――かつて、ユグドラシルに数多の悪名を轟かせた“最凶”のギルド、アインズ・ウール・ゴウンの本拠にして、栄光あるナザリック地下大墳墓の第九階層に位置するのが、『ロイヤルスイート』である。
そこは第一階層から第八階層までの拠点防衛に主眼を置かれたエリアとは異なり、その華やかな呼び名から表されるように絢爛たる居住用の空間として整備されている階層だった。
磨き上げられた大理石の広い通路が伸び、見上げるほどに高い天井からは煌々と灯された豪奢なシャンデリアの眩い輝き――際限のない贅を尽くしながらも決して厭味はなく、洗練された白亜の巨城を思わせる荘厳さを併せ持つ完璧なる調和の世界。
この高貴なる場に身を置けば、“至高”と謳われた御方々の偉大さが染み入るばかりだった。
そして、ギルドメンバーやNPCの私室を始めとして、客間や応接室、円卓の間といった議場のほかにも食堂や大浴場、美容院やエステサロンといった多種多様な厚生施設が常時稼働する階層の一角に、慎ましく設けられた“ギルド長”モモンガの私室が存在している。
主人が作戦実行のために不在であり、現在は“守護者統括”アルベドの執務室としても機能する一室に赴いたルプスレギナ・ベータは、城塞都市〈エ・ランテル〉の貴賓館にて、“要警戒対象”であるユンゲ・ブレッターと交わした対話の顛末を報告していた。
「……とのことっすね」
密かに書き留めていたメモを読み上げながら最後の返答を説明し終えたとき、不意に人狼〈ワーウルフ〉としての優れた聴覚が小さく息を呑む気配を捉えていた。
やや訝るように視線を持ち上げれば、膨大な書類の束が積まれた執務机の向こうに、玲瓏と澄ましたアルベドの立ち姿。
――しかし、その縦に割れた黄金の瞳孔が驚きと微かな怯えの色を浮かべていた。
至高の四十一人を除いて、ナザリックに所属するNPCとしては最高位の役職を与えられたはずのアルベドから発せられた意外な反応を見遣り、ルプスレギナは内心で小首を傾げる。
(確かに、以前の話し合いで検討されなかった意見ではあるけれど……)
アルベドを始めとしたナザリック指折りの知恵者たちをして挙げられなかった点に驚きはあっても、怯えるような理由には思い至らない。
「そ、その……あの半森妖精〈ハーフエルフ〉と話した内容は以上なんすけど、大丈夫ですか?」
「――っ、ご苦労様でした。何でもないわよ、ルプスレギナ」
また何かあれば報告をお願いね、と言葉を続けたアルベドの硬直は僅かな間だけ――いつもと変わらない優雅な微笑みを浮かべてみせる様は、真に偉大なる“魔導王”アインズ・ウール・ゴウンより絶大な信頼を置かれ、不在時の全権限を預かるに相応しい統率者の振る舞いであった。
「――はっ、かしこまりました」
胸の内から疑念を払い、ルプスレギナは慇懃な礼を返して部屋を辞する。
執務机の上に積み上げられている膨大な書類の束を思えば、ここに長居をして重要な職務を滞らせる真似はできなかった。
時折、至高の御方に対する態度として些か不敬ではないか、とルプスレギナが危惧を抱いてしまうほどの偏愛と執着を隠さないアルベドではあったが、彼女にそうした想いを与えたのも、ナザリックの支配者たるアインズの意思に他ならない。
その恵まれた待遇を目の当たりにすれば、後から撤回はされたものの、「失望した」とまで告げられてしまった自身の立場に照らして羨むことは、あまりにも愚かしい考えだろう。
「……それにしても、アイツは意外と使える奴なんすかね?」
小さな胸の疼きを敢えて無視するように、ルプスレギナは独り言を呟いてみた。
神算鬼謀のアインズが自ら“漆黒”のモモンというアンダーカバーを利用して接触を図り、魔導王像の建設計画に関するデメリットの一件においては、あのアルベドを僅かでも動揺させた存在だ。
何度か直接に相対してみた印象では、優柔不断で軽い色仕掛けにも嵌りそうな情けない相手としか思えず、多少は頑丈なおもちゃが増えた程度の認識しか覚えられないほどだった。
もっとも、至高の御方である“創造主”獣王メコン川より与えられた完璧な美貌をもってすれば、それらも至極当然の反応ではあるのだろうが――、
「まぁ、考えても仕方ないかしら」
以前に大きな失態を演じてしまった身としては、何よりも与えられた職務を愚直に完遂していくことで挽回するしか道はないだろう。
こぼれかけた溜め息を堪えて、ルプスレギナは無理矢理に思考を切り替える。
「……さーてと、今は私のドッペルゲンガーが活躍してくれることを祈るだけっすかね」
この後は久しぶりに“プレイアデス”が姉妹全員で集まり、ローブル聖王国を舞台とした模擬戦の経過を見守る予定になっていた。
残虐なる“魔皇”ヤルダバオトに仕えるメイド悪魔として、どれだけの活躍ができるのか。
その戦いでMVPに選ばれたのなら、褒美として次の作戦に参加することができるらしいので、応援にも力が入るというものだ。
