頭上に広がる鮮やかな緑の天蓋が風に揺れ、降り注いだ木漏れ日にユンゲは目を細める。
眩しいばかりの太陽を透かすように仰ぎ見れば、青々とした葉に浮かぶ葉脈までもが輝いていた。
麗らかな辺り一帯を包み込んでいるのは、豊かな森の香りとでも言うのだろうか。
立派な樹々が瑞々しい枝葉を広げる木陰には、苔生した大小様々な石が転がり、下生えの草や低木も相俟って濃密な緑の気配が満ち溢れている。
大気汚染が進んでしまった結果、すっかりと廃れてしまったらしいのだが、かつては転移前の世界においても“森林浴”というリラクゼーションがあったというのが頷ける話だった。
冒険者組合で依頼を受け、少し奥まったトブの大森林の中へと分け入ってから二時間余り――、気持ちが軽くなるような何とも言えない心地良さに身を委ねてしまえば、こうしていつまでも過ごしていたい気分になってくる。
「……ったく、この身体も融通が利かないよな」
ユンゲの小さなぼやきすらも、太古の森は優しく包み込んでくれるようだった。
*
全員の銀級〈シルバー〉への昇格を祝した翌日、ユンゲたちは早速と冒険者組合を訪れていた。
日銭を稼ぐだけであれば、これまでのようにモンスターを退治するだけでも問題はなかったのだが、折角とチームを組んだのだから依頼を受けてみたいと考えたユンゲは、冒険者を募る依頼の張り出されたクエストボードへと歩みを進める。
目の前にまで寄ってから、文字が読めないことを思い出して頭を悩ませていたのだが――、
「この依頼なんていかがでしょうか?」
傍らで同じように小首を傾げていたマリーが、クエストボードの中ほどを指して声を上げた。
「ん、何の依頼だ?」
「薬草の採取ですね。取ってくる薬草の種類によって報酬額が変わるみたいですけど、かなり実入りは良さそうですよ!」
「……薬草か。俺は種類とかを全く知らないんだけど、大丈夫か?」
「森の中は森妖精〈エルフ〉にお任せです! これでも森祭司〈ドルイド〉ですから、薬草のことなら私に聞いていただければ……見分け方も簡単なので、すぐに覚えられると思いますよ」
「なら、そうするか。二人も構わないか?」
背後で控えていたキーファとリンダの了承を確認をしてから、どこか得意気に胸を張っている気配のマリーに向き直った。
起き抜けのときは二日酔いのために、死にそうな顔をしていたのが嘘のようだ。
「じゃあ、受注してきてくれるか?」
「はい!」と小気味良い返事を返したマリーの後ろ姿を見送りながら、魔法とはかくも偉大なものか、とユンゲは思わず苦笑いを浮かべてしまう。
今朝、手桶を抱えたままで微動にできなかったマリーの様子を見遣り、流石に仕事に支障をきたすからとリンダが解毒魔法をかけてやれば、青白い顔に瞬く間に赤みが戻ったことを思い出す。
(元の世界にこそ、必要な気がするな。いや、魔法が存在するはずもないんだけど……)
決して良い社会ではなかった現実の世界――、辛い生活から逃げるように強過ぎる酒精へと溺れる者も少なくなかった。
しかし、一般市民の手に入れることができる酒類などは、ただ酔うためだけに造られた粗悪な合成酒ばかりなので、深酒をしてしまったのなら二日酔いの性質の悪さも極めつけだった。
そうした取り留めのないことをユンゲがぼんやりと考えていると受付を終えたのか、マリーが軽い足取りで戻って来るのが見えた。
「ばっちりでした! なんでも街で一番の薬師の方がいきなり辺境の村に拠点を移してしまったらしくて、薬草とかポーションの供給が追いつかないから報酬も高いそうです。だから依頼分より多く採取しても、冒険者組合から街の薬種商に買い取ってもらうことも可能みたいです」
以前の酒場での出来事を思い返せば、この世界におけるポーションは高価な様子だったので、冒険者的には死活問題――ユンゲたちのチームは自身だけでなく、森祭司のマリーと神官〈クレリック〉のリンダも回復魔法を扱えるので、そうした苦労は起きそうにもないが――になるのかも知れない。
「そうなのか……なら、たくさん集めないとな。それにしても、なんか気合入ってるな?」
「はい! 薬草の採取なら、やっとお役に立てそうですから……マリー、頑張りますね!」
