その日、初めて俺と先輩は隣に立ったのかもしれない。
その、夏は俺にとって初めての夏で、二度として同じ夏はこれまでなかった、と言う事を改めて認識した年になった。
同時に、学校の夏休みが消失した初めての夏でもあったが、そんなことはどうでもいい、確実に一番過酷な夏だったという事だけは確かだった。俺が先輩に協力すると決めた時から、仕事が単純に3倍になった、流石にすべてを任されることはなかったが部活に行くたびに疲れて帰ってきた。
時に協力しあい、時に意見を衝突させて、ギスギスした空気を初めて感じたり、安いJPOPの歌詞のように心が通じあったような感覚を初めて感じたのだ。
少しそこまで行こうぜ、みたいなセリフはついぞライトノベルでしか見たことが無かったが、そういうノリで2か月も付き合ったのは「俺馬鹿なんじゃねえか…………?」と言うセリフが頻繁に口から洩れた所から、精神状況が不安定になった事が分かるだろう。
そんな初めて尽くしな夏休みの集大成とも呼べる合宿。その当日になった。
集合場所に到着して当然の如く先に居た先輩の姿を見た時、もう既に言葉は要らなかった。
先輩の顔を一瞥して集合場所の近くに自分が持ってきた荷物を置いて確認した、その確認が終わって胸を撫で下ろした。
そして、選手たちが来るだろう方向に体を向けて、集合時間まで待った。
「やろう」
「はい」
それだけの言葉で隣あった先輩と手の甲をぶつけ合わせた。ここ最近こうしていて、この行為の意味する所は全く分からないが、これをするたびに先輩が嬉しそうな顔をするのでまあいいんじゃないかと思ってきている所だ。
…………もう疲れてしっかりとした判断能力が欠片ほども無くなってきているが、頑張ろう。
気が付いたら全員集合して、全員バスに乗った。旅行のような和やかさで、進んでいくさなか、マジでこのバス横転してくれと願いながら二つほどの県を挟んだ場所にたどりついた。
案内された場所、駅前に集合する予定だったはずが、足を下した時絶句した。
「山と森しかねえ」
「来る時牛見たぞ」
「最後にコンビニ見てから1時間は経ったな…………」
「民家が古すぎ」
「牛丼店しかねえし吉○家だし」
「んだこら、す○やがなんぼのもんじゃい!」
「○屋大本営忘れんじゃねえぞおい!」
住民に聞かれれば失礼に当たることを言っていたが、もはや人の存在すら怪しい。
あとそこ、牛丼チェーン店一武闘会してんじゃねえ。
本来ならここで迎えのバスが来るらしいのだが、それが来る気配もない。俺は内心冷や汗を流しながら先輩の顔を見た。清涼感があるボーイッシュな顔立ちを一つも歪ませず、俺が先輩を見ていたことがわかると落ち着き払ってこういった。
「どうしよう」
「マジかよ」
「まあまあ、こっちから電話すれば何とかなるでしょ」
半ば絶望感を感じさせる一言を返した先輩は、スマホを取り出して電話を掛けた。出た相手はスピーカーから漏れ出る声から男性で、1分にも満たない会話で電話が切れた。
「もうすぐ来るって…………驚かないでね」
「はい?」
顔を見て冗談も何も言っているように見えなかったので、首を傾げながらただ待つことにした。その理由はすぐに分かった。
バスが来たのだが、その車体にデカデカと『村営巡回バス』と書かれていた。
「いや、あれじゃねえだろ?」
「村営だもんな、あれに乗るのか?」
「いやいや、だってねえ。めっちゃよぼよぼのじいちゃん降りてきたけど」
「いやー、若いもんがこんなに、うちの村によく来てくださった」
(((マジかよ)))
それは、俺含めた男子全員の総意だった。そんな中、先輩だけは矢面に立って挨拶をした。
「今日はお招きいただきありがとうございます。総武高校サッカー部マネージャーの清川です」
「これはご丁寧に、さ、どうぞ」
非難の目も混じっていた視線の雨を知らぬかのようにふるまって、選手を村営バスに案内した。
バスの中の部員たちはドナ○ナの子牛と寸分たがわなかった。
ここの村に来るまでのバスではカラオケ大会やビンゴ大会などをしていて俺が寝れないほど騒いでいたのとは対照的だ。寂れたバスにカラオケは無く、色褪せた止まりますボタンしかない。
最後尾の座席に座っている俺には目の前のお通夜はどうでもよくて、重要なのはやっと寝れるという事だけだった――――。
◆ ◆ ◆
「ほれ、起きろ。ついたぞ」
ほどなくしてついたのか、先輩に起こされた。いやな予感がした、と言う顔を先輩がしていた。
