投稿前に確認はしているつもりなのですが、いつかお世話にならずに済む日が来るのでしょうか――。
「…………ん、朝か?」
泥のような眠りに差し込んだ、ひと筋の茜色の光。
浅い微睡みを妨げるような日差しに目を細めたユンゲが、全身を苛むような気怠さに顔を顰めながら辺りの様子を窺ってみれば、自身の横になっている仕立ての良さそうな革張りの座席に、丁寧な装飾の施された内装が、淡く霞むような視界の中に映る。
どこか夢現な思考の中で、どうやら眠っていたらしいと思い当たるものの、ユンゲには置かれた状況を理解することができない。
「――目が覚めたようですね」
不意に投げかけられた男の声は、ユンゲの向かいの座席からだった。
「ご気分はいかがですか? おそらくは魔力切れのような症状かと思われますが……」
こちらを気遣うような声音に、ユンゲはやおらと身を起こした。
軽い頭痛を払うようにかぶりを振ると焦点の定まらなかった視線が、徐々に形をなすように男の姿が鮮明となっていく。
短く刈り上げた髪と整えられた髭から爽やかな印象を抱かせる三十代ほどの男――見覚えのない相手ではあったが、全身鎧の上から羽織った聖印の描かれたサーコートと手にした聖印から判断するなら、信仰系の魔法詠唱者だろうかとぼんやりと考える。
「えっと、大丈夫? ……だと思います」
疑問符を浮かべながら問いかけに答えてみせるユンゲに、男は呆れともつかない深い溜め息をこぼした。
「――戦いに熱中するのは結構ですが、ご自身の限界は弁えて置かれるべきだと、年配者として忠告させていただきますよ」
「…………ん? あぁ、モモンさんと模擬戦してたんだっけ。俺の剣は全然相手にならなくて、魔法の連携も防がれて……あれ?」
記憶を呼び起こそうと言葉にしてみるが、何故か靄がかかるように思考が覚束ない。
指を曲げ伸ばしながら頭を悩ませるユンゲに、助け舟を出すように男が口を開いた。
「模擬戦の最後、気力を振り絞るようにモモン殿に斬りかかった貴方は、そのまま気を失って半日ほど眠っていたのですよ」
合点のいかない様子のユンゲを訝るように見据えつつ、「覚えていませんか?」と男が笑う。
整然とした男の説明を受け、「……いや、お恥ずかしい」と曖昧な記憶と擦り合わせようとしながらも、ユンゲは僅かな違和感を覚えていた。
モモンとの模擬戦を通して、剣も魔法も敵わない圧倒的な高みを知り、それでも挑んだ最後の瞬間に体験した未知の感覚――何か強大な力が身体の奥底から湧き上がるようなイメージと同時に押し寄せた言い知れぬ虚脱感――あの正体が、男の言う魔力切れだったのだろうか。
そうして、寝起きのためか、良く回ってくれない頭を無理に働かせようとしたユンゲは、はたと男の言葉を復唱した。
「……えっと、半日?」
「えぇ、半日です。良く眠っておられましたよ」
どこか面白がるような男の声音に、ユンゲが改めて周囲を見回してみれば、今腰かけているのは依頼主であるフェメール伯爵の用意した豪華な幌馬車の座席であり、馬車内を赤く染め上げている光は、小さな窓から差し込む夕日であった。
気を失ったユンゲ一人のために依頼の出発を後らせることはできず、馬車に乗せてもらえたのだろうが――、
「しっかりと目が覚めたのなら、先ずは仲間のところに顔をみせて差し上げるべきだと、ご忠告させていただきます。……とてもご心配されていましたからね。おそらく外で夜営の準備をしている頃だと思いますよ」
年配者らしい落ち着いた口調で言い差した男が、幌馬車の扉を指で示してみせる。
「――あ、はい。そうします!」
勢い込んで答えながら、ユンゲは扉を開け放つ。
まさか半日も眠ってしまっていたとは、マリーたちばかりでなく、ともに依頼を受ける“漆黒”や“スクリーミング・ウィップ”にも申し訳が立たない。
慌てて地面に飛び降りたユンゲは、そのまま数歩先に駆け出してから、忙しなく馬車を振り返って男を見上げた。
「――失礼、貴方のお名前は?」
「“フォーサイト”のロバーデイク・ゴルトロンと申します。以後、お見知り置きを」
朗らかに笑みを浮かべてみせる男――ロバーデイクに軽く頭を下げたユンゲは、「了解です、ありがとうございました!」と快活に声をかけ、再び踵を返して走り出した。
