ヴワル魔法図書館。紅魔館の地下にある広大な空間に、何百万冊という魔導書がぎっしりと詰め込まれている。
「小悪魔、ここに書いた本を取ってきて」
「あ、は~い!!」
リストを手渡された使い魔の小悪魔が、ばさばさと翼を羽ばたかせて本棚の向こうに消えた。
館主レミリアの親友にして食客でもあるパチュリー・ノーレッジは、この魔法図書館で睡眠を除いたほぼ丸一日を過ごす。移動が面倒だからと図書館裏口近くに自室を借りるだけでは飽き足らず、その裏口付近に大型のテーブルを構え、何十冊もの魔導書を載せて日々魔法の研究に勤しんでいるのだ。
幻想郷を代表する知識人にして最高格の魔法使いではあっても、未だ実現できていない課題は幾つも存在する。その一つが「空間拡張魔法」である。紅魔【城】と呼んでも差し支えない規模と威風を誇る紅魔館だが、内部空間はメイド長十六夜咲夜の能力によって、物理的制約を大きく超えて拡大されている。
この図書館自体が、物理的な容積の30倍近くも広くなっている。図書館のみならず、レミリアの居室やその妹、フランドール・スカーレットの部屋、それらに至る迷路のような廊下など、数え上げれば十を下らない箇所が二十四時間、年中無休で空間拡大の恩恵を受けている。
それは一方で、メイド長の心身に大きな負担をかけていることを意味する。見かねたレミリアやパチュリーが無理をするなと何度も忠告したのだが、本人は「大丈夫ですよ」と言って取り合わない。尤も、その恩恵を享受しているパチュリーとしては即座に空間拡張を解除されると、それはそれで困るのではあるが。
「あのままじゃ、あの子……」
今、図書館で魔導書を広げるパチュリーの目の前を浮遊しながら、レミリアは努めて冷静に話していた。
「三年持たずぽっくり逝くわ。さっきね、少しだけ血を飲ませて貰ったのよ。愕然としたわ。一か月前より、味がすぐ分かるくらい薄くなっているんだもの」
パチュリーは魔導書から目を上げてレミリアを見つめた。レミリアは昔から素直じゃない。紅魔館当主としての矜持がそうさせるのだろうが、本当は内心かなり取り乱しているのが分かる。
「それで、どうして欲しいの?」
「咲夜の負担を減らしてあげられない?」
「そうは言っても、本人が忠告を聞き入れないんじゃどうしようも…………」
「この館の空間制御、魔法で何とかならないかしら?」
「ああ、そういうこと…………」
この問題は、レミリアから何度か仄めかされてきた。だが、月人の科学技術ならまだしも、遥かに劣る人間の魔術理論でそれが可能なのか。そもそも時空間を制御している咲夜本人ですら、その原理を理解していないのだ。
パチュリーもそれについては一度手を出しかけたのだ。だが、借り受けた咲夜のスペルカードを見た瞬間に戦慄を覚えた。かつて見たことも無いほどに難解な魔術コードが幾重にも織り重なり、脳内の神経細胞ネットワークのように複雑な共鳴構造を有していたのだ。魔術書として最も難解とされる「ネクロノミコン」すら、幼稚なコミック程度にしか思えなくなるほどに。
(ありえない…………)
この複雑極まるスペルカードを自在に操る彼女は、天才という言葉では表現しえないほどの逸材である。もはや神の領域に片足を突っ込んでいる才能なのは間違いない。
その時に受けた衝撃、背筋が凍り付く程の驚愕は未だに忘れられずにいる。それでも、スペルカードの控えを魔術光子格でコピーして日々解析を続けていたのは、せめてもの魔法使いとしての矜持だった。
「レミィ…………」
レミリアはいつの間にか、対面に腰を下ろして腕を組み、じっとパチュリーの様子を伺っていた。今回の彼女は本気だ。友人として、ここで引くことはできないと悟る。
「やってみてもいいわ」
ほっ、と少し緊張した顔を綻ばせたレミリアに、パチュリーは念を押した。
「でも、他の魔法研究はほぼ出来なくなる。今までのように、あなたの思い付きで宇宙ロケットを作ったりできなくなる。宜しい?」
