俺はサッカー部のお仕事を大体終わらせて来た帰り道、少し様子が気になったのと使った器具の片づけの準備をしに家庭科室へ戻っていった。とりあえず試作マッスポはきちんと処分しておいたし誤飲の可能性はない。
それに以前の買い出しに砂糖と小麦粉を買っていたのを思い出したので、それを届けに行ってやる意味でも寄っていくことにした。前に作った時の先輩が残したレシピも先ほど部室の掃除を行った時に回収しておいたし、少しは力になるはずだ。
クッキー作るのもただじゃないが作るのに相乗りさせてもらうぐらいはいい。と思いたい、大丈夫だよな?
そして、俺は家庭科室に入った。中では頭を抱えた雪ノ下と苦笑いしながら頬を掻いている由比ヶ浜の姿が見えた。中から焦げ臭いような匂いがするが、何でもできそうな雪ノ下がついていながら焦がしたのか?
うっす、と言いながら家庭科室に入った。そこで初めて俺の存在に気が付いたようで、二つの視線がこちらに向かっていた。
「あら、どうしたのかしら?」
「少し相乗りさせてもらおうと思ってな、ほら、材料」
「失敗するのを見越したような周到さね」
「まあ、俺も最初やって焦がしたしな…………」
めっちゃ笑われたのは記憶に新しい。二度目は普通にできたが、あまりにも長く笑うものだから腹を立ててしまった事がある。
由比ヶ浜を見ていると、泣きそうな顔をした子犬のように懇願するような顔でこちらを見つめてくる。不覚にもドキッとさせられてしまったが、たぶん男子目線からの声を聞かせてほしいのだろう。俺は由比ヶ浜のクッキーを見た。
「これは…………なんだ?」
「クッキーだし!」
「すまん、俺には匂いをよく取ってくれそうな物体にしか見えないんだが?」
「ありがた迷惑の塊といっても過言ではないわね」
心の中に押しとどめておくが、完全に炭だった。どこをどう見ようが炭だった。
「こうなるって何が起こったんだ?」
「まず、目分量で小麦粉を図ってたわ。図らずもちょうど二回分だったからちょうどよかったけれど」
「えへへ~」
ほめてはいない。
「次に目を離したら冷蔵庫にあった桃缶を入れてたわ」
「おいしくなるかと思って……………」
ごめん。冷蔵庫の桃缶は俺が持ち込んだ、はちみつレモンだけじゃ飽きが来ると思って入れてみようと思ったやつなんだが。使われたならもういいか。せっかく買ってきたのに炭に早変わりというのはずいぶんとさみしい。
「最後にはなぜか焦げたわ」
「ゆきのんはうまくできているのに…………なんでだろ?」
「もしかして、そこのレンジ使ったか?」
「う、うん」
あー、といいながら、一度設定していたオーブンレンジを取り消し、再度温度調整用のツマミを回した。家庭科室においてあるレンジは全部で三つ、一つは昔にぶっ壊れて棚の奥底、あと二つは入り口近くにまとめて設置されている。この二つも、少し古い型と新型があり実は、壊れていないほうは少し古い型である。
新しい方はツマミを回し、温度設定をするものなのだが、設定画面の表示が液晶でなおかつデジタル表記なのだ。もうお分かりであろう、デジタル表記の真ん中の横棒がすべて消えて3が1に見えてしまう現象が発生する。以前そのことを忘れた家庭科の先生がボヤ騒ぎを起こしかけた事を思い出した。
「まだ、お前のせいではない…………が、話を聞いている限り糖類の入れすぎ、桃缶が原因だな」
「うっ…………ごめんなさい」
「俺に謝るな、食材に謝れ。どれ、うんまずい」
何かこう真っ黒こげになってしまった可哀そうな小麦粉の塊に、どことなく俺は自己投影しているような気がしてならない。見ろ、このニコちゃんマーク型で作ったであろう可哀そうな小麦粉を。周りの熱という圧力に歪められ元の笑顔なんて見る影もなく、へそ曲がりな笑顔になっていた。ずいぶんと気持ち悪い笑顔で映画スマイリーに出てくる顔でも作っているのかと錯覚するレベル。
もう一つ食べて、奇跡的にうまいなんてことはなく、炭化した砂糖の苦みだけが口の中に広がり、舌の付け根にずっと居残り続けた。練乳かければワンチャンある。
「二回とも同じに作っても焦げたのはそういうことだったのね…………」
「マジでか」
「ええ、だけど、これ以上分かりやすいように説明するのも難しいわ…………」
「それなんだが、由比ヶ浜これ見て作ってくれないか?」
「う、うん分かったやってみる」
俺は、先輩のレシピを手渡した。
一つ上手くいかない原因として、口では言わないが雪ノ下の説明もあるのではないかと推測する。こいつの説明は理的で順序立てた説明をするのだが、感情に訴えかけるということがない、頭では理解しているが感情で理解できないということが雪ノ下と話して感じる事があるのだ。
