要があるものの、憂慮すべきは自らの振る舞いだろう。
アインザックの説明を受けつつ、あらためて戦場跡を眺めるユンゲの胸中に宿るのは“恐怖”だった。
これまでに戦ってきた人喰い鬼〈オーガ〉などのモンスターは十レベルにも満たないほどであり、闘技場で無敗を誇っていた“天才剣士”エルヤー・ウズルスを相手にしても、全力を出すまでもなくあっさりと勝利することができていたのだ。
しかし、吸血鬼“ホニョペニョコ”と対峙した光景を想像すれば、身震いを覚えずにはいられない。
凄まじい破壊の爪痕を目撃にしたユンゲは、この転移後の世界における“ユグドラシルの恩恵”を過信していたのだと思い知らされる。
帝都からの帰路を気楽に考えていたために、殆ど警戒をしていなかったのは間違いだったと考え直さなければいけないだろう。
そして、アインザックからの情報には見逃せない重要な点がもう一つある。
「アインザック組合長、モモン殿が追っている吸血鬼は“二匹”ということでしたよね?」
「……そのようだ。現在のところ、もう一匹の姿は確認されていないがね」
眉間にしわを寄せながら、何とも言えない表情を浮かべたアインザックが小さく顎を引いた。
ありがとうございます、と口にしたユンゲもまた似たような表情を浮かべているのかも知れない。
自身の力では抗うことができそうにない超常の光景を俯瞰すれば、思わずと立ち竦んでしまう。
――それでも、慄くばかりで行動を起こさなければ、状況を変えることもできないだろう。
傍らのマリーの横顔を見遣り、華奢な肩を抱く手に力を込めたユンゲは、気持ちを落ち着かせながらアインザックへと向き直る。
「――すみません。待たせている仲間のことが心配なので、私たちは馬車に戻ろうと思います。貴重なお話をいただき、ありがとうございました」
「あぁ、それが良いだろうね。また、エ・ランテルの冒険者組合で会うとしよう」
「私たち“虹”とも、共同で依頼を請け負うことがあるだろう。そのときはよろしく頼むよ」
穏やかなアインザックの語り口に続いて、背後に控えていたモックナックが言葉を引き取り、こちらに軽く手を差し出してくれる。
「えぇ、よろしくお願いします」
無骨な戦士の握手に好感を覚えたユンゲは口許を綻ばせ、同様に握手を交わし終えたマリーとともに頭を下げて、「失礼します」と暇を告げた。
そうして、静かに踵を返したユンゲの眼下に広がるのは、未曾有の大災害に見舞われたかのような怖しい光景――思わずと身震いしつつも、無様な姿を晒すことは避けなければいけない。
「……さてと、また〈飛行〉で崖を越えて対岸まで戻るつもりだけど、大丈夫そうか?」
敢えて揶揄うような口調でマリーに笑いかけたのなら、不意の憮然とした表情に迎えられた。
――そこには短杖に縋る儚げな少女も、必死で背伸びをしようと踠く気丈な姿もなかった。
「……とりあえず、次に何かするときは事前に教えてください。心の準備くらいはしたいですから」
「えっと……あぁ、了解です」
無意識の内に尻窄みとなってしまう自らの声音を訝しみながら、ユンゲは〈飛行〉の魔法を唱えた。
モックナックは人格者のイメージで描いています。