私は、とある人物との待ち合わせ場所である喫茶店の扉をガラガラと開けた。
店内を見回すと白髪混じりの中年の男がこちらに気づき手を上げる。
「やあ、久しぶりだね。沢田君」
「お久しぶりです、月谷先生」
私は、月谷先生のいる席へと腰掛けた。
彼は、私の高校時代の恩師だ。バスケ部の顧問も担当していて、当時の私を全国大会へと導いた名監督でもある。物理学を研究していて、論理的に相手を分析、状況を把握することに長けており幾度となく私は助けられたのだ。
彼なら真奈さんのことで何か分かるかもと淡い期待を抱いて、先日相談を持ちかけた。
「千豊真奈選手の様子がおかしいという話だったね?」
「はい、真奈さんにそのことについて問い詰めても私たちチームメイトには何も説明してくれないんです」
月谷先生は顎髭をさすり、ふむと考えて、
「心当たりはあるのかね?」
「それが全くなくて……」
「まあ千豊選手はポリッツの中心だから、何かと考えることも多いのかもしれないねえ。君たち仲間にも言わないってことは知られたくない事ってことだろう。無理に聞くことが正解とは限らないよ?」
月谷先生は私に諭すように語る。月谷先生の言うことは最もだし、きっと正しい。
……でも、それでも。
「このまま私は真奈さんを見過ごすことはできません。真奈さんは大事な仲間ですから」
真剣な眼差しで月谷先生を見る。迷惑を承知でお節介を焼こうとしているのは覚悟の上だ。
すると、無表情だった月谷先生の顔は次第に崩れていき、参ったとばかりに大声で笑った。
「ははは。君は昔から全く変わらないね。仲間を人一倍大切にする、ひたむきで真っ直ぐな心。うちの選手にも見習ってほしいものだよ」
月谷先生はそれに続けて、
「物事を解決するためには状況を把握することが何よりも大事だよ、沢田君。私は実際に彼女の様子を見ていないから何とも言えないが……。身体的なことか、精神的なことか、はたまたその両方か。彼女の悩みが何なのかによっても対応は変わってくる」
「つまり、私が真奈さんの悩みが分からない限り先に進めない、ってことですか」
「悩みを知るだけなら手はいくらでもあるさ。チームメイト以外で千豊選手と親しい者なら何か知っているかもしれないね」
月谷先生はいつだって的確に物事を指摘し、正しい答えを出してくれる。だからなのだろう、いつもついこの人に甘えてしまうのは。
その類まれなる見抜く力を知っているからこそ、私は最初から相談というより頼みごとをするつもりで連絡した。
「月谷先生、無茶を承知でお願いしたいことがあるんですが――――」
と、その続きを言う前に月谷先生が私の言葉に被せてきた。
「ああ、私に直接千豊選手の様子を見て、悩みを分析してくれといいたいのかい?」
「……流石、月谷先生は鋭いですね」
「なに、冷静に考えただけだよ。最初からそのつもりで私に連絡をよこしたんだろう?」
「そこまでバレてましたか。本当に何でもお見通しなんですね」
私がそう言うと月谷先生はまた短く笑って、
「伊達にこんなに長く教師をやってきたわけじゃないってことさ。可愛い元教え子の頼みだからね、全力で取り組むとするよ」
そして、月谷先生はタバコを一本取り出し口に咥えた。
☆
「出嘉子の恩師なら見学くらい大歓迎やで」
私は、月谷先生が昔の恩師であり練習の見学をさせてもらえないか、とキャプテンである真奈さんに伝えると快く承諾してくれた。
月谷先生が受け持つバスケチームの練習の参考にしたいというのが表向きの理由だ。
だが、本当の目的は真奈さんの悩みを探るため。
騙しているようで、申し訳ない気持ちになるがもう後には引けない。
程なくして、チームの練習が始まった。月谷先生は体育館の端でしっかりと真奈さんを観察している。
パス練習、シュート練習、走り込み。
いつも通りの進行だ。
真奈さんの不調も……改善はされていない。
そして、休憩に入った折に私は月谷先生へと声をかけた。
「月谷先生、真奈さんについて何か分かりましたか?」
「そうだねえ……、動きにキレがないね。彼女、体が動く前に少し迷いが生じているように見える。悩みがあるとしたら精神的なものだろう」
真奈さんの体に異常があるわけではないことに私はホッとしつつ、月谷先生の言った単語にひっかかりを覚えた。
「迷い……ですか?」
「ああ。自信を失っているとも言えるね」
俄には信じ難い話だが、月谷先生は人を見抜く専門家のような者だ。十中八九、言ったことは正しいだろう。
でも……、
「真奈さんが自信を? そんなこと――――」
その時、不意に後ろから声がかけられた。
「出嘉子……。あんたまさかこの先生に私を観察させるために呼んだん?」
その怒りを含んだ声色にビクリと肩を震わせ、振り返ると、真奈さんがいた。真奈さんは、確実に怒っており私を鋭く睨んでいる。
「それは……、真奈さんのことが心配で……」
「ウチのことは心配いらへんって言わへんかった?」
「でも、一人で悩んでる真奈さんを放っておくなんて――――」
バブボォッッ!!!!