何気なく発したこちらの問いかけにも、勢い込んで答えてくれるものの、あまりにも真っ直ぐな碧の眼差しに見つめられてしまえば、ユンゲは思わずと言葉に詰まることしかできなかった。
*
「……役に立たないのは、俺の方だな」
涼やかな風にそよぐ樹々の枝葉を見上げながら、ユンゲは情けない思いを吐き捨てる。
薬草を採取するためにトブの大森林へと足を踏み入れたのだが、これまでの時点において、ユンゲは何の役にも立っていないのだ。
散策を始めて間もなく、目当ての薬草を見つけたマリーに説明を受けながら採取を試みたところ、軽く摘まんだだけのつもりで、ユンゲは薬草を捻り潰してしまう。
その後も説明を受けながら挑戦をしてみたユンゲではあったが、思うように身体は動いてくれず、薬草採取の成功とはならなかった。
そうして、何度目かの失敗を経たユンゲが、エルフの少女たちから向けられる視線に一抹の憐憫を感じ始めた頃、「何事にも得手不得手はありますからね」というリンダの言葉を受けて、事実上の戦力外通告となってしまったのだ。
建前の上では周囲の警戒を行っているユンゲではあったが、当然ながら本職の野伏〈レンジャー〉であるキーファも同行しているので、どれほどの意味があるかは疑わしい。
いつだったか商隊の護衛を勤めたときにも、野営をする段階で簡単な食事作りに失敗してしまったことを思い出す。
現実の世界においては、それなりに一人暮らしが長かったこともあり、基本的な料理の支度ぐらいはユンゲにもできたはずなのだが、この世界に転移してからは当たり前にできていたことができなくなってしまっていた。
ユグドラシルでの仕様を“ゲーム”として考えるのなら、特定の行為に見合う職業やスキルが必要なのかも知れない。――つまりは、料理をするためには料理に、採取をするためには採取に関係するスキルが必須となっている可能性だ。
そうやって、無理やりに自身を慰めようとするユンゲを現実に引き戻すように、鼻を刺すようなツーンとした刺激臭が襲った。
「エンカイシ……だったか。かなり、臭うな」
刺激臭の発生源――薬効が強いという根の部分は特に臭いがキツいらしく、何度か握りつぶしてしまったユンゲの指先には、強烈な臭いが染みついてしまっている。
何の気なしに横目で様子を窺えば、マリーたちは特に気にした様子もなく、〈ヘイスト/加速〉の魔法でもかかっているような手際の良さで薬草を集めているのが見える。
森の民とも呼ばれるエルフにとって、薬草採取はお手のものなのだろう、と淡い羨望にも似た思いを抱きながら、ユンゲは溜め息をこぼした。
「半森妖精〈ハーフエルフ〉の身体じゃ、ダメってことなのか。……そもそも、ニュクリとかアジーナだとか、ユグドラシルでは聞いたこともない薬草の名前だったから、最初から不安だったんだよな」
木陰が多く、空気の湿った水場の近くに自生しているなど色々と説明もしてもらったのだが、ユンゲの正直な実感としては薬草と雑草の見分け方も良く分からないままだ。
今後は素直にモンスター退治をしていた方が良さそうだと思いを新たにしつつ、せめて彼女たちに危害が及ぶことのないように、警戒は怠らずにいなければとユンゲは気持ちを入れ直す。
幸いにして、モンスターの襲撃はなかった。
そして、優秀なエルフの少女たちが昼前には依頼分の採取を終えてくれたことで、夕暮れには抱えるほどの薬草を荷馬車に積み込んで、エ・ランテルへと帰還できたのだった。
*
冒険者組合の扉を押し開けて中に入ると、途端に何人かの冒険者が顔を顰めたのが分かった。
すっかりと慣れてしまった鼻にはどうということもないが、やはり相当に臭うらしい。
心の内で謝罪をしつつ受付に向かえば、「おかえりなさい!」と笑顔で迎えてくれたのは、顔馴染みの受付嬢だった。
少しも不快な様子を見せないプロ意識には感心するばかりだが、辛くないはずもないので手早く手続きを済ませたいところだ。
カウンターにどさりと背負い袋を下ろせば、目を見張るような感嘆の声音が聞こえた。
「――すごい量ですね! ふふっ、鑑定人が苦労しそうです」
「ええ、彼女たちが頑張ってくれました」
マリーの背を押して前に促しつつ、ふと彼女たちとこの受付嬢の顔合わせは初めてだったことを思い出して、キーファとリンダにも目配せを送る。
