元奴隷の少女たちとともにエ・ランテルへと帰還したユンゲは、冒険者チーム“翠の旋風”を結成した。
カッツェ平野のアンデッド討伐で目覚ましい成果を上げてゴールド級に昇格し、順風満帆な冒険者生活を過ごすユンゲであったが、その陰では人知れずと嫉妬の炎を燃やす不死者の王様がいたらしい。
(15)虚像
麗らかな木漏れ日を浴びながら、ユンゲは渓流のせせらぎに耳を傾けていた。
川辺を渡る涼やかな風に、岸から迫り出した樹々の鮮やかに色づいた枝葉が揺れる。
その複雑な陰影が描き出される川面に目を向ければ、丸みを帯びた小石や青々と繁茂する水草か懸命に流れへと立ち向かっていた。
「……釣れないな」
エ・ランテルより北へ進んだトブの大森林にほど近い小川の畔――木陰となった岩肌に胡坐をかいたユンゲは、中天に差し掛かろうとする太陽を見上げながら不貞腐れるように溜め息をこぼした。
朝も早くから釣り糸を垂らしているのだが、ただの一度も当たりがない。
川底まで見通せるほど澄んだ清流なので魚の影を見つけることはできるものの、一向に釣れる気配はないままに時間ばかりが過ぎていってしまう。
「んー、やり方が間違ってるのか……?」
引き上げた釣りの仕掛けをぼんやりと眺めてみるが、環境汚染の進んでしまった世界に生きていたユンゲに釣りの経験はなく、何が正解なのかを判断することはできなかった。
手頃な長さの枝先から細い糸を垂らし、返しのついた釣り針を結んだだけの簡素な釣り竿は、転移前の世界で見た過去の記録映像を思い出しながら作ったものだが、どうにも不恰好な印象を否めない。
薬草採取のときを思えば、道具作りに相当するようなスキルが必要なのかも知れないと自身を慰めつつ、ユンゲは釣り竿作りの際に切り落とした小枝を軽く拾い上げた。
「……ってか、この世界で新しい職業〈クラス〉の取得はできるのかな?」
小枝を手に、ユンゲは揺れる川面に目を凝らす。
ユグドラシルであれば、戦闘等で獲得した経験値を取得したい職業に振り分けることでレベルを上げられたものの、転移後の世界においては諸々の条件が全く分かっていない。
少なくとも経験値を任意に振り分けるような手段はなさそうなので、希望する職業を取得できないことがあるのかも知れない。
(戦士らしい働きをすれば、戦士系の職業を得られるみたいな感じだと、そもそもの選択基準があやふやだし、困りそうだよな……)
陽射しを照り返す渓流の中に、ふと水苔を食んでいる小さな魚の影――取り止めのない考えを巡らせながら、ユンゲは手の中で転がしていた小枝を掴み直して狙いを定める。
「……はっ、流石に無理だよな」
やや自嘲めいた呟きとともに、投じた小枝の先端は――、果たして見事に魚の横腹を貫く格好で川底に射止めていた。
水飛沫を上げてもがく魚影を横目にし、ユンゲは憮然として釣り竿に目を落とす。
「これ、普通に釣るより楽なんじゃないか……?」
釈然としない思いを抱きながら、釣り餌を詰めた深皿に手を伸ばす。
朝の食事で供された煮豆を拝借し、釣り餌として使っているものの餌が良くないのかも知れない。
「まぁ、魚釣りは目的じゃないから良いけど……」
おざなりに釣り竿を振るい、小さな水音が立つのを聞き流しながらユンゲは思考に沈んでいく。
先のカッツェ平野でのアンデッド討伐の功績により、“翠の旋風”の名声は高まった。
――もっと正確な表現をするのであれば、冒険者ユンゲ・ブレッターの名声が高まった。
その事実は、ユンゲの首から下がる冒険者プレートが、銀製〈シルバー〉から金製〈ゴールド〉に変わったことからも端的に示されているだろう。
