リノリウムの床を安い下履きが叩く。音は二つ。二人分の足音はしたが、どことなく孤独を感じさせた。
しばらくして、廊下は足音が響かなくなった。
内緒話のボリュームではない声量で、片方が口を開いた。
「葉山協力してくれ」
◇ ◇ ◇
暫く、委員長は顔を出さなかった。それに現場では少しばかりの不満が噴出している最中、委員長はやってきた。
本来ならば、会議室の空気は少しばかりの棘がある中で始められる予定であった。
一部の人間のみが業務に出席し、出席した人間の恨みによって、少なからず空気に棘が混じっているはずだったのだ。
だが、それは叶わなかった。入室した委員長一同は、焦りとも怯えとも見れる負の感情が可視化されるほど表情に出ていた。
流石に弱っている人間に対しては手持ち無沙汰になっていたようで、一同が全て席に着くまで異様な空気感がこの場を支配していた。
それは、すでに部屋の中に居た雪ノ下陽乃にとっても、感じる事が出来た違和感であり、その有能さ故、入手していた情報の差から、いち早くこの状況を生み出していた根本を察知し、どうしようも成らないと結論を見出しながらも睨みつけた。
「それでは、会議を始めます」
いつもとは違う覇気のない、会議の始まり。今回やる議題は決まっている。
文化祭のスローガン決めだ。
あらかじめ委員から集めておいたスローガン案の一つ、最大にして最高のトラップ。最低にして最小の紙切れを手に取った時、目に見えて委員長の顔がこわばる。そして比企谷八幡は勝ち誇ったような笑みを、誰かに向かって浮かべた。
そう、彼の
「え、えーっと」
震える手でホワイトボードにスローガンを書いていく、選択肢として書かれたそれは、ワンフォーオールや友情・努力・勝利などありきたりな物が書かれた。
そこから会議は踊らず、しかし生後一か月の赤ん坊のようにぎこちなく進んでいた。
絆~ともに助け合う文化祭~
最終的にこのスローガンに決まった。この場に居る人間にとって正直スローガンなどどうでもよかった、委員長の急激なスタンス変更に少し戸惑いながらも拍手を送った。
「あの、すみません提案というか要望というか。少しばかり作業に遅れが出ているというか…………ですので、クラス出店の方に出回る時間を少なくして欲しいんです」
委員長がそう言うと、少し会議室の中がざわついた。
頭が軽い人間の頭が軽い発言ではあったが、言質は取った。そして賛成の人は手を上げてくださいといった時には過半数の手が上がった。
二つほど小さなため息の音が微かに聞こえた。そして、今日の会議は解散となった。
◇ ◇ ◇
俺は雪ノ下陽乃に近づいて、話しかけた。
「どうも、雪ノ下さん」
「もしかして脅迫? まさかこんな真っ当な方法を取るとは思わなかったよ」
「脅迫を真っ当って言ってしまう辺り雪ノ下さんは真っ当な精神性を持っていないようで」
ちょっと引いた。
「なにやったのか、お姉さん気になるなぁ~」
「たぶん貴方が先輩にやった事と同じですよ」
「ッ!?」
「その反応だけで充分だと思いますが」
先輩がなんでハブられていたのか。それはこの人が関係していると思った。
その立証を裏付けたのは現生徒会長、城廻めぐりと、ここの顧問である平塚先生。両名に雪ノ下陽乃の有能さや立ち振る舞いを根ほり葉ほり聞いて出した結論という名の憶測は。
先輩は、おそらく。俺より出会う以前に雪ノ下陽乃に目を付けられた。
平塚先生は胃痛が止まらなかっただろう。
1人は人を動かし社会的な血肉を啜る人という獣性の権化、もう1人は誰よりも働き人の機微を誰よりも分かっていながらも、根源的本質的な非人間
嗚呼、能力だけ見れば、何も出来ない事はないと思わせるほどの組み合わせだが、圧倒的に、性格の相性が悪い。きっと一方的に雪ノ下陽乃という人間は先輩の事を嫌ったに違いない。だって、表面だけ見れば、能力しかないつまらない人間だっただろうから。
聞いた話だと、彼女の生徒会は彼女のワンマン体制。それで、気に入った人間しか入れない物だから3人ほどしかいなかったらしい。