「……あぁ、まだ紹介していなかったですね。今度から、彼女たちとチームを組むことになりました。マリー、キーファ、リンダの三名です。これからもよろしくお願いしますね」
ユンゲの紹介に合わせて三人がそれぞれに会釈をし、受付嬢は居住まいを正してお辞儀を返した。
「存じております。皆さん、既にシルバー級にご昇格されたと伺っております。遅くなりましたが、ご昇格おめでとうございます。そして、当冒険者組合を今後ともよろしくお願いいたしますね」
転移前の世界でも重宝されそうな、受付嬢のお手本とも言うべき見事な振る舞いだ。
初めて冒険者組合に訪れたとき、彼女が受付にいてくれたことは小さな幸運だった。
そうして、ぼんやりとユンゲが思いを巡らしていたときのこと――こちらにくるりと向き直った受付嬢が、不意に畏まっていた表情を悪戯っぽい笑みへと変える様子が視界の端に映った。
「――ところで、チームを組むことを薦めたのは私ですけど、女の子ばっかり……こんな可愛い子たちを捕まえてくるなんて、ユンゲさんって実は結構遊んでたりします?」
「え、いや……そんなことは――」
「見た目の割りに、言動は初心っぽい感じがしてたんですけど、私の見立て違いでしたか?」
唐突な話題の転換に頭が追いつかず、ユンゲの口からは意味を成さない呻きだけがこぼれた。
「あなたたち同じチームとはいえ、嫌なときには嫌ってちゃんと言うのよ! どうしても難しかったら組合に報告しなさい。ちゃんと然るべき対処をしますからね!」
狼狽するユンゲに構うことなく、受付嬢はマリーたちに真摯な眼差しで語りかけていた。
いきなり受付嬢に手を取られ、ずいっと顔を寄せられたマリーが慌てて、「いえ、ユンゲさんはとても優しいです」などと口走っている。
言質を得たりとばかりに口許を釣り上げた受付嬢の横顔が、どこか狂気を秘めたように怖しい。
彼女には悪気がなさそうなだけに、話の流れが良くない方向へと向かっていることを感じ取ったユンゲは、上手く働いてくれない頭を必死で回転させながら視線を巡らせる。
恐らくはどんな反応を返してしまっても、稚気を発揮した受付嬢を喜ばせるだけなのも分かっていたが、彼女たちの境遇を思えば、そうした話題には触れるべきではないはずだった。
「いや、何を言っているんですか。やましいことなんてありませんよ!」
受付嬢はどこか憐れむような一瞥をくれて、取り繕おうとするユンゲに言葉を紡ぐ。
「こんなに魅力的な子たちなのに?」
男の沽券にかかわるような問いかけに、「……んぐっ」と思わずユンゲは言葉に詰まる。
ハーフエルフの身体になったとは言え、ユンゲも若い男だ。
転移前の世界ではなかなかお目にかかれないような美少女のエルフ、それも三人と行動をともにして何も思わない訳ではない。
チームである以上、宿屋でも同室なのだ。湯浴み後に平服姿で過ごす彼女たちを横目に、どれほど冷静さを保っていなければいけないのか。
これまでの経緯を思えば、間違っても変な気を起こすことはできない。
自身の思考が迷走し始めたことに気付き、気を取り直すように咳払いを一つ。ユンゲは努めて落ち着いた口調を心掛けて、慎重に言葉を選んでいく。
「――彼女たちが魅力的なことは否定しませんよ。でも、私も冒険者の端くれですから、チーム内での恋愛がご法度なことくらいは認識していますよ」
わざとらしくならないように肩を竦めて、これ以上は触れてくれるな、とばかりに踵を返す。
「……まぁ、今回のところは、そういうことにしてあげましょうか」
如何にもわざとらしい溜め息をこぼした受付嬢が口にした、「男女の関係が恋愛ばかりとは思わないですけどね」などという不吉な言葉は、意図的に無視をすることにした。
自身の経験値の足りなさを嘆くほかないが、他に対処する方法も思い浮かばない。
何となく恨めしい気持ちで周囲を見回せば、やや困り顔のリンダと目が合った。
慈母のような労わりの笑みを浮かべる神官らしい仕草に、少しだけユンゲの心が癒される。
「さて、からかうのはこのぐらいにして……薬草の査定には少しお時間をいただきますが、どうされますか? 組合の中でお待ちいただけるのであれば、お飲み物くらいならお出しできますよ」