しかし、ゴールド級に昇格して以降は、羨望とも嫉妬ともつかない剥き出しの感情に晒される場面が増えてしまい、ユンゲは街中で視線を感じることに胸中が穏やかではいられなかったのだ。
当然ながら “漆黒”という桁外れの存在もいるが、あちらは冒険者としての最高位であるアダマンタイト級を戴いているので、民衆はおいそれと声をかけることもできない――などという事情は一切なく、モモンは大荷物を抱えた老人を見かければ進んで手を貸したり、子どもにせがまれれば快く肩車に応じる姿まで目撃されているらしい。
冒険者組合での会議後、短い言葉を交わしただけのユンゲにしても、“英雄”モモンには好印象を抱いており、決して戦闘能力ばかりではない優れた人格者なのだろうと考えている。
古の英雄譚にも準えられる“漆黒”と比較すれば、ユンゲが感じている程度の重圧は気にすることもないのだろうが、小市民に過ぎない身としては精神的な疲労を覚えずにはいられなかった。
――或いは、努力によって得られた賞賛であったのなら、素直に誇ることができたのかも知れない。
しかしながら、その実際は同僚から薦められたユグドラシルを楽しんでいただけなのだ。
異世界に転移した理由は未だに分からないままであり、遊びの延長線上に手に入れた力を褒められたとしても、申し訳なさとともに情けないような思いばかりが込み上げてくる。
難敵に対峙したとき、精神を鼓舞してくれる〈ライオンズ・ハート/獅子のごとき心〉といった魔法であっても、心の内から湧き出してしまう負の感情には大した効果が得られない。
そうして、騒がしい街の雑踏を離れて自然の中に身を置けば、少しは気持ちが晴れるかも知れないと考えたユンゲは、街道を外れた川辺に腰を下ろして釣りの真似事を始めることにしたのだった。
「……だから、英雄なんて器じゃないんだよなぁ」
嘆き節は流れゆく川面に溶け消え、ふと見上げた緑の天蓋からは麗らかな木漏れ日が差し込む。
軽く目を細めた向こうの青空には、さざ波のような白雲が広がっていた。
*
「ユンゲさん、調子はいかがですか?」
背後からの呼びかけに振り返れば、真新しいバスケットを抱えて息を弾ませる森妖精〈エルフ〉の少女が、柔らかな笑みで迎えてくれた。
「んー、全然釣れてないな。マリーは何かコツとか知らないか?」
「す、すみません……私も魚釣りをした経験がないので、分からないです」
何気ない問いかけに困り顔となったマリーか、小さく肩を竦めて川の流れへと視線を向ける。
「そっか……まぁ、気長に待ってみるよ」
相変わらずと泳ぎ回っている魚影は確認できるのだが、釣り餌に食いつく素振りはなさそうだった。
「――では、少し休憩するつもりで、お食事はいかがですか?」
可愛らしく小首を傾げたマリーが、バスケットに被せていた白い布巾を払ってみせる。
ほのかに鼻孔をくすぐる甘い香り――大きめなマローン葉に包まれているのは、以前にも作ってくれたエルフの焼き菓子“レンバス”だろう。
「おー、ありがとう!」
「ふふっ、お隣に失礼しますね」
傍らに腰を下ろしつつ、マリーが包みの一つを手に差し出してくれる。
思わずとも口角が持ち上がり、「……では、いっただっきまーす!」とユンゲは声を張った。
早速と嚙りつきながらマリーに視線を向ければ、にこにこと嬉しそうな横顔。
互いに何を話すわけでもないが、ぼんやりと釣り糸を垂らして過ごす時間は悪くない。
「空気にも味がある」という大昔の青春映画の中でしか聞くことのできなかった言葉を実感すれば、澄み切った空気を吸い込むだけで良かった。