だが、先輩はそんなまどろっこしいことはしない、このレシピは関西弁にしたら大阪のおばちゃんになるぐらいの大雑把な説明しかしていない『バッっと入れてガーってやればええねん』という文言はレシピの中で3度出てくる。それでも、感情に訴えかける伝え方をしても、基本的なことを省略せずに書いている、エンターテインメント性がある料理本といった方がいいだろう。
実際にレシピを見ながら作ったことあるが2、3回笑ってしまうほどには面白く、当時はこれをみて楽しんで作ったが楽しむこと自体が負けたような気がして、努めて無愛想な顔で作り切ったことがある。
「見たところ大丈夫そうね、どんな魔法を使ったのかしら?」
「ん?話してなかったか、マネージャーの先輩が書いたレシピなんだ。俺は何もしてない」
「そう、由比ヶ浜さん少しそのレシピを見せてくれるかしら?」
と言ってそのレシピを見たとき、雪ノ下の顔が歪んだ。俺も初めて見たときは同じ感情を抱いた。
「よく由比ヶ浜さんはこれを見て作れるわね…………」
「お前の説明もあったからなんだが」
確かにわかりやすいというところもあるが、最初に説明されないとよくわからないからな、しかも一回作れば流れを知れる。雪ノ下の説明に必要だったのは共感、それを補うための先輩のレシピだ。
なんか、偉そうなことを思っているが、俺はただレシピ持ってきただけなので、とんでもなくいたたまれない。そういえば俺が料理をするとき、もしくは料理にかかわるとき、何か居たたまれなさを感じるのは俺の人生においてデフォルトなのだろうか?
最初にその感覚を味わったのは小学校の時、今では家を空けがちというか居る方が珍しいが、当時は親もそこそこに家に居たのだが、ちょうど俺が小学校に入ってからから仕事が両親ともに忙しくなったらしく、夜も留守にすることが多くなっていた。そこで俺は兄として料理の腕を振るった。平均的な小学生と比較すればずいぶんと旨いものができたと思っては居るが、小町の渋柿を食べたような顔を見て、俺の胸中は針の筵だった。
そこから時が飛んで、小学校高学年になって数度の家庭科での調理実習でのこと。班分けが男女混合になっていたが、なぜか俺一人だけしか男子は居ない班分けになっていた。「せんせ~、男子が仕事しないんですけど~」という無邪気な悪意によって音速で班内ヒエラルキーが最底辺にまで落とされた。
現在では、ゴミいちゃんと呼ばれながら妹が作っている食事をただむさぼっているだけだ。ある時を境にキッチンに入れてくれなくなったのだもの、仕方ないよ…………。
しばらく待つと、ようやく生地が焼けてきたようで、あたりにいい匂いが充満してくる。先ほどの可哀そうな小麦粉とは比べ物にならないな。
「出来た!」
「どうしてこのレシピで…………」
「まあ、気にしない方が吉、考えるだけ無駄だ」
考えたら考えただけ深みに嵌るような人だ、そして実際には何も考えていないのが性質悪い。
「ヒッキー!ゆきのん!ありがとう!」
「「どういたしまして」」
ハモった。おい、悪かったから、人殺しそうな目でこっちをみるな。あと由比ヶ浜はヒッキーって言うな、自称しているだけならいいが言われるとキツイから。
「これで依頼完了ね」
「そうだな、っと」
俺は席を立った、そしてある場所に向かおうとしたとき声をかけられた。
「ヒッキーどうしたの?」
「ん?ああ少し…………」
特に引き留められることもなく、俺は家庭科室を出た。
◆ ◆ ◆
「はぁ……………はぁ…………」
男子トイレに、籠り彼岸島のごとく息を荒げている者がいた。俺だ。怪しいやつだと思われたくないので、全く使われていない部活棟の最上階の男子トイレを使っている。
「うえっぷ…………」
ここでこうしているのは可哀そうな小麦粉を食った副作用、つまり猛烈な吐き気だ。何がひどいって、口の中に居残る焦げの苦みと時折来る桃のフレーバーが全くかみ合って無く、そして糖分を過剰摂取したときの酩酊感が味覚と体で拒絶反応を起こす。マッスポの瞬間的に来る吐き気とは違い、量を食べることによって強さを増すじわじわと体を蝕む毒のようだった。
「くそっ…………」
自分の浅はかさをいまさらながらに悔いていた、確かにすべて食べるべきだとは思った、それにまずいものを食べる耐性はついていると過信していた結果がこれだ。滲む汗、這いよる悪寒、時折鼻に通るフルーティーな焦げた匂い。
命までは取られないと思うが、それでもこれから起こる俺への体への影響は計り知れなく、運命に身を委ねるしかなかった。
まさに、運命とロングテイスティング(長く味わうと死ぬ)だった。