薄曇りの夜空には、星たちの疎らな輝き。
頼りない月明かりに照らされ、どこか霞むように青白く浮かび上がる眼下の遺跡は、虫の音一つのない息が詰まるほどの静寂の中に佇んでいた。
陽が落ちてからは気温もすっかりと低くなっているはずなのに、どこか汗ばむような不快な感じがするのは、遺跡から醸し出されてくる言い知れぬ重圧の仕業なのかも知れない。
「ちょっくら、大金持ちになってくるぜ」と息巻いて遺跡へと挑んでいった請負人〈ワーカー〉たちの後ろ姿に向け、黒装束の悪魔が手にした大鎌を振りかざさんとするような悪寒に身震いする。
知らずのうちに額を拭っていた袖を払い、ユンゲはやおらと周囲を見回した。
似たような丘陵がいくつも連なる大草原の中、遠方からの死角となる谷合いとなる暗がりに、背の低いテントが並んでいる。
先ほどまで遺跡へ潜入する前の腹拵えとして、温かいスープが振舞われていたはずだが、火を使用しても明かりは漏れてこない。
無用な客を招かないために、光を遮断する〈ダークネス/暗闇〉の魔法がベースキャンプ全体を覆うようにかけられているためだ。
ここまで大きな荷車を運んできた三頭の八足馬〈スレイプニール〉も、今は轡を噛まされたまま静かに身体を休めていた。
遺跡の探索を終えたワーカーたちが無事に帰還したときに、拠点が失われているような事態になっていては、どんな言い訳も立たない。
情けない状況を避けるためにも、ユンゲたち冒険者チームに課せられた役割は、ワーカーの遺跡調査に割り当てられた三日間、ベースキャンプを不測の襲撃者から警護することにあった。
更に“漆黒”の二人には、未帰還のチームが発生した場合に備えての強行偵察の役回りも任されているので、拠点周囲への警戒には“翠の旋風”と“スクリーミング・ウィップ”という、二つのチームが要となっている。
「……とはいえ、警戒するべきなのはやっぱり遺跡からな気がするな」
周辺の地形を見渡してみれば、丘陵を越えてくるような存在の発見は容易く、その陰に隠れて接近してくる相手への対策としても、マリーたちが〈アラーム/警報〉の魔法を準備してくれている。
そうした点を考慮したなら、やはり眼下の遺跡からモンスターが這い出してくるような展開こそ、注意するべきなように思われた。
考えを巡らせながらユンゲが遺跡の方へ視線を戻してみたのなら、不意に外周の上で五つの淡い光が灯されるのが目に止まる。
左右に数度振られてから消えた光は、ワーカーたちが待機を完了したことを伝え合うために用意していた、錬金術による蛍光棒だろう。
手にしていた当人たちの姿は、〈サイレンス/静寂〉と〈インヴィジリティ/透明化〉による隠蔽魔法のために視認することはできないが、無事に突入する段階までは辿り着けたらしい。
気持ちを落ち着けるようにゆっくりと草地に腰を下ろしたユンゲは、背負い袋からマローンの葉に包まれたレンバスを取り出した。
腹持ちが良く保存性に優れ、持ち運びにも便利なエルフ特製の携行食であり、味の方も帝都アーウィンタールの市場で手に入れたシロツメクサの蜜を用いた絶品の仕上がり――今回の依頼に赴く前にマリーから試食を頼まれたとき、ユンゲは思わずおかわりの分を作ってもらうために、追加のシロツメクサの蜜を市場まで買い求めに走ったほどであった。
夜もすがらに警戒を続ける上では、これほど心強い備えもないだろう。
マローンの包みを開けて大口で齧りつくと、サクサクッと小気味好い食感に続いて、素朴な甘さが舌の上に広がっていく。
不安をかき立ててくる未知の遺跡を前に、どうしても色々と考え過ぎてしまうのだが、張り詰めていた緊張を解してくれるような優しい味わいに、ユンゲの口許は無意識の内に綻んでいた。
「それでは予定通り、私は先に休ませてもらう」
「はい! どうぞ、ごゆっくり」
レンバスに舌鼓を打ちながら聞こえてきた声に振り返れば、先ほどから“スクリーミング・ウィップ”のリーダーと話し込んでいたモモンが、こちらの方へと向かってくるのが見えた。
残りのレンバスを口に放り込み、急いで立ち上がろうとしたユンゲに、「あぁ、お気になさらず。そのままで構いませんよ」とモモンが平時と変わらない穏やかな口調で語りかけてくる。
月下に煌めく漆黒の全身鎧に身を包み、真紅のマントを夜風にはためかせながら歩み寄ってくるモモンの姿は、さながら英雄譚の一節を描いた名画のような勇壮な風情があった。