渓流のせせらぎと軽やかな葉擦れの音を伴奏に、マリーが懐かしむように故郷の唄を口遊む。
エルフの独特な調べと心地良い歌声に耳を傾けながら、ユンゲは静かに頬を緩ませた。
これ以上を望むことは、身の程知らずが過ぎるのだろうと――それでも、どこか塞ぎ込むような自らの心は晴れないままであった。
そうして、何度目かも分からないままに、ユンゲが釣果のない竿振りを繰り返していたときだった。
「あの……ユンゲさん、何か悩んでいらっしゃいますか?」
「んー、悩みとはちょっと違うかもしれないけど、急にどうしたんだ?」
不意の問いかけに、ユンゲは虚を突かれたように思わずと身体を硬くしかけるが――、
「いえ、私たちは迷惑をかけてしまうばかりで申し訳ないなぁ、と思いまして……」
続けられたマリーの言葉は、全く考えてもみない台詞だった。
咄嗟に返事に詰まったユンゲの沈黙をどのように解釈したのか、マリーはどこか遠くを見つめて顔を背けるように、哀しげな言葉を紡いでいく。
「――ユンゲさんは本当に凄いと思います。この前のアンデッド退治でもそうでしたけど、私たちさえ足を引っ張っていなければ、ユンゲさんはとっくにアダマンタイト級になっているはずなんです。ユンゲさんには感謝してもしきれないです。でも、私は何も恩返しすることができてなくて……」
こちらを振り向いた寂しそうな笑顔を見遣り、ユンゲは「……マリーは良くしてくれてるよ」と小さくかぶりを振った。
「俺の悩みは……、自分が人様から褒められるほど立派じゃない、ってことなんだよ。どこにでもいるような、ただの凡人に過ぎないのに――」
手にしていた釣り竿を脇に置き、気恥ずかしさを取り繕うようにユンゲは頭をかいた。
「ちょっとだけ他人より要領が良かったから、嫌なことは適当にやり過ごしてさ……、たいした努力もしないで取り敢えず楽な方へ楽な方へ流れてきたんだ。この力だって、所詮は“紛いもの”なんだよ」
渇いた笑いとともに、内心を吐き捨てる。
ゲームを遊んでいたら、いきなり異世界に転移する――そんな漫画のような突然の異常事態に遭遇しながらも、ユンゲは転移前の世界に帰還するための方法を探ろうと必死にならなかった。
――現実世界は、“その程度”の価値でしかない。
元々の生活に戻るために行動するほどの未練を残していなかったのは、ユンゲが何事も成していなかったからだろう。
懸命な努力で積み上げたものがなければ、失ったとしても惜しむことはない。
「俺は、これまで何もしてこなかった。――英雄なんて器じゃないんだよ」
「ユンゲさんは、難しいことをおっしゃいますね」
自嘲めいたユンゲの言葉に、少しだけ眉を顰めてみせたマリーが小さく息を整える。
「……少なくとも、私たちはユンゲさんに救っていただきました。誰からも顧みられることなく、ただ消えていくしかなかった私たちにユンゲさんは振り向いてくれました。一緒に世界を回ろうと、この手を取ってくれました」
――だから、ユンゲさんは私たちにとっての英雄〈ヒーロー〉です。
真摯な響きを湛えるマリーの声音。
ふと胸の内に込み上げる感情――ユンゲは、咄嗟に返すべき言葉が分からなかった。
そうして、マリーに向けられる屈託のない笑顔を直視できなくなり、思わずと顔を俯けてしまう。
それでも、不意の慈しむような温もりが、ユンゲの頭を抱いていた。
「――ユンゲさんは、私の英雄なんです」
耳許で凛と囁かれた真っ直ぐな言葉。
