雪ノ下が場所を指定したのは、嵐山。戸部の告白の舞台がここになる。
夜に竹林が灯篭でライトアップされ、なんでもムードは最高らしい。
というより、告白でムードを考えるのはナンセンスだと思う。それは価値のない油絵に高級な額縁を付けて高く売ろうとしている行為と同じであると思うからだ。
ここまで考えたが、この例えにおいて人間にとって人間の絵はどこにあるのだろうか?人間性?収入?しかし、どんな経緯があったとは言え、買った絵を捨てるのも持ち続けるのも買った人間の自由だ。せいぜい騙されないように観察眼を磨こうにも、性質の悪い事に絵と違って人間の良し悪しなんて分からない。
だから、これからはアキバのエウリアンにはNOと言える人間になる。そう決めた比企谷八幡なのであった。
「というか、俺いるか?」
「黙って」
俺は雪ノ下に非難が含まれた視線を頂いた。
そんな事を考える位には、俺は暇を持て余していた。正直、今俺に何もする気はない。
告白したい奴と、告白を阻止したい奴が直接対決するという状況で俺たちが何をできるのかと。いや、違うな現状維持したい奴と進みたい奴、どちらを応援したいかと言われれば、もちろん進みたい奴に決まっている。
俺は何もしなくても、戸部の告白という進展を見る事が出来る、それが失敗しようと俺には関係のない事だ。
戸部と、海老名が竹林の中に付いた。
「いよいよだね」
「ええ」
そう由比ヶ浜が言って雪ノ下が答えた。
この状況は非常に気まずい、だが、それももう終わりだ。
「ゆきのん」
「ええ、そろそろね、比企谷君ついてきて」
「わかった」
その言葉に何も考えず相槌を打った。その隙がまた、俺の失態だった。
よく考えれば、奉仕部と俺は、戸部の告白を見届けるだけであれば、何も動く必要はなかった。
そもそも、雪ノ下は協力とは言ったが
「比企谷君、ごめんなさい」
「あ?」
視界が変わった。ちょっとした浮遊感で、俺は投げられたという事を知った。
そして、俺は雪ノ下に覆いかぶさるような体制になっていた。
「本当に」
制服のネクタイを思いっきり引かれて、俺は雪ノ下の唇にキスを強制された。あまりに力が入っていたものだから、歯と歯が当たって硬質な音と、口の中が切れて血の味がした。
血の匂いでむせた俺は我に返って、雪ノ下から距離を放そうと思いっきり、両手に力を込めた。
その勢いのまま雪ノ下に下からビンタされた。
起き上がろうとしている所に力を加えられて無様に転がった。
仰向けに倒れて、呆けた思考に遅れたヒリ付く頬の痛みがやって来た時。俺はすべてを理解した。
雪ノ下雪乃は、海老名の依頼を遂行した。
「あなた何をしたか分かっているの!?あなたの行動で!あなたの言葉で、どれほどの人が傷つくと思っているの!!」
雪ノ下の聞いたこともない罵声が飛んできた。
ああ、本当に嫌になるくらいに完璧だ。この場この状況で出せる最適解。ただ一つ欠点があるとすれば、俺が雪ノ下を傷つけた位だ。
雪ノ下がここで俺に罵声を浴びせようがビンタしようが、まったく後に引かない。
今の状況は俺が雪ノ下を襲ってキスしたように見えるだろう。この行動から、海老名はこういうはず、もしかしたら、雪ノ下は先に仕込んでいたのかもしれない。内容はこうだ「あんなことをするなんて、ちょっと今は、恋人とか作るって事、考えられないかな?」
そして、海老名と戸部の狙い狙われの関係は解消される。雪ノ下はクラスカーストのトップ層だ、だが、それは噂として流れることは無いだろう。それは、葉山が許さないし、雪ノ下は別のクラスのカーストでは最上位に君臨している、忘れがちだが、戸部もカーストでは上層の立場だ。
これが、下層の人間であれば引きずり下ろすために噂するだろうが、上層の間であれば、噂の流布もメリットがないからリスクは低い。
その理解を確実にするために横目で戸部達の顔を見た。
戸部を見守る人間たちは、心配そうな顔をして。
海老名さんだけは、ドン引きしているような顔をしていた。当然ではある、ここまでするか?普通。
長い間、雪ノ下は俺を罵倒した。もしかしたら5秒にも満たないかもしれない、もしかしたら3分も掛けたのかもしれない。そこまで理解しても、そこだけは分からなかった。
「あなた達、このことは他言無用よ、何かしていたのは分かるけれども、葉山君今日の所は帰ってくれないかしら?それと、戸部君、ごめんなさい」