最近の市井では、“漆黒の英雄”を題材とした物語や芸術品などが人気になっている、という話も納得できる思いだ。
「未知の遺跡を前にしても、ユンゲさんは落ち着いていらっしゃいますね」
「……いや、内心はかなり気後れしてますよ」
場違いに抱いていた思いを誤魔化すように、ユンゲは慌てて言葉を続けた。
「とりあえず、遺跡からモンスターが出入りしている様子はなさそう、っていう見立てでしたから、足を踏み入れない限りは大丈夫かなぁ、なんて……」
「ははっ、確かにそうかも知れませんね」
モモンが軽く笑って流してくれたことに、ユンゲは秘かに胸を撫で下ろす。
「まぁ、潜入してるワーカーたちが戻ってきたときに笑われないためにも、しっかりすべきだとは思っていますけどね」
そのためにも先ずは腹拵えです、とレンバスを包んでいたマローンの葉を摘み上げながら冗談めかせれば、モモンは神妙そうに一つ頷きを返してから、どこか遠くを見つめるように頭上を仰いでいた。
モモンの視線を何気なく追って、ユンゲも夜空へと目を向ける。
遥かな高さでは風が凪いでいるのか、淡い靄のような白雲のヴェールは、揺らぐこともなく満天を覆うように薄い広がりをみせていた。
夜半に雨が降り出すような心配はなさそうだが、街中の灯りも遠いこの場所でなら、夜空に満ちゆく盈月や宝石箱をひっくり返したような星たちも、さぞ美しく輝いているであろうと思えば、ユンゲは少しばかり残念な気持ちになる。
人前では決して外そうとしない面頬付き兜のために、その表情を窺い知ることはできないが、モモンにも何か思うところがあるのかも知れない。
何か声をかけるべきかと考えながらも、ユンゲは口を開きかけたままの姿勢から動けなかった。
あれほど大きかったモモンの背中が、どこか寂しげに小さく佇んでいるような様は、安易に踏み込んではいけないような雰囲気を漂わせていた。
当代の英雄とまで謳われる男は、しかし当然ながら物語の登場人物ではない。
長く戦いの中に身を置いていれば、酸いも甘いも多くの経験をしていることだろう。
以前に冒険者組合長のアインザックから伝え聞いた、故郷を滅ぼした二匹の吸血鬼を追っているというモモンの境遇を思ったのなら、碌な経験もないユンゲにはかけるべき言葉を見つけられない。
それでも二人の間に落ちる静寂は、先ほどまで遺跡に臨んでいたときとは違い、嫌な緊張感をもたらすものではなかった。
さざめくように草原を渡る夜風が、薄く汗ばんだ肌に心地良く流れていく。
「……いけませんね。こうして夜空を眺めていると、どうしても感傷的な気分になってしまいます」
やや自嘲するような響きを孕んだモモンの声音。
古の聖人かと見紛うほどの英雄から垣間見える“生の人間らしい”弱気な台詞に、「……構わないと思いますよ」とユンゲは小さくかぶりを振った。
「モモンさんがお休みの間は、私たちがしっかり警護しますので、存分に浸っていてください」
努めて軽い口調で言い差したユンゲは、ひらひらと手を振ってみせながら背負い袋の中を探り、ほどなく目当てのものを二つ見つけ出し、下手から無造作にモモンへ向けて放り投げた。
「――っ、あの、これは?」
反射的に受け取ってから問いかけてくるモモンの律儀さに口許を綻ばせつつ、ユンゲは自分用にともう一つ背負い袋から取り出しながら答える。
「レンバス、っていうエルフの焼き菓子です。仲間が作ってくれるのですが、初めて口にしてもどこか懐かしく感じるような素朴な味なので、もの想いに耽るにはバッチリだと思いますよ。良かったら、ナーベさんとご一緒にどうぞ」
手にした二つのレンバスとこちらを交互に見比べて戸惑うようなモモンに、「もしお気に入ったのなら、うちの子たちを褒めてやってください。多分、凄く喜ぶと思うので――」とユンゲが言葉を続ければ、ようやくと合点がいった様子のモモンは、一つ肩を竦めてみせた。
「……お気遣い感謝します」
「いえ、ゆっくりとお休みくださいね」
モモンが頭を下げようとするのを軽く払った手で制し、ユンゲは静かに遺跡へと向き直った。
青白い月明かりが霞み、照らされる戦士像には薄雲の影が落ち、その表情を曇らせている。
勇壮に構えられた守護の剣は、しかし振り下ろされることもなく、永遠のときに身を置かざるを得ない、戦士自身の墓標のようにも見えた。
