「そんなもの、ウチにはないよ…………」
部活が始まってから先輩が来なかった。
少なくとも、今までは部活が始まる前にはついて準備をしていたはず。それだけで、本当に先輩が傷ついているという事が分かってしまった。
今の私に、傷ついていることは分かっていても。なぜ傷ついているのかは分からない。
「一色、遅れてすまん」
「…………おはようございます」
「参加はおそようだけどな、どこまで進んでる?」
先輩は無理して平静を保とうとしている。付き合いは浅いかもしれないけど、それぐらいは分かる。
「アップが終わった位です」
「分かったラダーとハードル用意しておく」
今日の仕事量的にはいつもと同じ、だから話しかける事なんて簡単に出来るはずなのに、口から出るのは事務的で無機質な言葉だけ。
「なあ、一色」
「なんですか?疲れたような顔して。後やめませんからね、先輩疲れてる時だと特にろくでもない事言いだすんですから」
必死で、妙に口数も多くなっていく。
その言葉に少し止まった。緊張でもほぐそうと思っていつもの先輩のように、自嘲気味に言ってしまったのが原因?
「そんなに疲れている様に見えるか?」
「ええ、本当にそうですよ」
紛れもなくその言葉は本心だった。なんとなくそう思ってしまっただけだけど、その受け答えを境に、先輩は黙ってしまった。
それでも、由比ヶ浜先輩の事聞かなきゃと思うけど、どうしても一歩踏み出せない。
他人の心の中を暴こうとする、それでいて繋がろうとするのはなんと勇気のいる事なのだろう、今になって由比ヶ浜先輩のやった事がすごいと思った。
「俺、今日でマネージャー辞める」
「嫌です」
そう言った時の先輩の顔はやっぱり見た事が無かった。真っすぐこっちを見て、微笑みを浮かべながらも、どこか諦め切ったような顔をしている。
私は即答していた。たぶん、今の先輩に何か思う所があったから、そうでもないと、前の私ならこう言わなかったと思う。
自分の心が定まった、私は先輩にあんな顔して辞めて行って欲しくない。
「嫌です」
「結局辞めるし、今日辞めた所で同じだろ」
「…………私よく言葉に出来ないんですけど、それなんか違う気がします」
直感が働いた。なんの直感かは分からないけど、それを言葉にするなら。
「私がいなかった時の一年間、先輩になにがあったんですか?」
そうだ、私のあずかり知らない所で何かあったに違いない。願うような、自分に責任を求めないでいるようなずるい質問だといった後になって後悔した。
でも、先輩はそれを聞いて俯いて黙った。
「どうせ、言ったって分からない」
「聞かなきゃ知らないままじゃないですか」
やっと口を開いたと思ったら、そんな事を言ってきた。少し頭に血が上ったけど、胸騒ぎの方が勝った。
「なあ、一色。俺が自ら進んでこんな事やる人間だと思うか?」
「いいえ」
「だよな、だけど声を掛けた俺の先輩が居たんだ…………俺を入れるために、断れば毎日のようにクラスに襲撃しに行くぞみたいに脅されて」
「…………それって女性なんですか」
「そうだ、で渋々入って今に至る訳なんだが…………多分今の俺の全ては先輩だった。先輩が居たから部活やってたし先輩がいなかったらもう止めている」
その先輩の先輩を語る目はどこか遠くて、懐かしい物を恋しく思うような目だった。
「入った時に聞いたんだ。なんで俺を入れようとしたのかって。そしたら『気に入ったから』とか言って。俺の事嫌いだって言い始めて…………」
先輩が話を進めていくうちに、話がちぐはぐになっていく、頭の中がぐしゃぐしゃして、話がまとまらないようだ。
「それでも、何で今までやり続けてたんですか?」
「わからない、けど先輩が…………嫌いって言ってくれたからだ、一年間、最後の最後まで変わらなかったからだ」
その話で先輩の先輩がどんな人か分かった気がする。
忘れるはずもない、部活に入って初めて先輩とあった日の事。
前の私は猫かぶっていれば、男だったらすり寄ってくると思っていた。だけど先輩は違った。そこから少しずつ惹かれていったけど。
先輩はそもそも他人の好意や優しさを信じられずに拒絶していた…………?
「最後、卒業式の時に言われたんだ。私、まだ。君を嫌いで居なきゃダメ?ってさ…………酷い話だ、そんな優しさを我が身可愛さで踏みにじっていたんだから」
先輩の性格を見抜いて1年間嫌いというスタンスを守り続けた先輩の先輩は…………想像しただけで空恐ろしくなる。
思えば、私も最初に言ったのは「私は葉山先輩目当てでマネージャーになったんです」そういった打算めいた事を言ったから。私を打算で信用した?
今まで私がやって来た事に、鳥肌が立った。
先輩にとって私は、打算で動くビジネスライクな………もっと言えば、私は先輩と後輩にすら成り切れなかったのかもしれない。
「それなら、謝ればいいじゃないですか」
「無理だ、この間の学園祭の時にきっぱりと縁を切られた『もう、君の先輩は居ない』ってさ。そんなもんで切られる縁だ。もうどうしようもねえよ」
「…………分かりました」
「…………長々と喋り過ぎたな、もう遅いし帰れ」
先輩が後輩だった時のすべては分からないけど、知った一端でもバケモノのような関係性で。アイアンメイデンとハリネズミと人間を足して3で割ったヒトガタ同士が抱き合うような、苛烈で卑屈で歪んだ人間模様。聞くだけで、私まで、刺されるようで痺れるような痛みを感じる。
そんな痛みを、いや、それ以上の痛みを、先輩は味わっていた。
「はい、でも一つだけ今はまだ辞めないでください」
「分かってる、引継ぎには苦労させないようにしてマニュアルでも作っておくからそれが完成したらだな」
その声だけが妙に晴れやかで、勝手にゴールを決められてしまったって、私は思ってしまった。
だめ、それだけは。
「先輩は!」
「うおっ!?」
自分でも驚くほどの声に、先輩は止まった。
「それが、先輩のゴールで良いんですか…………?」
そうだ、はじめて会った時。私に確認を取った様に、私は先輩と向き合わなきゃいけない。たとえ、それが間違った場所から始まったとしても、そこから始めるのが間違いな訳がない。
「ああ。この間違った部活動選択は、これで終わりだ」
視界が滲んでよく見えなかったけど、先輩はこれまでにないほどの笑顔を見せていた。
ゴールはみんなで決める物なんです、一人で、勝手に決める物じゃないんです。
確かに、先輩は間違ってしまったのかもしれません、傷ついてしまったのかもしれません。でも、ゴールは誰かと決めましょう?それは私じゃなくてもいい、そうじゃなきゃ、ほんの少し悪意のある誰かにゴールをずらされるのだって当たり前じゃないですか?
頭の中で、色々な事が巡って、私は、帰る事にした。
「…………先に上がります」
「おう、気を付けて帰れよ」
でも、色々考えて、最後に残ったのはこの感情。
私じゃなくていい。なんて言ったけど。
「…………そんなの勝てる訳が無いじゃないですか」
心にあるのは嫉妬と…………間違ってしまった私の失恋だった。
「まだ何かあるのか?」
「なんでもないです!」
頬に流れた優しくて残酷な水は、どうか先輩に気づかれません様に。
気づかれてしまったら、どうせまたハリネズミのジレンマになってしまう。
間違った此処から、新しい試合のホイッスルを吹き鳴らすために。新しい私が、またあなたのやさしさに恋をしたから。
いや、まあ、ごめん