「──っ」
突如耳元で響いた女声。反射的に胴体を約90度に振り返り──
「誰も、いねぇ…」
少年が背後を確認すると、声の主らしき人物は見当たらなかった。
思わず握りしめた拳の力を抜いて、力んだ全身が脱力感をあげる。
「な、んだ今の…幻聴か?」
気休め程度に自虐含めて心を宥めようと徹する。
しかし、額には滑り落ちていく大粒の汗。内心は全く落ち着いていない。
(なにかお困りかしら?)
想起すると脳内でぐわんぐわんと響く特徴的な、妖艶もとい気味が悪い女声。悪寒が全身を包み込む。背に腕を回し、身震いする。
「幻聴にしちゃぁ出来すぎだけど、疲れてんだなきっと!そう…きっと……」
威勢を張り、喉をついて出たその声は、震えていた。
信じたくはない。信じたくはない、が。
耳元にかすかに残る、吐息をかけられた感覚。人の温もりを持ったそれは間違いなく本物だろう。
少年は、今のが幻聴ではないと、しっかりと確信していた。確信させられていた。
あたりを見回し、やはり人の気は無いことを確認。大きく深呼吸し、
「…ああ、
独り言のようにか細いそれは、喧騒に呑まれてすぐに消えてしまうほどのものだった。少年も、それを期待してのことだった。
───しかし
「ふーん。素直なのはいい事ね。強情なのよりはずっといいわ」
「!?」
座り込んで膝の上で手を組んだ状態だった少年。頭を下に向けて、嘆きを誰にも聞かれないようにと思ってのことだったが。
静かに頭を撫でられた。そんな感覚が頭皮から伝わり、再び反射で顔を持ち上げると──おかしな形の傘をさし、陽を遮り手を口に当てて笑う女性の姿がそこにはあった。
*
「て、めっ……一体、今、何処から!?いや待てよ、その声、さっきのっ」
「取り敢えず落ち着きなさい、あなた今何言ってるかわかんないから。深呼吸、深呼吸」
そうは言われても。
混乱した頭を支えることは難しく、言われた通りに深呼吸なんか呑気にしてる気にもならない。
「さっきの、声のヤツか?」
ようやく驚心を押さえ込み、そして一番の疑問をぶつけていった。
実際、相対して声を聞けばそれはもはや確信にも近いのだが、
「ええ、そうよ」
「――――」
あんまりにあっさり認められると、こうやって張った気も拍子抜けというものだ。さらりと金の髪を指で梳くその様子に、想像していた不気味さは感じられない。
「にしても、そんなに驚いてくれるなんて嬉しいわ、最近誰も相手にしてくれないから。わざわざこんなところまで出向いた甲斐が有るってものよ」
正体不明の彼女は、その藍色気味の眼を不気味に光らせる。しかし、どこか嬉しさを隠し切れずにいるのは何故だろうか。
(しっかし、雨も降ってねぇのに、日焼けでも気にしてんのか?)
「そんなに傘、ジロジロ見られても困るのだけれども。何か気になることでも?」
「いんや、んで?アンタどっから?てか誰、何の用」
「えっ、なに?急に冷たいわね。さっきまでの混乱ぶりはどこ行ったのよ?」
「知るかよ、勝手に引っ込んじまいやがった」
まあ、少年が恐れていたのは人間すらも怪しい者だったが、正体は知れたとなれば恐れなど霧散してしまった。
そんな不遜な態度を見て、「まあいいわ」と眼前の彼女は諦めたように嘆息し、そしてひとつ咳払いして
「私は
そう、少年に名乗りを上げたのだった。
*
「ゲン、ソー、キョー?」
聞きなれない単語を前に片言で復唱。そんな少年の態度に、紫は不服そうだ。
「あら、聞いたこと無いかしら?」
「いや、知ってるか知ってないかって言われたら....うーん……聞き覚えはねぇしまあ知らねぇんだろうけど、それがここの地名なのか?」
「何方かと言えば国名──いえ、この世界の名前かしら」
いきなり広がったスケールに、「せかい」と口パクで復唱。まだ混乱している頭は一文字一文字噛み潰すのも一苦労だ。
「世界ねぇ、そりゃまたでっけぇ話だ。他にもいろいろと教えてくれるとありがたいなー、なーんて」
すらすらと、これまで明瞭でなかった点を告げてくれる紫。ここで有力な情報を与えてくれる彼女は重宝する協力者だろう。
紫を勝手に仲間扱いしていると、
「人と、人ならざるもの達がそれぞれ不可侵を暗黙の了解として、今日のような平穏を送る世界──それが幻想郷よ」
突然、スケールどころか世界観を超越した話が始まってしまった。
おいおい。胴を抱いたままの膂力がへなへなと抜けていく。
「今、なんつった?人ならざるもの? はっ、そいつはまた面妖な──」
「
瞑目しながら、紫は不敵な笑みを浮かべた。
有り得ない。持ちうる知識がそう叫ぶ。笑い話にでもしてやろうと嘲笑気味に道化る少年の声を遮るように紫は言を繋げた。
妖怪、と言ったか。妖かしく、そして怪異を齎す、人界の理から外れた人外である存在。
