問題の酒屋は、人里の西側にあった。飲酒に年齢制限などない幻想郷にあって、霊夢も時折利用する店であった。霊夢の場合は自ら嗜むだけではなく、祭事に御神酒を奉納する必要もあるので、それなりに値が張る酒を買うこともままある。それだけに、酒屋からすれば彼女は得意客の一人でもあった。
「ご主人、いますか~?」
午後も半ばを過ぎて、そろそろ開業する時刻に霊夢はそこだけ真新しい戸板を叩いて声を掛けた。
「ああ、巫女の嬢ちゃん、これは有難い」
顔を出した店主はほっとしたように彼女を店の中に案内した。店内は極めてシンプルな構造で、両端に酒瓶を並べた棚が、真ん中には干物などの摘みが積まれている。戸板の半分だけを開けた状態なので、店内の片側は日の光が入らずに薄暗い。
「紫から話は聞いているけど、改めて説明お願いできる?」
「おやすい御用で」
霊夢のことをいつも巫女の嬢ちゃんと呼ぶ店の主人は、四十代も半ばに差し掛かった妻子持ちである。妙な噂が界隈で広がったら家族が飢えかねないのを霊夢も分かっているので、割と真剣に話を聞いた。ご主人の話は大筋において紫の話した通りである。だが、ご主人がそう言えば、と付け足した。
「やっこさんが出ていくとき、鈴の音がしやしたね」
「鈴?」
「ええ、ごく普通の、鈴の音がどこからか聞こえてきやした」
う~ん、と唸った霊夢は、少し考えこんだ。そもそも鈴というのは魔除けの意味もあるのだ。そんなものを妖怪が身に着けるだろうか? いやしかし、と同時に思う。ここは幻想郷だ。常識に囚われてはいけない。
「ちょっと聞いたことないかな。今夜張り込むから、家族と奥に控えてて」
「わかりやした」
「じゃあ、また夜にね」
そう言い残して、霊夢は酒屋を後にする。
夏場は農家として働き、冬に酒造りをするのが杜氏の常である。春には造りたての酒が店の棚に並ぶ。だから酒屋がどうなろうと杜氏の酒が尽きない限り、人里に卸される酒はどこかで入手できるのだ。
とは言っても、仮にその酒屋が妖怪に襲われて店じまいをしたらどうなるか。他の酒屋も同じ妖怪に襲われ始め、ついには人里中の酒屋が廃業に追い込まれることもありうる。このような異変は火種が小さいうちに解決するに限るのだ。
霊夢は人里の酒屋、居酒屋、卸問屋を一通り巡ってから、ほかの場所には妖怪が現れていないことを確認した。このまま夜まで人里をぶらついて待機してもいいのだが、店主の店じまいまでまだ二、三刻ある。これだけの時間があれば、調べものもできよう。
さて、幻想郷の妖怪に詳しいと言えば稗田阿求。……彼女は風聞録を記録するためか、幻想郷中を歩きまわっていて捕まらないことも多いのだが、まずは訪ねてみよう。
稗田家は幻想郷でも指折りの名家である。代々の稗田阿礼の転生によって、その蔵書も財産も使用人も次々と増えていったようだ。貧乏巫女の霊夢としてはうらやまけしか……こほん。
「すみませ~ん、霊夢ですけど~~、阿求はいますか~~?」
突然の霊夢の訪問は珍しくもないので、立派な構えの門の向こうからその声が聞こえてきたとき、使用人は大して手間もかけさせずに霊夢を中に通した。
「主は自室で何やら認めておいでです。少々お待ちください」
広大な枯山水の庭園を望む客間に案内され、香り豊かな緑茶を味わっていると、少し経ってから阿求が姿を現した。
「久方ぶり……でもないけれど、元気にしていた?」
対面に腰を下した阿求は、作業で疲れ気味なのか肩を叩きながら霊夢に話しかける。
「元気よ。ごめん、仕事中だった?」
「まあ、いつもの執筆活動だから。時間はいくらでも調整できるわ。最近は目新しい異変も妖怪も昔より減ったしね」
これで減ったの~!? という霊夢の内心の驚きはすぐに阿求に伝わったらしい。霊夢の顔を見てくすくす笑いながら、
「あんたたち博麗の巫女のお陰でしょ……それより、今日はどうしたの?」
「あ、ああ、そうそう。異変……というほどじゃないけどね」
霊夢の説明を黙って聞いていた阿求は、少しの間考え込んでいた。腕を組んで両目を閉じ、何事かを思い出そうとしていたが、突然「あっ」と叫んで霊夢に付いて来るように言った。
阿求に連れられて、霊夢は稗田家の膨大な資料を保管している、幾つもの倉が立ち並ぶ中庭にいた。
「ええと、どこだったかしら」
阿求が歩きながら呟いている。この全部に代々の稗田阿礼が書き記した古文書やかき集めた歴史資料が蓄えられているらしい。
「多分ここだったと思う」
阿礼が端から三番目の倉に入り、霊夢もそれに続いた。蝋燭の頼りない明りが照らす中で、阿求がとある書庫から一冊の書物を取り出した。和綴の、題も薄れかかったその書を開き、何項目かを開いて霊夢に見せた。
「なになに、『鈴彦姫』?」
霊夢が目を落としたそこには、大体このような事が書かれていた。
【鈴彦姫────鳥山石燕の「百鬼徒然袋」にも記載された妖怪の一つ。頭部に神楽鈴を載せた女性の姿をしている。石燕は「かくれし神を出し奉んとして岩戸のまへにて神楽を奏し給ひし天鈿女のいにしへもこひしく夢心におもひぬ」と記している。
「神楽を奏し給ひし天鈿女」とは、日本神話で天岩戸に隠れてしまった天照大神を引き出すために活躍した女神、アメノウズメを指すと思われる。
人の世から忘れられ、妖怪化した彼女が幻想入りしたと考えられる。初めて幻想郷に姿を現した当初、幻想郷から夜をなくそうと鈴を鳴らし続けるが、第〇〇代博麗の巫女、博麗霊歌により調伏。以後霊歌に従い、人里の作物が枯れないように日照を操るなどして貢献するも、霊歌の死没とともに消息を絶つ】
「これ、二百年も前の話じゃない」
霊夢は年代を確かめて呆れたように言った。
「この妖怪がまた姿を現して、お酒を集めてるっていうの?」
「お酒はどうか分からないけど、鈴を鳴らす妖怪といえばこの記録が一番しっくり来るのよね」
う~~ん、と霊夢は腕を組んで唸った。
「もしこいつがまた姿を現したとして、酒を持っていく可能性が高いのはどこかしら?」
「それは…………」
そろそろ、夕闇が迫りつつあった。