「……私、今でも夢に見るんです。“道具”だった頃のこと――無理矢理に参加させられた戦争で、捕虜になっちゃうんです。痛くて怖くて、お願いだから早く終わって、なんて……、あっさりと殺してくれたら楽になれるのに、って泣いてばかりいるんですけど、それでも自分で死ぬことは怖くなってしまう臆病者だったから……だから、ただ待っていることしかできなくて――」
紡がれる過酷な告白に声音は震え出し、いつしか啜り泣く嗚咽が混じるようになっていた。
「それから、どうにも堪え切れなくなったところで目が覚めるんですよ。夢の中での出来事のはずなのに、汗とかいっぱいかいていたり、息切れとかもしちゃってて……。でも、ベッドから降りるとユンゲさんがいるんです。とっても変な寝相で、『おかわりーっ!』なんて寝言が聞こえてきたりして――夢の中でも食事してるんだ、って思うと呆れて良いのかも分からないですけど、幸せそうなユンゲさんの寝顔を眺めていたら、悲しかったり悔しかったりしていた気持ちが、何だかちっぽけに思えてしまうんです。……不思議ですよね」
早鐘のように高まる胸の鼓動は、果たしてどちらのものだったのか。
「私、ユンゲさんの笑顔が好きです。……だから、悲しそうな顔をしていて欲しくないです」
思い返してみれば、理不尽に虐げられるマリーの姿に憤りを覚えたユンゲは、初めて自らの選択による行動を起こしたのかも知れない。
同僚の誘いを断り切れずにユグドラシルを始め、突然の転移後には検問の兵士から勧められるままに冒険者となり、世話焼きな受付嬢の手引きで護衛の依頼に参加するような受け身の姿勢から、ふらりと立ち寄った帝都〈アーウィンタール〉の片隅で、件の場面に遭遇したのだ。
あの瞬間に湧き出した感情の根源は、未だに理解できないものの、ユンゲの振る舞いが奴隷の境遇に置かれたマリーの運命を変えたことは確かだろう。
――これから先の未来において、その変化が良い結果をもたらすのかは分からずとも、行動した事実が揺らぐことはない。
「……ありがとう、マリー」
口をついて自然とこぼれた感謝の言葉に――、
「御礼したいのは私の方です。こちらこそ、ありがとうございます」と晴れやかな微笑み。
柔らかに頭を撫でてくれていた小さな手からは、慈しむような優しさがあふれる。
間近から見上げてみれば、ずっと歳下であるはずの笑顔が妙に大人びた印象を覚えた。
――そうして、不意に普段とは逆転した身長差が気恥ずかしくなり、ユンゲは思わずと誤魔化すように口許を緩めてみせる。
「ふふっ、やっぱり笑った顔の方が素敵です」
川面を渡る涼やかな風に揺られ、艶やかな金髪が麗らかな木漏れ日の中でキラキラと輝いていた。
「情けないとこを見せちゃったな、助かったよ」
「――私は、少しだけ安心しました。ユンゲさんほどの方でも、こういうことがあるんだって……」
「はっ、――俺は“英雄”じゃないからな」
敢えて同じ台詞を口にしてみるが、その意味合いは気持ち次第で大きく変化する。
豊かに繁る緑の天蓋の向こうに、いつしか中天を越えていた太陽を仰ぎ見ながら、ユンゲはゆっくりと息を吸い込みかけ――、
「――あっ、釣り竿が引いてますよ!」
不意打ちの呼びかけが耳朶を震わせ、慌てて振り返った視界の端から、川縁の岩場に置き放していた釣竿が流れの中に呑まれていく。
「……釣り竿ごと、取られちゃいましたね」
そんな苦笑を押し隠すようなマリーの声音に、ユンゲは抱えていた鬱屈を吐き出すように大きな笑い声を上げるのだった。
果たして“煮豆”で魚は釣れるのか?
書き始めたときは、スキル〈ビキナーズ・ラック〉の恩恵で沢山お魚が釣れたよ。やったね! という感じの気楽な閑話を挿むだけのつもりが、どうしてこうなってしまったのか……。
何はともあれ、今年もよろしくお願い致します。