「――ぜひ、頑張って欲しいっすねー」
*
退室するルプスレギナの後ろ姿を見送り、アルベドは喉の渇きを覚えるほどの焦燥に駆られていた。
思考が暗霧に覆われていくように、その先の言語化を拒否しているのかも知れない。
ルプスレギナが持ち帰った報告の殆どは取るに足らない――いや、魔導王の巨大な像が“都市の景観を損ねる”などという愚かな意見には、血管が捻じ切れそうなほどの殺意しか沸かないものの、ただ一つだけ無視することのできない視点があった。
――偉い人たちの像は、その功績や面影を偲んで死後に製作されるイメージなんですよね。
下等生物の妄言だ、と切り捨てることは容易い。
更に付け加えるのであれば、これまでの度重なる不遜な言動の数々を鑑み、決して許されざる存在になっているユンゲ・ブレッターを独断でも抹殺するべきだとさえ思う。
「……でも、死後に製作されるもの?」
ふと口にしてしまえば、アルベドの脳裡に怖れの感情が紡がれていく。
先ほどの報告において、「アインズ様が死ぬはずないっすよね?」とルプスレギナが苦笑いしていたように、寿命のない不死者〈アンデッド〉であるアインズが物理的に死ぬことはあり得ない。
しかしながら、そうした視点の裏を返せば、アインズが顕在であるのなら“像は必要ない”という結論にも繋がってしまうのではないか。
(万が一にも、アインズ様が同様の考えをお持ちなのだとしたら……)
あまりにも“都合の良い解釈”となっているのかも知れない――が、それはナザリックに所属する全てのNPCにとって何にも勝るはずの悲願であり、同時にアルベド自身の失態を浮き彫りとする残酷な真実にもなってしまう。
ルプスレギナの報告を受けながら真っ先に思い起こされたのは、以前に宝物殿の最奥で目にした光景だった。
ナザリック地下大墳墓において、最も厳重な警戒が敷かれているその場所に、アルベドが足を踏み入れた機会は一度だけ――何者かによって操られ、叛旗を翻した“鮮血の戦乙女”シャルティア・ブラッドフォールンとの決戦を前にしたときのことだ。
悲壮な決意とともに「私がシャルティアを殺す」と宣言したアインズは、相性差からの圧倒的な不利を覆すために、引退するギルドメンバーから託された神級装備を必要とした。
そして、自らの“黒歴史”に身悶えながらも、アルベドを伴って訪れた最奥の霊廟には『二十』と呼ばれる破格の世界級アイテムとともに、四十体ものアヴァターラが安置されていた。
かつての仲間たちを模して作ったと語るアインズの寂しげな横顔に縋り、アルベドは沈痛を堪えながら問いを投げかけた。
――もしや他の至高の御方は亡くなられたのですか、と。
しかし、アルベドの哀切な問いにも「それは……正確ではない」と言葉は濁されてしまい、その答えがアインズの口から語られることはなかった。
創造主である“至高の御方”のために尽くすことを使命とし、生み出されたはずのアルベドたちNPCを見捨て、ナザリックを去った者たちには一切の未練もない。
ただ気掛かりとなるのは、慈悲深いアインズの御心に居座り続ける忌々しい亡霊たち――それらを未だに払拭させることができない自身の不甲斐なさに憤るばかりだった。
そうであるからこそ、アルベドは諸々の危険を承知の上で、ギルドメンバーの捜索を名目とするチームの組織を提言して、“不測の事態”への備えを整えているのだ。
――では、一方で“姿を模した像を作る”というアインズの行為には、どのような意味が込められていたのか。
霊廟にたった一つだけ残されていた“空白の席”を見つめながら、「いつか、ここに私の像が置かれる予定なのだ」と語ってみせた魔導王の心意は、果たしてどこにあったのだろうか。
不意に全身が総毛立つような感覚に襲われ、アルベドは思わずと身震いしてしまう。
自らの献策した“支配都市に魔導王の像を建設する計画”について、五つのデメリットがあると指摘された以降の日々を思い返す。
ナザリックの知恵者である“第七階層守護者”デミウルゴスや宝物殿の“領域守護者”パンドラズ・アクターの力を借りて、それぞれの職務を全うしながらも必死で空き時間を捻出し、様々な視点からの検討会を重ねてきた。
しかし、どれだけの意見を交わしてみても、メリットを打ち消すほどのデメリットにまるで見当はつかなかった。
「……万年先を見据えるアインズ様の前では、我々程度の浅知恵が及ぶはずもありませんね」
そう口惜しさを絞り出したようなデミウルゴスの弱々しい声音が、残響として脳裏を過ぎる。
畏敬と陶酔と忸怩たる感情が鬩ぎ合うように繰り返され、アルベドは下唇を強く噛み締めた。
そうして、少しの光明も見出せないままに半ば諦めのような思いで、ルプスレギナを送り出した結果が今回の報告である。
要警戒の対象である“もう一人のプレイヤー”、ユンゲ・ブレッターから得られた新たな視点――嗚咽を堪えながら検討するほどに、アルベドの胸の内から湧き上がるのは恐怖だった。