安心してください、俺入部してから嫌な予感しかしてません。
そして、荷物を持ってバスを降りた時、もう好きにしてくれと思った
「おい、何か村役場とか書いてあるんだけど?」
「野座間先生?どういう事なんですか?」
「知るか。清川に聞け」
「超ごめんっち!……………いや、忘れて。いや忘れないで」
心臓に毛でも生えているのかこの先輩は…………。しかし、合宿所についたと思ったら、村役場についたとあっては、説明されていない人間は驚くのは仕方がない。だって俺も驚いたから。
驚いたまま不安そうに周りを見ていると正面の入り口からスーツ姿の男の姿が目に入った。
壮年に差し掛かったような顔立ちで、表情に自信と言うか気概が満ちているような人間だった。
「あ、どうもどうも総武高校の皆さん、わたくし地域文化保全係の小林と申します。本日はよろしくお願いいたします。」
「「「「よろしくお願いします!」」」」」
よく反応出来るなお前ら、俺なんて会釈だぞオイ。でも、表情が幾分か和らいだようだ。
「で、今日は神輿を担いで貰うんですが」
俺も先輩も選手たちもいや待て、って顔をしているぞ?顧問は煙草を吸っているな。そんなことしている場合かと問いただしたい。
「すみません窓口になってた清川です、質問してもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
「神輿を担ぐとは?」
「ええ、どうせ宿泊場所をこちらで提供するのでしたら、少し役立っていただかないと、と思いまして。そちらの理由もこちらとしては把握していますし」
「なるほど、神輿を担ぐ以外には何を?はっきり言えば、あなた方の目論見を教えて頂きたい」
単刀直入に先輩がそういった。
「地域文化保全係ですので、村の文化物や催しごとをそのまま継続させるためですかね、テレビ局も呼び込んで村おこしの一環にでもなればいいかなと思いまして」
「…………断った場合は?」
「まあ、もちろん今回の話は無かったことに」
おいおい、どうする長野県まで来てここで追い返されたら…………それに、部長がなんて言うか。
「神輿担ごうぜ!」
「いいな、それ地元にいてもそんな機会ないし、レアじゃねそれ」
「ほーしかつどーっての?結構いいじゃん」
おい部長!頭が軽かったか!?と言うか部長が率先してそんな事言って良いんですか?
部長がこっちのマネージャーの方を向いて親指を立てた。…………あ、フォローしたんですね。
「ははっ助けられちゃったね」
そう言って、おどけたように見えたが、たぶん違う。この位は予想していたのだ。
「もしかして、知ってました?」
「いや、安すぎる位の場所提供だしね、無茶ぶりの一つぐらいは想定内だった、だけど神輿かぁ……正直これは想定外だった。確かに、文化保全の面で見ればいい案だと思うね」
「でも、別に断ってもよかったんじゃないですか?」
「あれを見ろ」
「テレビ局?」
「逆に相手が大胆な手を打ってくれて助かったよ、顧問もこっちで説得できそうだ」
「それが一番難しそうですけど…………」
顧問からしたら、信じて送り出したマネージャーが謀略を持って帰ってきたみたいな感じだ。
そんな心理状態で何を説得できると思うのか。
「おい、清川これはなんだ?」
「神輿担ぐんですけど?」
「なぜそういう事になっているかと言っているんだ!テレビ局まで来て一体どういう事だ?」
「ええ、合宿先変更の旨を伝えるプリントはご覧になられましたか?」
「今までのプランでは、行くことが不可能になった人間が出たからと言う事だったな。俺はもう行かなくてもいいと考えているから、別に変更するなら好きにしてもいいが俺の許可は取れって言ったはずだ」
確かにそういう話で、そのまま俺たちはそれを飲んで計画的に進めてきたはずだ、神輿担ぐことを視野に入れて活動してきた訳じゃない。
「ええ、変更する時の生徒用のプリントを見ていただけましたか?」
「それも確認した…………おい」
「ええ、あの時の文言は
『合宿先を長野県の過疎地に設定することにより、地方の現状を見て社会見学をする共に該当地域の地元民とのスポーツコミュニケーションをとることで将来的に必要な他者とのチームワークを円滑にするためのトレーニングとするため合宿先の変更を具申します』
一応、そこで賛成多数で通りましたが?」
強引すぎる。もはや取ってつけたような文言を引っ張ってきて、それを強引に今回の奉仕活動に当てはめてゴリ押そうとしている。これは、流石に無理なんじゃないか?