街へ戻ってから冒険者組合に直行していたので、荷物や装備を宿屋に置きに戻りたいところではあったが、また戻ってくるのも面倒に思えた。
リンダと軽く目配せを交わして意思を確認する。
「……じゃあ、少し待たせてもらいますね」
「畏まりました」
すっかりと職分を取り戻したように、「では、こちらへどうぞ」と優雅に案内をする受付嬢の背に続いて、ユンゲたちはフロアの中ほどに設けられたテーブルに向かった。
隣の席の冒険者が嫌そうな顔を見せたところで臭いの件を思い出すが、今更断われないなと心の中でまた謝罪を口にする。
「ところで、皆さんのチーム名はお決まりになっていますか?」
「ん、チーム名ですか? 特に決めていないのですが、ないとマズいんですかね?」
「絶対に必要ってこともないのですけど……あると便利というか、名前が売れたなら名指しの依頼なんかも舞い込んでくるかも知れませんね」
「あー、ちなみに他の方たちって、どんなチーム名を名乗っているんでしょうか?」
「そうですね……王国内で有名なところになりますと、“朱の雫”や“蒼の薔薇”といった感じですよ」
指折りと数えながら、受付嬢はいくつかのチーム名を挙げていく。
そう言えば、前にトブの大森林で出会ったモックナックは“虹”を名乗っていただろうか。
「色に関係するチーム名が多いのかな……?」
小さな疑問符を浮かべながら、ユンゲは隣に腰かけたリンダに小声で問いかけてみる。
「どうでしょうか、王国は四大神信仰が主流なはずなので、それぞれの神が持つ象徴色に因んだ名前を付けたりするのかも知れませんね」
うろ覚えな記憶を頭を捻りながら探ってみれば、近隣諸国では“土・水・火・風”をそれぞれ統べる神がこの世界を作り出した、とかそんな類いの宗教が信仰されているという話を商隊護衛で同行した冒険者から耳にした気がする。
日本人としては、宗教などさほど縁もなかったので適当に聞き流していたが、改めて確かめてみた方が良いのかも知れない。
「すぐに決める必要もありませんので、もしお決まりになったら教えていただけると嬉しいです」
指を添えて口許を緩めた受付嬢に、「了解しました」と笑い返したユンゲは、カウンターに戻っていく後ろ姿を少し疲れた面持ちで見送った。
そうして、ようやっと息を吐いて給仕されたエールの杯に口をつければ、芳醇の味わいが渇いた喉を潤してくれる。
酒場で飲むものよりも香り高いので、かなり上等な物かも知れない。
向かいの席に目を向ければ、昨夜の醜態を意識したのか、マリーはキーファと一緒に仲良く薄桃色の果実水を頼んでいた。
何となく微笑ましい思いで眺めていたところ、受付嬢からの訳知り顔な視線を感じ、誤魔化すようにもう一度エールを傾ける。
可愛い女の子たちが和気藹々としていれば、それだけで幸せな気持ちにもなるだろう、などと心の内に言い訳を唱えつつ心配はないと思いながらも、妙な噂を流されてしまっては堪らない。
こちらの動きを目にしたからか、小首を傾げて不思議そうな顔を向けてくるマリーに、何でもないよと軽く手を振って返す――と、不意に冒険者組合の入口の扉が勢い良く開かれ、数名の冒険者風な男たちが受付へと駆け込んでくるのが見えた。
「……あれ、何かあったのかな?」
ユンゲたち以外の冒険者からの視線も集中し、控えていた受付嬢たちと短いやり取りを交わした男たちは、カウンター奥の扉へと消えていく。
こちらが何事かと訝っている間に、表情を引き締め直した受付嬢が、小走りにユンゲたちの席へと駆け寄ってくる。
「――すみません。ユンゲさんたちも、カッツェ平野のアンデッド討伐戦にご参加いただける予定でしたよね?」
「……えぇ、組合長からもお話をいただきましたので、そうさせてもらうつもりです」
「――実は明日の朝、冒険者組合で討伐隊に参加する冒険者を集めて会合をすることになりまして、突然のことで恐縮なのですが、ご参加いただけますでしょうか?」
-ユンゲたちのチーム名-
エルフだから“森”とか“緑”とか“風”辺りかなーと考えてはいるものの、あまり思いついていません。
ある意味では、一番頭を悩ませています。