真新しい服に袖を通し、緊張した面持ちのままに全身を映せる姿見鏡へと振り返る。
そうして、おずおずと足下から鏡を覗き込んでみれば、ふと張り詰めていた気が抜けるようにマリーの口端からは、安堵の吐息がこぼれていた。
無意識に緩んでしまう表情を何とかしたいと指先で触れてみるものの、どうにも思い通りにはなってくれそうにない。
締まりのない自らの顔に内心で呆れながらも、今だけは仕方がないのかと諦めてしまう。
望まない虜囚の身となり、“奴隷の証”として半ばから切り取られてしまったはずの耳と、碌な手入れもできずにいた艶のないざんばら髪――惨めな記憶の残滓が、すっかりと“元通り”になっていた。
森妖精〈エルフ〉の特徴である長い耳がピョンと立ち、怖々と指先で梳いてみたのなら、鮮やかな金髪には絹のような滑らかな手触りが感じられる。
「……ふふっ、本当に夢みたい」
思わずとこぼれてしまう微笑みのままに、肩ほどで切り揃えられた髪の一房を纏め上げて、耳許へとかかるくらいの高さで括っていく。
不意に踊り出したくなるほどの軽やかな気持ちに任せて、その場でくるりと一回転。ふわりと持ち上がったローブの裾から覗いた太腿も、健康的な白さを取り戻していた。
魔法の力とは、かくも偉大なものかと思い知らされる一方で、マリーが覚えている程度の第二位階までの信仰系魔法では、これほどに劇的な効果を望むことはできないだろう。
全身に負っていた打ち身や擦り傷の治癒ならば理解はできたものの、既に“負傷”としては癒えていたはずの耳や、短く刈られてしまった髪さえも昔と変わらない――故郷の“エイヴァーシャー大森林”での戦争に駆り出される以前の状態にまで、回復してしまう魔法の存在は聞いたことさえなかった。
その驚きを受け止め切れず、マリーは未だに夢見心地な気分から抜け出すことができないのだ。
(……ユンゲさんが取り出した治癒魔法のスクロール、とっても高そうだったよね)
これまでに経験がないほどの、神々しい輝き――あの精緻な装飾を施されたスクロールには、信じられないような高位の治癒魔法が封じられていたことだけは間違いないはずだった。
(……私たちのために、使わせちゃった)
胸の内から込み上げてくるのは、奴隷として過ごした日々に培われた卑屈な罪悪感――それでも、目の前で起きた“奇跡”を思い返すと身体が熱くなり、言葉にできないほどの万感の想いが、マリーの中で憧憬へと置き換えられていく。
*
エルヤー・ウズルスは最悪の性格破綻者であったものの、残念ながら剣士としての腕だけは立ち、大闘技場での不敗を誇っていた。
虜囚の身から奴隷として売られるまでの過程で、僅かな反抗心さえも奪われてしまったマリーたちには、元より歯向かうほどの気力はない。
しかし、たとえ抵抗を試みたところで、エルヤーとの間には圧倒的な実力差が存在していたのだ。
その覆すことのできない事実は重い枷となって、マリーたちの心と身体を蝕み続けていた。
いつ終わるとも知れない嘲罵や苛虐、苦痛を与えられるばかりの凌辱が繰り返される日々の中、偶然にも街中で出会った同族――年若い半森妖精〈ハーフエルフ〉のユンゲ・ブレッターが、こちらの置かれている境遇を察して、エルヤーに無謀な賭け試合の勝負を挑んでしまう。
誰もが素通りをする場面で、立ち止まってくれた驚きと喜び――しかし、決して拭うことのできない恐怖が全てを覆い尽くしていく。
嗜虐心の強いエルヤーの気性は、身をもって理解させられていたからこそ、試合での降参を認められないままに、ユンゲが命を奪われてしまうかも知れないと心が悲鳴を上げていた。
無関係な青年を巻き込んではいけないと考えながらも、恐怖に怯える身体は震えるばからであり、マリーは無事を祈ることしかできなかった。
結局、その不安が的外れであったことは明らかになるのだが、剣技だけはアダマンタイト級に迫るとまで噂されたエルヤーが、あっさりと敗北する姿は想像すらしていなかった。
そうして、あまりにも呆気なく戦いを終わらせたユンゲは軽やかに空を舞い、目の前に現れた。
傍らの台座に置かれているバスタードソードに、ユンゲの手が伸ばされたかと思えば、次の瞬間には目にも映らない早業で首枷が斬り払われていた。
――頑張ったな、これで君たちは自由の身だ。良かったら、俺に君たちの名前を教えてくれないか?
