記憶を失くした迷子の物語   作:白昼霧

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この作品に目を向けてくださった皆様に感謝します。


第一章
第一話 迷い犬


 ───何も、分からない。

 

 

 何も見えない、何も聞こえない。

 右も左も分からない、視界が完全に封じられた暗闇の世界で、少年は一人、迷子になっていた。

 

 恐ろしい。この世界で初めて得た感慨は恐怖だった。

 何が恐ろしい? …わからない。わからないことが、とても恐ろしい。何か大事なものを忘れてしまうことが恐ろしい。

 

 ここには、誰もいない。俺の記憶には誰もいない。ひとりぼっち。

 中空に見えない紐につるされているようだ。俺の体から、また一つ何かが落ちて行った。あれはなんだったんだろうか。わからない。

 

 たくさんの大切なものが抜け落ちて、空っぽになった抜け殻は考える。自分はいったい、何を考えているのか、何を希望んでいるのか、何を恐れ、何を好み、何を捜しているのか。

 

 分からない。理解できない。知らない。そんな人間は知らない。こんな世界は知らない。

 

 

「俺は──誰だ?」

 

 

 その言葉を最後に、少年はぽちゃん、と大げさな音を立てて水の中に落ちてしまった。

何にもない、すっかり軽くなった体は、なんでもない日常の喧騒に溶け込んでいった。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 また、同じ夢を見た。何度見ても寝覚めの悪い夢だ、と思う。

 人通りの多い町中の生臭い路地裏で、転がる桶を椅子にして、煤汚れた空を仰ぐ。雲は見渡す限り一つない、どこまでも青の広がる快晴だ。もっとも、ここでは見渡すほどもない狭い天井だが。

 

 その行為にはこれといった意味もなく、ただ、いい天気だな、そう思った。

 しかし、空は何故だがとても大きく寛容なものに見えて、すべてを包み込み、自分の存在を洗ってくれるような気がして。そんな心地よい感慨に浸りながら、

 

 

「やっべー変なやついる!あっちからいこーぜ」

 

 

 ――無垢で無慈悲な言葉のナイフに、心をめった刺しにされる感覚を味わった。

 ここに入り込み、そして少年の姿を見るなり精神をボコボコにして、終いにヤバいものを見る目だけを残して去っていく子供たち。それ意外と傷つくの知らないだろ、君達。

 

 しかし、自分だって立場を違えば同じことをするだろう。誰も君達を責められるものか。

 

(私だってこんな、髪はボサボサで服もボロボロ穴だらけな物乞いみたいな奴いたら逃げる。誰だってそーする……うっ)

 

 なんて、勝手に自分で思っておきながら勝手に傷心する。

 

「俺だって好きでこんなとこで足踏みしてる訳じゃないんだけど、なッ」

 

 たまたま拾ったビー玉を強く握りしめ、目の前の家の木壁にヤケクソにぶん投げる。空を舞うそれにはもれなく負け犬のダサい面が映り込んでいることだろう。

 

 ──放物線を描いたそれは絶壁に衝突。そのまま自分が背を預ける家の壁を駆け、数度鈍い音が響く。コントロールを失ったビー玉はやがて、

 

「ぶべっ」

 

 少年の顔面に衝突するは必至だった。

 桶から転がり落ち、けたたましい音をあげて強打した後頭部にはたんこぶができている事だろう。頭をさすりさすり、不格好な心配をする。

 

「痛って…何だって、こんなことになったんだか」

 

 紛うことなき自爆。言い訳のしようもない自業自得の災厄に好き勝手言い並べておいて、自らの()()()に口を塞がれ悪態を閉ざす。

 

 それは、仕方ないことだった。

 

 何故こんなことになったのか、私はなぜこんなところで、なぜ、なぜ、どうして?

 

 その質問はもう、念仏のように何回も唱え飽きた。

 その答えを一番知りたかったのは、ほかでもない自分自身だったのだ。

 

 

「ッ、はぁ……記憶喪失か、阿呆らしい」

 

 

 *

 

 

 自分がどこからやってきたのか、いや、それよりも自分は誰なのか。

 

「阿呆みたいな話なんだろうけど…なってみるもんだな記憶喪失。本当の阿呆になった気分だ」

 

 汚れた裾の泥を払おうともせず、蒼穹を仰ぎ、溢れた自虐に苦笑しつつ改めて溜息を放つ少年。喧嘩をした訳でもないのに既にボロボロだ。

 

「まったく、何やってんだろうな。俺」

 

 

 

 

 

(───ぇ?)