こういう時は首魁を討った方が良く効く。葉山がすべて撤収させたのを見て俺は立ち上がった。
「やられた」
そこで残っているのは俺と雪ノ下と由比ヶ浜。
振り返って、俺は雪ノ下にそう言った。本当にすごい、効果も実行する度胸も全部俺にはない物だ。
裏切りという感覚が勿論の事あった。普通だったら、しても居ない強姦未遂の濡れ衣で、怒るのは当然の事だと思う。
「じゃあな」
だけど、それ以上に素晴らしい解決を見た清々しさで、後腐れなく俺はこの場を去る事にした。
「比企谷君、待って」
「なんだ」
それを雪ノ下が止めた。
もうどうだっていい。気があるとか気がないとか、誰が好きだとか、誰が嫌いとか、俺が嫌われようが、俺が好かれようが、どうだっていいんだ。
「…………ごめんなさい」
「謝る必要なんてないだろ」
俺に謝っても意味はない、結局俺は一人ぼっちから変われなかったのだから。
「私が謝りたいって思ったから」
「そうか」
許す事も、謝る事も、一人じゃ出来ない。
家族以外は一人だったから、俺は家族に向ける許し方しか知らない。これまでの俺の社会じゃ敵や他人だらけで、嫌いな人間や家族に向ける謝罪しか知らない。
そんな、俺が友達に向ける許し方なんか知るはずがない。
これ以上は無意味だ、俺はこの場を立ち去ろうと、歩き始めた。
「待って」
「なに」
その歩みを止めるように俺の袖を雪ノ下が引っ張った。さらに次の言葉で思考も足止めを喰らう事になる。
「私は今も貴方の事が好きよ」
だろうと思った。さっきの作戦には穴がある、それは雪ノ下の体裁だ。
だが、俺と噂になろうが、本当に好きならばなんの問題も無い。彼女の性格上堂々と付き合っていると公言する…………俺がこんな事を思うのもおかしな話だ。答えられないのだ、俺は、答えずに傷つけてしまった先輩がいてこんな結果になったのだから、彼女らに答えを渡す自分が許せないのだ。
「でも、嫌いよ」
「は?」
「目が腐っているし、ネガティブな言葉を簡単に吐く、自己否定し過ぎで自己肯定感なんてひとかけらも無い。そんな所が嫌いよ」
何を言いたいのか分からない。そんな経験は先輩の言葉で位しか無かった。
「だけど。どれだけ時が経とうとも、どんな形であれ私は貴方の隣に居たいと思うわ」
「…………そんなの、明日になったら分からないだろ」
「そうね、そうかも知れない。でも、私は由比ヶ浜さんとあなたの事は、きっとどんな時でも、私の人生について回ると思うわ」
俺はその言葉を否定できなかった。やっぱり、振り切ろうとしていたこの状況に甘んじている自分は、過去の積み重ねで出来た物だ。そんな自分は自分であることを変えられる訳が無い。どれだけ俺の中の先輩を振り切ろうとしても、ついて回っていたじゃないかと、今更ながらに気が付いてしまった。
「でも」
そう雪ノ下は言った後、言葉の端々に嗚咽が漏れていた。
「でも、由比ヶ浜さんも比企谷君も、今…………私から離れるのは、耐えがたいって思うのよ」
雪ノ下は俺と由比ヶ浜を引き寄せ俺と由比ヶ浜を一緒に抱きしめた。
「これは私のエゴよ…………貴方達と友達でも、恋人でも、敵でも、嫌な人でも良い、ただ、居なくならないで」
そう言った雪ノ下の顔は涙で濡れてみっともない顔になっていた。俺にはよくわからないがそれは、由比ヶ浜も同じような顔だった。
二人の片手が、痛い程背中に食い込んで放したくないと訴えてる。その痛みは俺にとって眩しくて、さらに、受け取ってはいけないと思わせた。
「…………ヒッキー、私もそう思っている。たぶん、どこかで別れちゃうかもしれないけど、それは今じゃない」
由比ヶ浜がそう言った。
「俺だって…………」
そう思っている。と言おうとした瞬間言葉が詰まった、それを言える資格がない、目の前にある関係がどれだけ眩しく熱を持った関係性であろうとも、今の俺がそれにあこがれる事は許されない。
「分かんないけど、分かるよ…………言いたくない事も、言いにくい事も、私も告白だって一人じゃ出来なかったもん。ヒッキーの言いにくい事を話す相手には、私達は成らないかな?」
「ッ!?」
俺は「告白なんて一人でやるものだろうが」と戸部に言った。
俺が間違っていた。罪の告白も恋の告白も一人じゃ出来ない。誰かに心を押されて、誰かにやる物なのか。