「……デミウルゴスやパンドラズ・アクターに申し訳ないわね。この失態は、私だけの責任に留めていただかなければ――」
自嘲とともに吐き捨て、アルベドは肩を落とす。
ナザリック地下大墳墓の最下層、宝物殿の最奥に存在する霊廟――あの場所に足を踏み入れたことがあるNPCはアルベドだけであり、多くの者は存在さえも知らないことだろう。
アルベドとともに宝物殿まで同行していたユリ・アルファは、セキュリティ対策のためにリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを預かり、霊廟外での待機を命じられていた。
あの場に居合わせた“領域守護者”のパンドラズ・アクターでさえも、霊廟には立ち入っていない。
詰まるところ、あの光景を実際に目撃していないデミウルゴスたちでは、アインズの心遣いを汲むことは絶対に不可能だったのだ。
「……私だけが、気付かなければいけなかった」
この地を去らないと約束してはいただけないのですか、と決戦を前にしたアインズに縋りついた羞恥が蘇り、「いつまでも私たちの上に君臨していただけますよう、お願い申し上げます」などと懇願していた自らの振る舞いが、酷く滑稽で烏滸がましいものに思えてしまう。
――必罰により、自死をもって詫びるしかない。
出口のない迷路を彷徨いながら、アルベドの思考は深い闇の中へと沈んでいく。
しかし、折に触れて何度となく言明されてきたように、慈悲深いアインズは配下であるNPCの死を決して望まないだろう。
叛逆という取り返しのつかない愚挙を犯し、それでも死を賜ることのできなかったシャルティアの苦悩する姿が思い起こされた。
ナザリックにおいて“死が救い”であるのなら、自死によって責任を果たすことはできない。
そして、今回は失態の事実をアルベドに悟らせないために、アインズは“五つのデメリット”などという優しくも残酷な嘘で欺き、覆い隠そうとまでしてくれているのだ。
最早、厚顔無恥というのも甚だしいばかりではあるのだが――、
「せめて、愚者は愚者らしく……全てに気付かないままで、道化として振る舞うしかなさそうね」
小さく息を吐き、アルベドは膝から崩れ落ちるように腰を下ろした。
そうして、背凭れに倒れ込んでしまいたい誘惑を振り払いながら、山積みとなっていた書類の束を手元へと引き寄せる。
現在も遠い異国の地で重要な作戦を遂行中であるアインズには、決して迷惑をかけられない。
不在の主人に代わり、ナザリック地下大墳墓とアインズ・ウール・ゴウン魔導国の全権にかかる職務に励むことでしか、この失態を取り戻すことはできないだろう。
「……っ、これほどの惨めさに駆られるなんてね」
普段は歪み合うばかりのシャルティアとも、今なら良い酒が酌み交わせるのかも知れない。
ふと自嘲めいた感情を抱きながら、アルベドは椅子に深く腰かけ直した。
*
「――っ、はぁあああああ……」
安酒場のテーブルに突っ伏し、ユンゲは盛大な溜め息をこぼした。
胃の腑から迫り上がってくるような不快感は、決して酒精のせいではない。
昼過ぎから極大のストレスに晒され続けて、心と身体が悲鳴を上げているのだろう。
メーデー、と大声で叫びながら街中を駆け回っても、今ならギリギリで許されるのではないか。
「……ユンゲさん、以前よりもお疲れですね」
やおらと顔を持ち上げてみれば、向かいの席に着いたマリーが心配そうにこちらを覗き込んでいる。
前回はバハルス帝国の“鮮血帝”ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスからの呼び出しであり、相当な緊張状態を強いられたのも事実ではあるのだが――、
「そうだな……確かに、今回の方がキツかったよ」
本気で一緒に来て欲しかった、と情けなくも弱音を吐きつつ、ユンゲは苦笑いに肩を竦めた。
魔導国所属の冒険者チームとして厚遇されているものの、これほどに厄介な呼び出しばかりが続いてしまうのであれば、本格的にエ・ランテルからの拠点変更を検討したくなるものだ。
もっとも、他都市の当てとしては帝都〈アーウィンタール〉くらいなので、あの陰険な皇帝や厚かましい大闘技場の興行主といった顔触れを思い浮かべると大差はないのだろう。
手近にあったエールのジョッキを傾け、再びこぼれかけた溜め息とともに喉奥へと流し込む。
「……気晴らしに、どっか遠出でもしようか?」
「ふふっ、お付き合いしますよ」
軽やかに微笑んでくれたマリーを見遣り、ユンゲは少しだけ口許を緩めるのだった。
――ということで、「像の建設中止=アインズ様がナザリックを去らない意思表示」として解釈される結果になりました。
アルベドのケアは丸投げですが、今後も巨大な像の建設は見送られることになりますので、アインズ様としても悪くない落とし所になったはず……。