 

 商店の立ち並んだ人で賑わう街道のど真ん中。彼が目を覚ましたのは、まさにそこだった。

 最初に浮かんだのは勿論、疑問。突如、知らない世界が幕を開け、目新しい景色にキョロキョロと。戸惑いは隠せない。

 そのまま惚けて突っ立っていると、

 

「コラコラ、そこ邪魔だよ、兄ちゃん!」

 

「あんただあんた」と、背後から少年のことを指すであろう注意に体を弾かれる。「俺?」と己に指を指すと、そいつは乱暴に首を縦に曲げた。

 

「ったく、お上りさんはこれだから....こっちは忙しいってのに全く」

 

 機嫌の悪くしたのか、肩に担いだ荷物をガラガラと威嚇する様子の運び屋、であろう大男。一礼そそくさと道を譲り、ようやく私はこの世界での第一歩を踏み出すことになったのだが.....

 

 少年をわざわざ、避けるように通りすぎり過ぎる人々の冷ややかな視線に突き刺されていることに気づいた時には思わず汗が吹き出たものだ。

 

 

「んーと、お祭り?」

 

 立ち並ぶ民家の前には出張って祭囃子を奏でる出店屋台。そして見渡す限りの人、人、人の群れ。いずれにも興味を示す余裕のない少年は、すぐさま埒外へと追いやられてしまった。

 

 その後は、一文無しの少年がどこに立ち寄っても意味は無く、何かを聞こうにも商売の邪魔だなんだと門前払い。あれよあれよと人の群れに揉まれ、乗り物酔い、もとい人酔いしてしまったため一時的に逃げ込んだのがこの路地となる。

 

 ──と、ここまでが一先ずの彼の略歴だが....

 

 いやはや、全くもって醜態しか晒していないな。

 恥に塗れて消えてしまいたい、と、彼は卑しそうに舌打ち。内心は焦燥と羞恥が入り乱れている事だろう。照れ隠しか、頭をバリバリと掻き毟る。

 第一、立ったまま自分事を忘れてしまうとは、いったいどんな状況なのだろうか。

 

(いっそのこと馬鹿になっちまった方が楽だった気もするが、あいにく頭ははっきりしてる。)

 

 気がつけばまた自虐。奇妙さ一周回って逆に興味が湧いてくる。

 

 しかし、いつまでもこうもしていられない。と、ある程度の頭の整理が済むとら少年は固まった頭を解しつつ、思考へ歩みを進める。

 

「──そういやあのおっちゃん、お上りさんっつったよな....つまりここは」

 

 となれば、場所は都。という言い回しは大袈裟のものとしても、さしずめ商業の中心区、発展途上都市、といったところなのは確かだろう。この人口密集区に目を落として心中推理を確信する。

 そしてあたりを物珍しそうな顔で街を見ていた少年の間抜け顔を足せば、典型的なお上りさんの完成だ。

 

「しっかし、見えないところってのは汚れてるな、どうも」

 

 ちらり横目で流れる空気を見て、わかったような態度で、気づけばそんな悪態をついていた。

 陽の光が僅かに差し込むこの路地は、適当に投げ捨てられた生活ゴミや、野良の名を冠する動物たちの溜まり場だ。そしてそれらの餌になっているであろう鼠含め小動物がチチチと脇をすり抜けていく。立ち上る悪臭は迷惑通り越してもはや害悪だ。

 

「まるきりゴミなことこの上なし。どうすっかな」

 

 Y自問自答で再び傷心、脆いハートだ。心臓を押さえ込み倒れるポーズ、しかしそれを回収してくれる人は誰もいない。また一つ、少年の恥に刻まれていく。

 

「いや、馬鹿なことやってないで、なんか考えないと本格的にヤバいやつ」

 

 どれだけ願っても、時は無情に等しく流れ続ける。ここに飛ばされた?のが日の傾き具合で昼過ぎだとすれば、もうかなり傾いてしまっただろうか。

 しかしどれだけ苦心しても、故郷はおろか己の名前すら思い出せない人間とあっては笑われてしまう。

 逃げ込めるような場所はあらず。取るべき行動はわからない。

 

「金なし、知識なし、常識なし」

 

 忘れているのは、あくまで自分に関する情報だけ、と。

 また一つ、ホワイトボードに貼り付けられる理解が増えるのがいいにしても、やはり肝心な"どうすべき"かは分からない。

 

「夜冷えも怖い。今恐れるべきは無為な時間経過ってところか」

 

 ピラピラ薄着の裾をひらつかせ、今後を危惧すると野宿も厳しそうだ。

 本格的に先が見えなくなり少年は頭を抱えて座り込む。

 

 そうこうしている間にも、街道からの視線に心を抉られる。

 

「思い切りのいい奴だと、次打は犯罪。思いつく限りだと物盗りってところか」

 

 顔を上げ、チラチラとこちらを覗く人間様を睨み返して少年の心にも魔がさし始める。

 

 ───そんな時だった。()()現れたのは。

 

 

「──なにかお困りかしら?迷い犬、くん?」




※5/12 序章消去につき前書き追加
※9/23 前書き編集
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