まるで上に立つのが当たり前のような傍若無人な振舞いを、持ち前のカリスマで何も言えなくさせる。そして、その振舞いを受けた人間が四苦八苦しているのをみてケラケラ笑っている。なんてことを平塚先生から聞いた。
そんな人間が目を付けてしまったのが先輩だ。
どんな無理難題を押し付けても、簡単にこなす。社交性や人気もそこそこある。人間の後ろ暗い所が一つもないような非人間。
どんな無茶も物理的に社会的に不可能では無ければなんでもこなしたのだろう。笑顔で分かりましたーなんて言って全てを笑って許してしまったのだろう。
結果的に本人の興味を失ったが、先輩がそれで終わる訳がない。言われていない事までやりだす暴走特急。
おそらく仕事上俺だけしか見ていないが、これまでの文化祭の資料が恐ろしく見やすく整理整頓されていて、整頓のされ方に既視感を持ったのは、確実に俺だからだろう。
そして取った方法が生徒会からの除籍と、今度は仕事量から追い詰めるのではなく、ただ単純に人間関係の軋轢から攻めただけなのだ。
そしてその聡明さと傲慢さで先輩の非人間性に気が付いてしまった。
推察できる雪ノ下陽乃の気分的には花壇に水を上げていたら急に砂漠に放り投げられた位の気分だろう。斜め上からの衝撃は一瞬とは言え思考を停止させただろう。
基本的に、向こうから接触してこない限り先輩の正しい管理方法は放置なのだから。
「でも、根本的な解決にはならないでしょう?」
「いま、雪ノ下が向かっています」
「…………いい性格してるよ比企谷君」
「先輩に鍛えられましたので」
◇ ◇ ◇
あの日、電話をかけた先は勿論雪ノ下。結論として。俺は、あのサッカー部カンパ、俗に部活動マルチを使うことにした。
「雪ノ下、奉仕部に依頼がしたい」
『またいきなり言うのね。話だけは聞きましょう』
「依頼というか仕事は2つだ。あの状況を何とかするために協力してほしい、そして、その為に委員長の補佐をしてほしい」
相して、協力を取り付けた俺は、暗躍した。具体的には、沈黙を続けていた部活マルチのライングループに捨て垢を入れて「2年F組の相模って奴が徴収した金をかすめ取った」と入力し、その間に俺は川崎とコンタクトを取った。
事前にまとめた情報を川崎に見せる、その情報は由比ヶ浜由衣からの提供だ。
そうして、犯人の目星を付けた所で。丁度良く、情報が相模に渡った。おそらく恐怖を感じただろう、やっても居ない金のかすめ取り金額も多く、疑われるだけで社会的に危機的状況だ。
そこで俺は葉山に協力を申し出た。合図したらその噂を話題に挙げる、そうすれば一瞬でも話を聞けば、そこでもう終わりだ。
やった覚えの無い犯罪行為をクラスカーストのトップの耳に入り、それが疑いの目を向けてくるという恐怖は、過去に受けた給食費盗難の疑いを持たれた時以上の恐怖だ。
とか思ってみたりしたけど、全然心の内は晴れない。
とはいっても俺たちが陥れた相模を助けて初めて、目的は達成される。
俺の目的は、相模に仕事をさせ、最終的に終わった後に、その人間関係を引きずらない事。
ひとまず仕事をさせるために必要なのは、釣り上げるための甘言と甘言に乗らざるを得ない過酷な状況。
カースト上の人間からの疑いの目という過酷な状況を俺が用意し、そしてカースト上の人間からの協力の申し出という甘言…………それは雪ノ下がやってくれるはずだ。
今はいつかやったブラックバイトの手法を思い出し遠い目をしているが。仕事させる方法としてはそれが一番やれる。
そしてその目的は今達成される。雪ノ下から連絡が来て、相模から文化祭実行委員としての成長を依頼されたとの連絡を受けた。
仕事させるだけで、地位向上が出来るかと問われれば、俺は確実に出来るというだろう。
人は一面しか見ない。それは人間の性であり、処世術である。だから、彼女が所属しているグループ以外のカーストは彼女の仕事の成功しか見ていないのだ。
その裏にどんな努力やどんな思惑があろうが、それを才能だなんだと、それぞれの中で折り合いをつけるだけ、そんな凡人が作る空気がいつでも天才を殺すのだ。いつもは腹立たしい思いをしながらも、こういう時だけ感謝しよう。
後は…………。唯々波が来ない事を祈るだけだった