全く、だからこれまで俺は一人だった。そんな事できる訳が無い。だが、今やらなければ同じことを繰り返すだけだ。
「……俺は、傷つけたくない人を、俺が原因で傷つけた。それがたまらなく嫌だった」
そうだ、傷つく事を忘れて、傷つける事を恐れた。それが俺の罪だ。
「お前たちだって傷つけたくない、俺が原因だったら猶更これ以上はダメだろ」
そうだ、俺の罪を恐れた、俺のエゴだ。
「だから、もう放してくれよ…………」
そう言い切った数秒後、由比ヶ浜が俺の両手の甲を包み込むように握った。そのまま由比ヶ浜自身と、雪ノ下を同時に抱きしめるように、俺の手を導いた。
「バカな事を言った…………すまん」
「…………いいよ」
突き放す手しか知らなかった。だけど、先輩から寄り添う手を教わった。寄り添うだけでは癒えれど守れない、突き放すだけでは守れど癒えず。
今は、我儘のような求める手を知った、綺麗ごとだらけの導く手を知った。その事実だけで、今は十分。
俺は、この二人の…………いや、俺を構成する過去の出来事。
傷ついた小学生時代、跳ね返った中学生時代、癒された今。
短くて長い、俺の間違った部活動選択を、許す事が出来たのだろう。
◆ ◆ ◆
そして、修学旅行はつつがなく終わった。昨日の事は何もなかったかのように、京都から千葉に向かう名残惜しさをかみしめるようにした、同級生達が居た。
そんな同級生の目を盗むようにして、また一人になりに行くように、京都駅の屋上に向かった。
いや、結果的にそうなっただけであって…………いや、しかしなんで一人になりたい奴に限って屋上に行くのか?なに?お前煙なの?
「よう」
「比企、強姦魔君」
「ぶっ殺すぞ」
そこには、今回の事件の立役者、海老名が居た。
「雪ノ下さんにも仄めかした私も悪いんだけど。あそこまでしてくれって、頼んだ覚えはないんだけど?」
「そりゃ、お前の事なんかどうでもよかったんだよ」
そう言うと、苦々しい顔をして、顔をゆがめた。
そう、雪ノ下はやさしさなんかで行動なんかしていなかった。海老名の依頼を守る、そして自分自身の失いたくない関係を守る、その二つを両立させた行動があれ、というだけに過ぎない。
「…………そういう事、普通言う?」
「俺はサッカー部のマネージャーだからな、そのくらいの愚痴吐いたっていいだろ」
「でもなんで、本当にあそこまで」
もうちょっと穏便な方法で、やると思っていたんだろうが…………。
雪ノ下はどこまで行っても少女である。
自分の世界と自分の理想をどこまでも追いかけて、今は誰かと手を繋いで自分の世界がちょっとばかり広くなっただけの少女だ。
だから、それ以外はどうでもいい。ルールや義理を守るのも、それらを守るのが理想の自分だから。あのまま告白を成功させていたら、由比ヶ浜という手を繋いだ人の顔が曇るかもしれないから。だから、それ以外は手段を択ばない。
「なあ、お前、自分の事好きか?」
「…………今は、少しだけ嫌い」
「そうか、俺は俺の事好きだ」
そういうと、海老名は顔を俯かせた。
「俺はどんな時でも俺を嫌いにならなかった。だけど」
「俺の評価が嫌いだ、友達が居ない、目が腐ってる、独りぼっちの可哀そうな奴。そんな周りからの評価が嫌いだ」
「俺の行動が嫌いだ、友達が居ないからいじけて、目が腐っているから俯いて、可哀そうな奴だからそんな風に振舞った俺の行動が嫌いだ」
「俺の周りが嫌いだ、そんなのだから関係ない奴まで嫌いで………好きになっていた」
「お前の嫌いな物はなんだ、お前はお前を嫌えないはずだ。そうじゃなきゃ、あんな事頼みもしなかったはずだ」
「やさしさは麻薬だ、何度でも何時までも居たい場所。お前にとって、葉山達が居る場所がそうであるように」
今、海老名の顔色はうかがえない、顔を覆ってしまった。
「……俺は捻くれちまったからそんな周りがやさしさに見えてしまった」
「靴に画びょう、机にカエル、教科書は破れ、罵り嘲り、仲間外れ、物を隠されるなんてしょっちゅうだ。そんなのでも、他人とのつながりだと思ってしまった」
「お前の選択に間違いなんかない、だから何が好きで何が嫌いかをちゃんと見極めろ」
俺の言いたい事はもうすべて言い切った。俺は、そのまま踵を返して、この場を後にした。