「私たち?すると…なんだ?お前、人間じゃないってのか?んな馬鹿馬鹿しい...」
目の前の少女は、1つ目であるわけでもなく、片足で傘と一体化しているわけでもなく。彼女の言葉は重ねて極めて信じ難い。ひらひら右手をあげて、紫の目の前で扇のように風を送ってみせる。しかし、いつの間にか紫の目からは笑みが消えていた。
「私は境界を操るスキマ妖怪、八雲紫よ」
再度、異名を付けて名乗る紫。その声を聞くやいなや、肌からは冷や汗が溢れ出る。震えが止まらない、ふざけていないと、平常心を保てない。
振り下ろされる藍色の視線は深く深く突き刺さる。狩られる側の気の持ち様は惨めなものだ。生物としての本能は危険信号をけたたましく鳴らしている。
───なんだこれは、なんなんだこれは
無言の圧力。息の詰まりそうで、圧死しそうなほどの威圧を放つ紫。チクチクと毎秒毎秒、精神を削られていく。
張り詰められた空気に窒息しそうになったころ、ようやく紫は口を開いた。
「なら、これで信じてもらえるかしら?」
紫は薄気味悪い微笑を浮かべ、右腕をこちらに翳した。そして、向けられた掌はゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「なんだ?いい子いい子でもしてくれんのか?」
「そんなものじゃないわ──ほら」
震え声になりながらも、未だ強がりをやめない少年の額に、ぽん、と紫の掌が覆いかぶさる。
この行為になんの意味が?そんな疑問を持った瞬間。
少年の瞳に映ったのは、俯瞰の街並みだった。
「........は?」
突拍子もない話だ、合理性も欠いたこれは、誰にも理解されることはないだろう。しかしこれは現に起きている事実なのだ。
地面、という大きな支えを失った体は徐々に傾き始め、
「──はああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!??」
上空、100メートル程だろうか
少年は、空中から地上へ、制御不能の自由落下を開始した。
*
パシン、パシン。閉じた瞼の内側で、線香花火の火のような光が、徐々に強さを増し広がっていく。
目を開く。又又、見蕩れるほどの蒼穹が彼を歓迎した。
「どう、分かってもらえたかしら?」
「─────ッ!はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
意識覚醒からの、突然の呼びかけに少年は地面からはね起きる。全身を擦りながら確認、五体満足、傷はない。
切れ切れの息を整えながら、大きく嘆息。
本気で、死を覚悟した。頭が下になり、どんどん地面が迫ってくる感覚を確かに覚えている。
走馬灯が見えるかと思った、それになり得る記憶は持ち合わせてはいないが。
「落下死とか洒落にならねぇ! マジで狂ってやがるな!? 俺を殺すつもりか?俺になんか恨みでもあんのか!?」
「能力を実感してもらうのには十分だったと思うけれど…それに恨みなら、その態度でじゅーぶん心当たりがあると思うんだけれど?」
「ハイハイ俺が悪ぅござんした――こっちは危うく死ぬとこだぞ!?十分すぎるわ!」
しかしこうやって目覚めたのが閻魔様の御前でないのを見ると、どことなく安心が溢れてくる。
しっかしなんで助かったのか、紫が衝突直前でキャッチとかしたんだろうか。
「ま、人間様にはこんな芸当は出来やしねぇ。お見逸れいったぜ、
間抜けな考えを引っ込ませて、間違いを認める。
生憎だが、人間には、こんな超常現象を引き起こす力はない。
少年は、興奮を宥めてから、彼女を恐れるような視線を飛ばし、そして素直に首を縦に振るしかなかった。
「分かってくれたならいいのよ。でも、これで少しは態度を改める事ね。たとえ事情を知らなくても、こんなに失礼な子は初めてよ」
子供を叱りつけるような口調で諭す紫。確かに、短い時間だが振り返れば、よくも初対面の相手に随分な物言いをしているものだと我ながら感心する。
そんな心を読んだのか、彼女は呆れた、と言わんばかりの表情を浮かべた。
しかし、そんな顔をすぐに正し、へへへと笑い誤魔化す少年に、紫は意味深な言葉を連ねた。
「それに、これからここで暮らす上でこの世界の理に反してもらわないためにも、ね」
「? 理に、反する? それにお前、これからってなんだよ、俺は.....」
これから?それじゃまるで───
その返答に、紫は変わらず不敵な笑みを浮かべていた。
*
(口も悪いし態度も大きい、初見の印象は最悪。これじゃダメね)
教えてあげるわ、新入りさん───幻想郷の、
※5/8 編集点、最終行の紫の台詞を追加
※9/23 前書き編集