寒気を伴う畏怖をもたらす未知の遺跡を前に、不意に悲哀の楔を打ち込まれたような物寂しい感傷が、胸の内へと静かに押し寄せる。
そうして、テントに引き上げていくモモンの気配を背中に感じながら、ユンゲは瞑目するように小さく息を吐いたのだった。
*
東の空を朱く焼いて、燃え立つ太陽が悠々と舞い上がっていく。
夜露に濡れた緑の草原は、涼やかな風に遊ばれる大海原のように揺蕩い、降り注ぐ朝の陽射しを照り返しながら、金糸を幾重にも織り込んだような眩いばかりの輝きに満ちている。
明け方までは薄曇りだった空にも、からりとした秋晴れに鮮やかな群青のタペストリーが、どこまでも高く抜けるように広がっていた。
思うままに声を上げながら、童心に帰ったような思いで走り出したくなる光景は、視界の全てを覆い尽くすように遥か彼方の地平線まで続いている。
「…………晴れたな」
しかし、転移前の世界では決して見ることの叶わない大自然の、思わず心躍るような景色を前にしても、ユンゲの声音は低く沈むようであり、傍らに寄り添うマリーもまた、「……そうですね」と静かに言葉少なく応じるだけだった。
昨夜、日没を待ってから遺跡へと潜入していった“フォーサイト”を始めとする五つのワーカーチームは、顔を覗かせた朝日が再び中天に差しかかろうとする頃合いとなっても、未だに帰還していない。
既に半日以上の時間が経過していることを思えば、ユンゲばかりでなく皆の胸の内に湧いてくる考えは一つだろう。
ユンゲたち“翠の旋風”ともに夜間の警戒を担った“スクリーミング・ウィップ”の面々に目を向けても、夜を徹しただけではない精神的な疲労の色が濃いように思えた。
「――全滅した、と考えるべきでしょうね」
感情を押し殺したような平坦な声の主は、遺跡に臨みながら仁王立ちするモモンであり、誰もが可能性を認識しながらも、決して口にはできなかった推測だった。
モモンの言葉の意味を噛み締めるほどに、ベースキャンプの周囲に詰めていた冒険者たちの間に、悲痛な沈黙が広がっていく。
帰還したワーカーたちに振る舞うため、朝餉を用意していた焚き火の木炭が、色を失い小さな燻りの音とともに崩れた。
火にかけられていた鉄鍋も、すっかりと冷たくなってしまっていることだろう。
轡を噛まされたままの八足馬が、低く抗議するようにくぐもった嘶きを上げた。
「現時点をもって、依頼遂行の継続は困難と判断します。……心苦しいですが、この遺跡の脅威を皆に伝えるためにも、今は撤退するしかないでしょう」
気の詰まるような一行の沈黙を破ったのは、またしてもモモンだった。
まともな思考が紡げていないユンゲたちに代わり、一人で決断を下すという酷な役回りを担ってくれている。
一切の感情を排したような口調が、一層とモモンの苦悩の深さを思い起こさせる。
自分たちや依頼主、この遺跡の危険性を知らない人々のために、潜入したワーカーたちを見捨てるという選択だった。
元々の取り決めに従うならば、帰還できないチームがあった際には、最高位アダマンタイト級の冒険者である“漆黒”のモモンとナーベの二名が、強行突入して救出に向かうことになっている。
しかし、全チームが未帰還となる事態は想定されていなかった。
ベースキャンプに戻ってきた他のワーカーから寄せられたはずの遺跡内に関する情報が皆無であり、右も左も分からない中で先に潜入した者たちを探し出すことなど無謀に過ぎる。
置かれた状況を冷静に検討した上での、撤退という合理的な判断――今回の依頼に集められたミスリル級に相当する、この世界でも上位の実力者であるワーカーたちが誰一人として帰還していないという事実は、それほどに重いのだろう。
しかし、頭の冷静な部分がモモンの選択を支持しながらも、ユンゲの心の内には戸惑いの気持ちがわだかまっていた。
ワーカーの全滅はあくまで可能性の話であり、中には負傷して動けないままに助けを求める者が取り残されているかも知れない。
焚き火を囲って談笑を交わした夜や模擬戦と称して剣を合わせ、巧みな連携の前に思わぬ苦戦を強いられた記憶が過ぎる。
「…………っ」
もどかしい思いで口を開きかけ、声にならない音がこぼれた。
不意に、大地が揺らいだような錯覚――震えていたのは自分の膝であったことに気付き、苦笑とともにユンゲは太腿に拳骨を叩き込む。