突然の出来事に理解が追いつかず、呆然としていたマリーたちへの配慮なのだろう。
どこかぎこちない笑顔を浮かべながら、紡がれた優しい声音が凍てついた心の奥底を温めてくれる。
これまでの奴隷として過ごした日々は、どこまでも“モノ”として扱われるばかりであり、気遣いの言葉をかけてもらった記憶はない。
抑えていたはずの思いが心の堤を越えてしまい、堪え切れない感情の奔流が涙に変われば、もう止めることもできないままに流れ出しいく。
そうした反応はマリーばかりでなく、境遇をともにしてきたキーファやリンダも同様であった。
結果として良い年齢をしたエルフたちが、まるで生娘のように泣き始めてしまう情けない状況だ。
何か悪いことを尋ねてしまったのか、と精悍な顔立ちを酷く狼狽させるユンゲを前にして、誤解だと告げようとしても、涙が後から後から堰を切ったように溢れてしまうと訂正もできなかった。
ようやくと事態を落ち着けられたのは、とても超級の戦士とは思えないほどに慌てふためくユンゲの姿を見遣り、思わずと吹き出してしまったときのこと――どこか憮然とした苦笑いを向けられ、マリーは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
しかし、気を取り直したユンゲが魔法のスクロールでマリーたちに治療を施しつつ、ぽつりと呟いた台詞は“何か悪いこと”の典型例なのかも知れない。
「……とりあえず、服を何とかしないとなぁ」
何気ない一言に気付かされ、ハッと顔を持ち上げたマリーは、キーファとリンダに目配せを交わす。
奴隷として過ごしていた日々に、身なりを気を使う余裕はなかった。
請負人〈ワーカー〉の依頼報酬にしても、全てはエルヤーが独占していたために、マリーたちが自由に使える資金があるはずもない。
動揺の渦中で大闘技場の観衆たちから向けられる視線が、途端に気掛かりとなった。
当然ながら観客が注目しているのは、不敗を誇っていたエルヤーを打ち破り、圧倒的な勝利を見せつけた新進気鋭のユンゲなのだろう。
それでも、視界の端に見窄らしい姿を晒している状況に気付かされてしまうと、マリーは羞恥を覚えずにはいられなくなった。
「わ、悪い……すぐに場所を変えよう!」
こちらの焦った表情から、すぐに自身の失言を悟ってくれたユンゲの提案を受けて、マリーたちは足早に大闘技場を後にするのだった。
*
姿見鏡の前に佇むマリーは、仕立ての良いローブの裾を摘まみながら思案に暮れていた。
金貨や銀貨の詰まった革袋をあっさりと預けてしまうユンゲの人柄を思えば、「あぶく銭だから構わない」という言葉も真実なのだろう。
それでも、決して気軽に扱えるような金額ではないはずだった。
どうにかして恩に報いたいと考えてみるものの、今の自分たちには何ができるのだろうか。
(えっと……ユンゲさん、冒険者だよね?)
首許のプレートは、銀級〈シルバー〉の冒険者であることを示していた。
実際に戦う姿を目撃した身としては、とても信じられないのだが――、
(チームは組まれていないのかな?)