「当然よ。そんなもの、河童にでもくれてやればいいわ」
(呆れた…………)
月に行くと決めた時はさんざん人をけしかけ振り回した癖に……。だが、これが本当のレミリアなのだろう。彼女は身内にはとことん甘いのだ。たかが人間のメイド長などと切って捨てるような冷酷さは持ち合わせていない。
(私はね、レミリア────)
パチュリーは密かに思った。
(そんなあなただからこそ、あなたが望むことは何でも叶えたいって思うのよ)
だが、そんな思いは顔には出さない。
「レミィ、一つ頼みがあるのだけど」
「なに?」
「正直な話、私一人では難しいかも知れない。あと十年くれるならまだしも、事は急を要するのだし。オモイカネに知恵を借りるべきだと思う」
途端、レミリアは難しい顔になった。月人たるオモイカネこと八意永琳は、見た目こそ二十台後半と言ったところだが、推定年齢一億歳以上とも言われる。人間を遥かに超える英知を誇る月人にして、「月の頭脳」とまで言われる超が付くほどの天才であり、知恵者であり、賢者でもある。
だが、レミリアが面白半分に月を襲撃した経緯もあり、かつ永琳が咲夜と同等の時空間制御能力を持つこともあって、レミリアは彼女に好意を抱いていなかった。そもそも永夜異変の際は敵同士でもあり、先方もこちらを良くは思っていない筈なのだ。
「空間制御魔術は、時間制御魔術でもある。成功すれば、咲夜と類似した能力を持つ月人にとって脅威と成りうる。永夜異変は終わったとは言え、互いに潜在敵対者である以上、有効な助言が得られるとは思えないけれど」
レミリアの言うことは分かる。しかし────。
「それでも……僅かな可能性であっても、咲夜の命には代えられない」
パチュリーが言わんとしたことを、レミリアは続けて言った。
「いいわ。話は主である私がつける。いずれ咲夜の身体のことは永琳に診てもらわないといけないのだし」
そう、それがもう一つの問題だ。咲夜に飲ませているのは、パチュリーが薬草を煎じた魔法薬、エリクサー。しかし、その奇跡の回復薬を毎日飲ませているにも関わらず、咲夜は日々衰えている。もはや人を不老不死たらしめる蓬莱の薬しか頼るものはないのではないかとパチュリーは思い始めていた。
「お願いね。それと、やはり咲夜には私から改めて話をしておく。彼女、既に寿命をかなり削っているわ。私達が本気だと悟れば、少しは言うことを聞いてくれるかも知れない」
頷いたレミリアは、颯爽と飛び去って行った。すぐに竹林にある永遠亭に向かったのだろう。
「あの、パチュリー様」
小悪魔が頼んだ書籍を両手に抱えて戻ってきた。
「ありがとう。すぐに悪いけど、図書館の本を別室に移動させるから手伝って」
そうだ。まず広大な図書館内の膨大な書物を移動させなければ、咲夜は能力解除に応じないだろう。林立する本棚を見上げるパチュリーの前で、小悪魔が立ち竦んでいる。
「…………あの」
「どうしたの?」
「咲夜さんの話、本当なんですか?」
「聞いていたの?」
「はい…………あの、私……」
涙ぐむ小悪魔にパチュリーは優しく声を掛けた。
「きっと大丈夫よ。いいえ、大丈夫にして見せる」
「はい……でも……」
涙をぽろぽろ零しながら、辛うじてそれだけを呟いた小悪魔の両肩を、パチュリーはそっと抱き寄せた。
小悪魔が使い魔として初めてここに召喚された当初、咲夜から様々な事を教わっていたのを館の誰もが知っている。悪魔の世界でも下位の序列だった小悪魔は最初萎縮していたが、咲夜の適切な助言と励ましのお陰で随分と成長している。彼女にとって、咲夜は先輩であり、友人であり、掛け替えのないお姉さんのような存在なのだ。
「小悪魔、これからバリバリ働くわよ。覚悟はいいわね?」
小悪魔の両目は、潤んではいるものの既に固い決意の光を宿していた。
「はい。頑張ります!!」
思えば紅魔館の住人にとって、静かな戦いの日々が始まったのはまさにこの時であった。