「そんな屁理屈が通るか!」
「ええ、でもそれとは別に、先生のためにもなりますよ。自主性を重んじる校風ですし、自主性を高める指導をしているという証左になります」
「…………」
「それに野座間先生が生徒に…………いえ、何でもありません」
やべえ、先生の自尊心を持ち上げた後で落とした。
あとで聞いた話だと、大体ここの先生は名声上げに終始しているらしい。シニカルな笑みを浮かべながらそういっていたから。
なんかヤバい先生だったら条件さえ合えば1年生でも生徒会長になりそうだなこの学校。……………………まあなる訳ないか!
「っち。まあいいか。労せずして名誉を得られたと思えば」
「はい、先生にとって他に悪いことはありえないように尽力します」
「当たり前だ」
と言って、再度煙草の箱を取り出し、離れた所で火をつけ始めた。
「…………初めて話している所見たんですけど、うちの顧問って結構横暴な人なんですね」
「まあ、私たちが好き勝手出来るのって横暴だからだし」
「どういうことですか?」
「リスクリターンさえはっきりしてれば動いてくれるってこと」
「なるほど…………」
この部活が異常な生態系を形成していることに若干の不安を感じながら、祭りの説明をしていた。
どうやらこのお祭り、山の神を鎮めるために作られたようで、作物やその他もろもろの恵みを感謝や、以降の食物の豊作を願う物らしい。
結構な神事なようで、人手が居ないからここ数年は名前だけのものとなっていたようだが、行政としては民間のそれも宗教的な祭りに外から人を呼ぶことが出来なかった。
そこで、文化保護の対象としてこの祭りを使って俺たちを呼んだという事だ。
「早く言ってくれれば全然問題なかったのに…………」
「まあ、向こうとしても、俺たちがここに居る時点で勝ちの状況を作らなきゃいけないし、甘いもので釣るのは当然でしょうが。ただ、こんなに大人げない方法を使うとは思いませんでしたけど」
どこか妄念に憑りつかれたような感じで今はもはや練習どころの騒ぎではない。
「はっぴ初めて着たわ」
「なんつーの?これ着るとめっちゃアガるわー!」
「わっしょーい!」
コレ、ただ作っただけの祭りじゃないよな?あとお前らよくさらっとふんどし履けるな。
「そんな事はないですよ」
心を読むな小林さん。
こうして、無駄に迅速に準備が進められて、あれよあれよという間にはっぴを着たサッカー部の集団が完成し、満足そうな神主みたいな人間が祭りの開催を宣言した。
そこからは最早やけくそだった。水、予定、気遣い、ガバガバな祭り、綿密なマネジ。叫ぶ部員、加速する頭痛、ノリノリな部長、顧問の足元に溜まる吸い殻、迫る住民、喜ぶオババ。
夏の熱気に当てられて、頭がおかしくなった所に迫りくる男の熱気。
祭りのすべてが終わった時にはすでに12時を超えていた。がこれからだった。
「今日はありがとうございました、ささやかながら昼ご飯用意させて頂いたので村役場前の広場までお願いします」
飯の時間が近づいて、これでやっと一息つけると思ったが、先輩は違った。真昼間から飲み始めているおじいちゃんにお酌を注ぎ、食べ物の誘導をしたと思ったら学生たちの飲み物を用意した。
俺はそれを飲んで近くのおじさんと喋っていた。御○海最高です。はい!