*
遠くにそびえる万年雪を抱いたアゼルリシア山脈の、峻険な稜線に沈みゆく真っ赤な太陽が、世界の全てを燃え立つような瑞々しい夕映えに包んでいた。
高い木々のない拓けた野原の片隅に佇んだユンゲは、思わず言葉を失うように息を飲み込む。
目に沁みるほどの鮮やかな茜色の風景に、どこか郷愁を呼び起こされるままに周囲を見渡せば、いくつもの張られた野営用のテントが並び、夕餉の支度をしているらしい朱に染まる柔らかな煙が昇っていくのが見える。
そうして、少しだけ騒がしい人集りとなった方へ吸い寄せられるように進んでみれば、全てが赤一色となった世界の中にあっても、一層と闇を濃くするような漆黒の全身鎧を身に纏った戦士の姿があった。
いつか見た棒切れを手にしながらも優雅な演武のような舞いをみせるモモンの姿に、ユンゲは目を奪われかけ、不意に視界の端から飛び込んできた人影に驚いて、その場でたたらを踏んだ。
「――ユンゲさんっ、ご無事だったんですね!」
軽やかに心が弾むような、或いは泣き出してしまいそうな、相反する感情が同居した声音に目を向ければ、サイドで括った艶やかな黄金色の髪が揺れる。
ユンゲの腰辺りをひしと抱き締め、胸許に顔を寄せる小柄な森妖精〈エルフ〉の少女――マリーが、上目遣いにユンゲを見つめながらひと息に言葉を捲し立てた。
「もう、心配したんですから! あまり無茶はしないでください!」
常にない勢いに押されるようにユンゲが思わず首を縦に振れば、「本当に分かっていますか? 皆さんにも、ご心配をおかけして――」と聞き分けのない子どもに言い聞かせるようなマリーの小言が続いていく。
「あぁ……いや、面目ない」
誤魔化すように指先で頰をかきながら、ユンゲは突然の嵐をやり過ごそうと力なく息を吐いた。
しかし、マリーの後ろに続いていたキーファとリンダが苦笑しながらも、気持ちは同じだと言わんばかりの視線を向けてくるのだから、ユンゲとしては立つ瀬がない。
降参を示すように肩をすくめてみせ、マリーの小さな頭に手を置いたユンゲは、やや怖々とした思いで髪を撫でながら「……悪かったな、心配かけた」と小さく言葉を紡いだ。
目許に薄く滲んだ涙の雫を伸ばした袖先で拭うようにしてやれば、ちょっとだけ膨らませた頬で抗議を訴えつつも、どこか諦めるように破顔してくれるマリー。
その小柄な背に腕を回して、そっと抱き返す。
ユンゲの腕の中で少しだけ身を固くしたマリーの長く尖った耳が、周囲の朱に染まるように僅かにヒクついた。
幼な子をあやすように、ぽんぽんと軽く背を叩いて直ぐに離れたユンゲは、キーファとリンダに向き直って「二人にも心配かけたな」と言葉少なく、謝意を口にする。
途端に泣き顔を浮かべながら駆け寄ってくるキーファを大袈裟に抱きとめつつ、窺うようにリンダへ目を向ければ、「今回のようなことは、もう嫌ですよ」と苦笑いのままに告げられた。
マリーとキーファの様子から思い起こされるリンダの苦労に、ユンゲは本当に申し訳ない思いから、「……肝に銘じて置くよ」と恭しく口にする。
「よろしくお願いいたしますね」と疲れたように笑う、リンダの気持ちの込められた念押しにユンゲも一つ頷きを返し、気を取り直すように周囲を見回しながら問いを投げかけた。
「……夜営の準備は、もう良いのか?」
「えぇ、先ほど終わりましたので、皆さんをお呼びしようとしたところだったのですよ」
リンダの声に合わせるように、先ほどの人集りから歓声が聞こえてくる。
人混みの中央では、いつかの冒険者組合で見たような握手に応じるモモンの姿が見えた。
「――あれは前衛職の方々が、モモン殿に指導してもらいたいと申し出られていたのです」
ユンゲの疑問に先回りしたリンダが、「……夜営の準備が終わるまで、ということだったのですが、あちらも一段落が着いたようですね」と説明してくれる。
モモンとの模擬戦を経験したユンゲとしては、最高位アダマンタイト級の凄腕の戦士に教えを仰ぎたいという思いは良く理解できる気がした。
――持てる力の全てを存分に出し切り、尚も届くことのなかった遥かな高みに抱く憧憬。