一般的な冒険者は連携面の都合もあり、近しい実力の者同士でチームを組むことが多いので、突出した実力者のユンゲは、パーティメンバーを集めることに苦労しているのかも知れない。
役に立ちたいとは思う――けれど、エルヤーとの賭け試合での凄まじい技量を鑑みれば、森祭司〈ドルイド〉の才能を持つマリーであっても、足を引っ張ることしかできそうになかった。
最も分かりやすい恩返しは金銭になるはずなのだが、新しい衣服を揃えるための費用さえも、ユンゲから借りている状況では論外だろう。
「好みの服を選んで良いよ。俺からのプレゼントだから、返してもらう必要はないさ」などと気楽な口調で告げられてしまったばかりで、マリーは思わずと溜め息がこぼれる。
(……せめて、もうちょっとあればなぁ)
何一つとして名案か浮かばないマリーは、姿見鏡に映る自らの薄い身体を見下ろした。
高揚していたはずの気持ちが、どうしても萎えてしまうのを抑えられず、言い訳めいた考えばかりが脳裡を過ぎる――と、
「ねぇ、この服どうかな……変じゃないかな?」
不意の呼びかけが、どんよりとした思考の淵へと沈みかけていたマリーの耳朶を震わせる。
不安そうな少女の声音に振り返れば、新しい衣服に身を包んだキーファが、どこか緊張に顔を強張らせながら、こちらの様子を窺っていた。
綺麗な紫色の眼差しは戸惑いを孕み、栗色の髪を後ろ手にまとめたポニーテールが揺れる。
白地のシャツに革製の短外套、太腿のかなり上部まで切り詰めたジーンズパンツに、胸部や関節部を保護する軽装の防具を着けたエルフの少女――肌の露出度という点では、奴隷時代の布切れと大差がないように見えるものの、野伏〈レンジャー〉であるキーファは動きやすさを重視したのだろう。
故郷で過ごしていた頃、本来は快活な性格であったキーファらしい服装選びのセンスに思えた。
「――うん、とっても似合ってるよ!」
「そうだな、キーファっぽくて良いんじゃないか」
マリーが素直な感想を口にすると、奥の部屋から姿を現したリンダも微笑みながら同意してくれる。
神官〈クレリック〉でありながら、高い身体能力を活かした前衛を担うことのできるリンダは、露出の少ないタイトな聖職衣に身を包んでいた。
マリーよりも頭二つ分は背が高く、スラリとしたスタイルを強調する黒を基調とした装いと腰まで伸びた長い銀髪とのコントラストが美しく、洗練された彼女の振る舞いにも良く似合っている。
「二人とも、ありがとー!」
少しばかり照れた様子で笑みを浮かべるキーファを横目に、マリーは静かに姿見鏡へと向き直った。
膝丈ほどの藍色のローブに、貂をあしらった灰色のケープといった落ち着いた組み合わせだが――、
(ちょっと地味なのかな、もう少し裾は短いほうが可愛いらしく見えるのかも……)
そうして、ふと取り留めのない考えを巡らせていることに気付けば、何か不思議な感覚があった。
数日前とならず、今朝を思い返してみても、一切と想像が及ばない劇的な境遇の変化であった。
奴隷として使い潰されるのを待つだけの日々は過酷であり、救い出してくれたユンゲへの感謝の念はどれほどに抱いても足りないくらいなのだ。
互いの服装について意見を交わしているキーファとリンダを意識から外しつつ、ローブの裾を摘まみ上げたままでマリーは黙考に耽る。
――もしも、求められる局面があれば、拒むことは難しいのかも知れない。
心と身体に刻みつけられた恐怖は拭えておらず、やはり身震いをしてしまうほどであったが、それは不快な感情を覚えたからではない。
僅かでも感謝の気持ちを伝えられるのなら、そうした方法も悪くはないと考えてしまう。
それでも、あれほどに優秀な人物を周囲の人々が避けるはずもなく、相手に困ることはない。
そして、キーファやリンダの艶姿を思い返せば、ユンゲが相当な悪癖の持ち主でない限りは、敢えてマリーを選んでくれることもないだろう。
また一つと大きな溜め息をこぼしたマリーは、無意識の内に短杖を握り締めて、鏡の中に映る自身の姿を見つめ続けていた。
*
「おぉー、三人とも良く似合ってるよ。馬子にも衣装、って綺麗な感じだな!」
新しい衣服に着替えたマリーたちを出迎えたユンゲは、開口一番に不思議な台詞を言い放った。
それは褒められているのか、とマリーは疑問符を浮かべがらも、一切の悪気もなさそうな笑顔を向けられてしまったのなら、お手上げだった。