ユグドラシルのような“ゲーム”ではない、人が死ぬという事実。
そうした状況を目の前にして、ユンゲは一歩を踏み出すことができないでいた。
ユンゲを遥かに凌ぐ超級の戦士であるモモンに、万人が羨むほどの美貌にして凄腕の若手魔法詠唱者であるナーベという稀代の冒険者チーム“漆黒”であっても、二人だけでは未知の脅威が蔓延っているであろう遺跡への突入に手が足らない。
しかし、アダマンタイト級という最高峰の実力を有する“漆黒”の二人に加えて、本職に及ばずとも斥候役、或いは回復役としてサポートに徹するユンゲが同行しながらの捜索であったのならば――。
先ほどから変わらない姿勢で遺跡に睨みつけるように臨んでいるモモンの後ろ姿に目を向ける。
かけるべき言葉を見つけられない逡巡のままに視線を彷徨わせれば、モモンの傍らには従者のように控えているナーベの白皙たる横顔。
零下のように冷え込んだナーベの鋭利な眼差しが、蔑むようにユンゲを見据えていた。
この世界に転移して間もない頃、駆け出し冒険者向けの安宿で触れた絶対的な捕食者に抱く畏怖が、ユンゲの心胆を寒からしめる。
お前は何をしているんだ、と言わんばかりのナーベから放たれる無言の糾弾に、ユンゲの鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。
ユンゲが漆黒の二人に同行するのであれば、この絶望的な状況を打破できるかも知れない。
そして、ユンゲが気付く程度のことに最高位冒険者であるモモンとナーベが気付かないはずはない。仮にモモンから遺跡への同行を求められたのなら、ユンゲの取れる選択肢は多くない。
了承して未知の遺跡へと生死を賭けて挑むことになるのか、或いは保身のために断るのか。
どちらを選んだとしても誰から咎められることはないが、前者の危険は言うに及ばず、後者を選んだとしても、ユンゲは後々に悔恨の念に苛まれることは想像に難くない。
全ての可能性を考慮したモモンは、それでも高潔な精神の下に、どのような脅威が待ち受けているかも分からない遺跡にユンゲを伴うことを良しとせずに、先に潜入したワーカーたちを見捨てるという苦渋の決断をせざるを得なかったのだろう。
脳裡に浮かぶ“フォーサイト”の面々を救いたいと思うのなら、ユンゲが自らの言葉で同行を願い出るしかない。
焦燥に駆られるユンゲの喉は、まるで別の生き物のように酷い渇きを訴えてくる。
膝の震えが増しているのか、平衡感覚を失ったように大地が歪んで見えた。
空咳を堪えるように唾を飲み込み、小さく息を吐いて呼吸を整える。
これまでに経験したことのないほどの極度の緊張は、現実としての“死”を否応なく意識されられているためなのか。
遺跡中央の大霊廟を守護する巨躯の戦士の構える巨大な剣が、脳天から振り下ろされるような悪寒に、自身の背が小さく震えるのが分かった。
それでも、ユンゲには声にしなければならない言葉があるはずだった。
躊躇いながらも一歩を踏み出した足が、青々とした丈の長い草に捉われ、ユンゲは前方へと蹌踉けてしまう。
「――っ、大丈夫ですか?」
咄嗟にユンゲの手首を引いて支えてくれたマリーが、驚いたように声を上げた。
声が震えないようにと絞りながら小さく「大丈夫だ」と返し、ユンゲは再び足を踏み出そうとして――、その場に静止する。
訝るように向けた視線の先、マリーの白く細い指先はユンゲの袖口を掴んだままだった。
上目遣いに見つめてくる、澄んだ湖面のような碧の眼差し。万感では片付けられない様々な感情が渦巻く瞳の中にあって、なお色濃く映し出されるのは暗い不安の翳り――短杖を握り締める、もう一方の手が込められた力のために赤く滲んでいた。
眩しいほどの日差しが、じりじりと肌を焦がすように照りつける。
自らの行為を恥じるように視線が伏せられ、ユンゲの袖口を解放すると鼻腔をくすぐる甘い香りが遠ざかっていく。
サイドで括られた艶やかな金髪を萎れるように俯向くマリーの姿を前に、ユンゲは力なくかぶりを振り、口を噤むことしかできなかった。
やがて、意を決した“スクリーミング・ウィップ”のリーダーが、モモンの言葉に賛意を伝えたことで、ベースキャンプの解体と冒険者たちの撤退は決定事項となった。
ユンゲにも“深読み”スキルは標準装備です。