いつか培った整骨院での会話のおかげか、一応はなんとなく会話をつなげる事が出来た。無駄な技術が育ったなぁと山の向こうを死んだ魚の目で見ていた。
◆ ◆ ◆
実際に練習が始まったのは午後3時。全員全身から疲れましたオーラをムンムン出していたが、それを無視して鞭打つように練習に入った。
「それにしても、よくこんな天然芝のコートがありましたね」
「あー、このために元々伸び切った芝を刈り取ってくれたらしいよ。ゴールは近くの小学校から借りてきて。ほら、あそこに遊びに来た地元の小学生が」
「練習邪魔しているように見えるんですけど」
「まあ、しょうがないんじゃない?高校に上がると町の方に行っちゃうらしいし、同年代以上のお兄ちゃんみたいなのが少ないらしいよ」
「妙に詳しいですね」
「さっき飲んでたおじ様から聞いたの。大体の過疎化地域はこんなもんだって小林さんから聞いた」
でたコミュ力お化け。
ワンオンワン練習だと誰か一人余るもので、選手一人が五人ぐらいの子供たちを相手にしている。昔を振り返ってみると、小さい時小町と一緒に遊ぶとめちゃめちゃ疲れる、いいトレーニングになるんじゃないか?とそんな無責任な事を考えながら死なないように選手を見ていた。
ただ日が長いとはいえ、この村は標高が高く割と涼しいから普段の練習よりは熱中症対策に力を入れなくて良い分今はめちゃくちゃ野菜切っている。
「ちょっと効率少し上げないと次の練習に間に合わないよコレ!」
「だから無理があるって言ったんですよ!」
「あー、腕が六本あればなぁ」
「それこそゴールキーパーにでもなったらどうです?」
「はい!無駄口叩かない!私は比企谷君と過ごして私の都合の良い情報しか聞こえなくなる病気に罹ってしまいました!」
「俺のせいですか!?」
「もう遅い!指ごと切れ!」
「誰も俺のけじめカレー食いたくないですよ!」
とワーキャー言いながら近くの公民館で夕飯のカレーを作っていた。
目標をセンターに入れて切る。目標をセンターに入れて切る。目標をセンターに入れて切る。暇すぎて心の中でシンジ君ごっこに興じている中、先輩に話しかけられた
「そういえば比企谷君」
「なんですか?」
「ここ、不思議だよね。完全に人が居ないのにも関わらずこんな大人数の料理を作れる位の調理器具があるなんて」
「確かにそうですけど、普通に大勢集まってご飯食べる習慣でもあるんじゃないですか?」
「そう考えればそうかも、お祭りもある位だし」
「あれは本当に冷や汗掻きました」
「本当だよ、言ってくれれば予定に組み込んだのに。ごまかし方も失敗しちゃったしね」
「あれ以上の最適解は無かったでしょ?」
「そもそも論、私がきちんと話を聞き出せたらよかったんだよぉ」
先輩は不満げに唇を尖らせて言った。俺には表面上丸く収めたように見えたあの采配も先輩には不服なようだった。
「…………そもそも」
「ん?」
「いや」
やっぱり口をついて出てしまった。
そもそも、俺が居なければ先輩は普通に仕事をやれてたんじゃないかと思って、後ろめたさからそう言いかけた言葉を飲み込んだ。
それを言ってしまったのならそれは、自分だけが気持ちよくなるだけの加害行為で、教室の隅を陣取る俺を傷つけて笑う奴らと同じだ。
でも、一つだけ訂正させたい事がある。長い沈黙の後、俺は先輩に言った。
「先輩は全ての責任を自分に押し付けるつもりですか?」
「え?そういうつもりないけど…………どうして?」
「俺がそう思っただけです」
「…………そう」
俺の答えに自分を悲しむような顔で答えた。もう、やめたい。と思った。
「一つ俺と約束してくれませんか?」
「なになに?比企谷君、今日頑張ったからね。何でも聞いてあげる」
「今日から部活だけでもいいです、先輩の今を俺に分けてください」
「…………どういう事?」