マリーとキーファを促しながら、モモンたちのもとへと向かうリンダに続いて歩きながら、ユンゲはやおらと空を見上げた。
見渡す限りを茜色に染め上げた涼やかな佳夕にも終わりの刻が迎えられるように、静かな足取りで宵の帳が迫っているらしい。
日中の熱気も盛りを過ぎ、やがて訪れる秋を感じさせるような心地良い風に身を任せ、ユンゲは深く味わうように大きく息を吸い込む。
濃い藍に染まりゆく東の空には、去りゆく夕陽を惜しむように紅の名残りを照らす、大きな満月が浮かんでいた。
*
「――お気になさらずとも大丈夫ですよ。モンスターの襲撃もなく、穏やかな道中でしたからね」
乞われた指導を終えて野営地に引き上げてくるところを呼び止め、ユンゲが模擬戦からの失態を謝罪すれば、モモンは何でもないことのように笑いかけてくれた。
「お元気になられたようで何よりです。宜しければ、またお手合わせいだだけると嬉しいですね」
「……こ、こちらこそ光栄です。是非、よろしくお願いします」
自身の力量を見誤ったばかりか、本意でないとはいえ半日も護衛の仕事を怠ってしまったのだから、叱責も甘んじて受ける思いだったユンゲとしては、恐縮することしかできない。
モモンの後に続いていた“スクリーミング・ウィップ”の面々からも、嫌味の一つもなく模擬戦でみせたユンゲの健闘を称えられてしまうのだから、拍子抜けしてしまうというか――、
「――皆さん、気の良い方たちですね」
傍らのマリーが嬉しそうに笑みをこぼすのに、「……そうだな」とユンゲは小さく言葉を返した。
これが転移前の世界であったなら、どのような対応をされたかなど想像に難くない。
「……あれだけ圧倒的な力の持ち主なら、ちょっとくらい傲慢に振る舞っても誰も文句なんて言わないだろうにな」
「そうかも知れませんね。特に冒険者やワーカーのようなお仕事は、実力が全ての世界ですから――」
どこか諦観するようなマリーの横顔に、ユンゲはかけるべき言葉を逡巡する。
力が及ばないために泣き濡らした日々は、簡単に拭い去れるものではないのだろう。
「……大昔の英雄譚に描かれる偉人ってのは、皆あんな感じの雰囲気なのかな」
「どうでしょうか、良い方ばかりではないような気もしますが……、モモンさんは偉業ばかりでなく、お人柄も後世に語り継がれていきそうですよね」
二振りのグレートソードを担ぐ大きな背中を見送りながら、ユンゲは僅かに目を細める。
いつか辿り着きたい目標としては、些かも遠すぎる思いはあるのだが――、
「……もっともっと強くならないとな」
「――強いだけじゃ駄目ですよ。もっと……そうですね、優しくなっていただかないと」
一つ小さくかぶりを振ったマリーが、人差し指を立てながらしなを作ってみせる。
「自分で言うのもなんだけどさ……これでも結構、優しいつもりなんだけどな」
「……ふふっ、期待しています」
含みのあるマリーの言葉に軽く肩を竦めつつ、ユンゲはわざとらしく溜め息をこぼして、むず痒いような思いで言葉を続けた。
「まさか英雄になりたい、なんて思ってないからな。……過度な期待はしないでくれよ」
突然の異世界転移によって色々と恩恵を受けた身であるからこそ、ユンゲは自身が英雄と呼ばれるような器でないことを強く自覚している。
(……できることで恩を返していくしかないよな)
そうして、皆に負担をかけてしまった分、夜間の警戒や明日以降の行動でしっかりと挽回に励もうとユンゲが思いを新たにしたときだった。
不意に蠢くのは腹の虫――どこまでも空気の読めないハーフエルフの身体には苦笑するしかない。
「…………、今朝から何も食べてなかったんだよ」
口許に手をやって、くすくすと肩を震わせているマリーの髪を乱暴に撫で回したユンゲは、取り繕うように言い訳の台詞を吐き捨てて踵を返した。
「もうっ、怒らないでくださいよ! いつものユンゲさんが帰ってきた、って本当に嬉しかったんですから――」
笑いながら小走りで追いかけてくるマリーを横目に、ユンゲは憮然としたまま大股で歩を進めるのだった。
誰もがモモン様の戦いを見学したがる中で、眠っているユンゲのことを気にかけてくれるロバーデイクさんは、ワーカーの良心だと思います。