小さく肩を落とすマリーの傍ら、年長者のリンダが進み出ていき、「ありがとうございます。ブレッター様のお心遣いに、大変感謝しております」と丁寧な言葉遣いで告げて頭を下げる。
「あぁ、いや……気にしないで良いよ。俺が勝手にやったことだからさ」
続けて御礼を伝えようとしたマリーとキーファの動きに、軽く手を払って制してしまうユンゲは、どこか居心地が悪そうに肩を竦めてみせた。
「とりあえず、“様”付けで呼ばれるのは恥ずかしいから、なしでお願い! ついでに冒険者組合だと、ユンゲで通っているから、皆も気軽に『ユンゲ』と呼んでもらえると嬉しいかな」
「左様ですか。しかし、恩人をそのような呼び捨てにする訳には……」
「いやいや、別に構わないよ! “様”付けで呼ばれるほどの大層な男じゃないから、本当に!」
「いえ、あれほどの実力をお持ちの方を――」
ユンゲとリンダの間で交わされる遣り取りを聞き流しつつ、マリーは顔を伏せた。
三人の中では最年長となり、会話も上手なリンダに代表してもらうべきだと理解しつつも、何か胸の内に閊えるような感覚が抜けてくれない。
(……何でだろう。今の私、絶対に変だ)
やがて、双方で折り合いがついたのか、ユンゲが別の話題を持ち出した。
「――ところで、明日にも帝都を発とうと思っているんだけど、皆はどうしたい? どこかに帰りたい場所があれば、俺が送っていくよ」
柔らかなユンゲの気遣いを受けて、マリーたちは顔を見合わせながらも、言葉に詰まってしまう。
奴隷の身から解放されたのなら、辛い記憶しかないバハルス帝国に留まり続ける理由はなく、故郷の“エイヴァーシャー大森林”を目指すべきだろう。
しかしながら、森妖精の王国は隣接するスレイン法国との戦争状態に置かれている。
かつては協力関係にあったとされる両国家であっても、マリーたちが生まれるよりも以前に交流は絶たれ、現在まで武力衝突が繰り返されてきた。
そうした戦況は故郷が劣勢のままに推移しているはずなので、本来であれば急いで帰還して参戦することが、臣民としての務めなのかも知れない。
それでも、あの戦場に再び立つ場面を想像したマリーは、身体が震え出すのを止められなかった。
望まない戦争に放り込まれて、敗れて虜囚の身となり、凄惨に過ぎる苦痛が心と身体に刻まれた。
奴隷の境遇に苛まれ続けた悪夢の日々に、全身が逆立つような寒気に襲われる。
突然、ぐにゃりと足下の地面が沈み込んだかのような感覚――膝から力が抜けてしまい、その場で崩れ落ちそうになるのをマリーは必死に堪えた。
この青年の前で、もう無様な姿は見せたくない。
そうした一縷の願いさえも、潰えてしまいそうな瞬間――不意の力強い温かさの中で、マリーの身体は抱き留められていた。
おずおずと見上げた視線の先には、優しげなハーフエルフの青年の笑顔。
頬を伝っていく一筋の涙を拭うことも忘れて、マリーは陶然とその蒼い眼差しを見つめた。
「うーん、君も頼れる場所はなさそうなのかな……じゃあ、俺と一緒だな」
気楽な口調で言い放ってみせるユンゲを間近にして、マリーは答えるべき言葉を見失ってしまう。
「君たちもそうかな? ……なら、俺と一緒に探してみないか、この世界も広いだろうからな」
傍らのキーファやリンダに声をかけながら、「今度は全部の世界を見て回りたいんだ。もしかしたらさ、まだ誰も知らない素敵な場所があるかも、って考えるとワクワクするよな!」と高らかなユンゲの言葉が続けられていく。
ぼんやりとして上手く働いてくれない頭を必死に回転させてはみるものの、その不思議な発言の意図することをマリーは理解できない。
――それでも、楽しそうに笑ってみせるユンゲの横顔が、マリーにはとても眩しく映るのだった。
初めての作品投稿前にぼんやりと考えていたのは、このエピソードまでになります。
ユンゲが旅の仲間を見つけたところで、“冒険はこれからだ”的なエンドで終わることを考えていたのですが、思っていた以上に多くのお気に入り登録やご感想をいただけたことが嬉しかったので、調子に乗って物語を続けることにしました。
今後の投稿は先の展開を考えていないこともあり、更に遅くなってしまうかも知れませんが、それでも大丈夫というお優しい方は、のんびりお付き合いをいただけると幸いです。