こんな事、今までの人生で言う事は無かった。そもそも俺の事を嫌いな先輩なんて物が人生でなかったからだ、そんな相手でも、こればっかりは言わないといけないと思った。
「元々、マネージャーなんてやりたくなかったんですよ俺は」
「…………だよねぇ」
「俺からしたら先輩は傲慢で人の事を、少なくとも俺の事は何も分かっていない、はた迷惑な存在です」
俺の一言ずつで、先輩の顔色が悪くなっているような気がした。なぜだか俺の胃がキリキリと痛んだが、それでもちゃんと言葉にしないと伝わらないと思った。
それにどれだけ俺の言葉が嘘くさくとも、伝えればいいだけだ。
「だから、俺の為に変わらないでください。今日を渡すことを、今日と言う日に力を合わせる事を、俺に遠慮しないでください」
「…………比企谷君?」
「全部の仕事を俺に押し付けてもかまいません、一緒にやりましょう。玉ねぎの皮剥き終わりましたよ」
きっと、この言葉は羽ばたかないとわかっていたとしても。
そこからは無言だった。それでも何か居心地が悪い訳でもなく、黙々と飯を作ってついに完成した。野菜の切りすぎで腱鞘炎になるんじゃねえかと思うぐらいの野菜を切っていた。ちなみに、先輩はめちゃくちゃ料理が上手かった、どうしよう俺、専業主夫としてこれからやっていけるのだろうか。
自分の人生に一抹の不安を抱きながらも、今日が終わった。
因みに俺の寝る場所は公民館になった。と言うのも、俺は元々部員全員の中で雑魚寝の予定だったのだが、それをキャンセルして村役場から管理している人物につないでもらい、再度許可を取りそこで寝させてもらった。流石に雑魚寝は無理だった。
さんざん迷惑をかけられたのだから、この位は許してもらいたいものだ。
さっさと布団を引いて、微睡みに身を任せていた。
◆ ◆ ◆
関東圏のような盆地では、エアコンの室外機と反射熱のオンパレードで蒸籠の中ほどの環境の中、ここのような田舎では標高の関係も相まって、半袖で居れば耐えられて、ともすれば少し肌寒さも覚えた。
かと言って、決して静寂なんてこともなく。都会の喧騒をあざ笑うかのようにカエルの鳴き声がそこら中に木霊していた。
夜も3時を回った所で、比企谷八幡が就寝した場所の扉が開き、その部屋の全貌が入ってきた彼女の目に入ってきた。
力強い月明りが比企谷の無垢な寝顔だけが照らされていて、ガラス越しの空を見れば星々が躍る。
彼女はそんな光景に少し息を飲みながら、寝ている彼の近くに座る。
「比企谷君、起きてる?」
気に障らぬように注意を払ったような呼びかけだった。
そして何を思ったのか、比企谷の瞼を上げて眼球を確認した、狸寝入りを確認する方法だった。
「寝てるか」
寝ていることに胸を撫で下ろして、もう一度座りなおした。そこまでするなら、言わなければいいのにと自嘲気味に彼女は笑った。
彼女は彼に話しかける、ぬいぐるみに話かけるような一方通行の独白だと分かっていても。それでも彼にすがるように彼の手の甲を自分の手の甲で触れた。
「今日は嬉しかった、いやいつも嬉しいんだけどさ」
薄く笑って、自らの手に伝わる体温に嬉しさを感じていた
「いつしか忘れちゃってたなぁ、コレの意味」
思い出を懐かしんで、彼女は空を眺めた。今日の月は十六夜どこか遠慮がちで何処か欠けている。そんな空で彦星もすでに先月隠れてしまった。
『あ?なんで手の甲でたたくかって?少し手の甲は痛いだろ?そいつは隣に居ても、正面に居ても、勿論後ろだって近くに人が居れば感じる事が出来る痛さだ。
その痛さ忘れねえ限り私はお前の隣に居る…………からな!うるせえ!泣いてねえから!お前はさっさと新しいマネージャー入れろ!ばーか!』
普段の彼女であれば、きっとこんなことはしなかった。
夏の熱気は、少年少女を何も知らずに狂わせて行く。