私の言葉を遮るように真奈さんは屁を出した。それは、怒りを体現したような音。そして、今までの不満を爆発させたかのようだった。
「ウチのことはもうほっといて!!」
真奈さんはそう叫んで、走って体育館を出て行った。
「真奈さん! 待って!!」
私は真奈さんの跡を追う。その後ろ姿を見失わないよう、ひたすらに走ったのだった。
☆
「ハア……ハア……真奈さん……」
しばらく走った後で、真奈さんの足が止まった。全力で走ってなんとか追いつくことができたものの私の息は絶え絶えだ。
辺りを見回すと、そこはバスケットゴールのある公園だった。
真奈さんは、私の方を振り返らないまま言葉を発する。
「ごめんな、出嘉子、怒鳴ってしもて。ウチのために動いてくれてるって分かってるのに」
「真奈さん…………」
真奈さんの悲しそうな、今にも消えてしまいそうな声。
なんて声をかければいいか分からずただただ時間だけが過ぎていった。
そんな中、真奈さんがポツリと呟く。
「ウチには屁しかないねん」
「え……?」
その一言を皮切りに真奈さんはポツポツと話を続ける。
「ウチがバスケを始めたのは中学の頃やった。授業中に不意に屁が出て椅子を壊したことがあってな。それを見たバスケ部の子に誘われてん。『さっきのオナラ凄かったわね! ……もしかして、バスケに向いてるんじゃない?』って」
確かに椅子を壊してしまう程のオナラを出す人間なんて、誰でもバスケ部に誘いたくなってしまうだろう。ましてや、女子でそれ程のオナラを出すなんてとても貴重だ。
「オナラの才能に恵まれとったウチは、バスケのルールを覚えたらあっという間に強くなった。でも、ウチにあったのはオナラの才能だけ。いくら練習してもそれ以上強くなることはなかったし、全部オナラ頼りでやってきとった」
そこまで、言って真奈さんは言葉を詰めた。そして、空を見上げて、
「やから、努力してどんどん強くなっていく出嘉子を見て色んな黒い感情が湧いてきて。それと同時にウチはいつも屁に任せてプレーするだけでズルしてるような気になってん。ウチはこのまま屁をこき続けていいのかって」
「真奈さん……」
真奈さんは優しい。その優しさから自分自身の黒い感情に向き合おうとして自己嫌悪に陥っていったのだ。そして、真面目すぎるが故に悩み続けてしまった。
(だから私達に相談できなかったんだ……。キャプテンとしての責任感が人一倍強い真奈さんだからこそ……)
「でも結局、悩むだけ悩んでみんなに迷惑かけて。最初からウチにキャプテンの資格なんてなかったんかもな」
真奈さんは自嘲気味に言葉を吐き捨てた。
(私の言葉に、どれだけ意味を持てるか分からないけど……)
真奈さんの背中に私は語りかける。たとえ届かなくても、私の思いだけは知ってほしいという願いを込めて。
「たとえ、オナラに頼ってるんだとしても……、ズルなんかじゃない。それも含めて真奈さんの力ですよ」
「……」
私の言葉に真奈さんは振り返る。そして、私の瞳を真剣に見つめた。
「それと、私たちポリッツのみんなが真奈さんを尊敬しているのは、オナラがすごいからじゃない。真奈さんだからです。真奈さんにしかない強さに魅かれてるんです」
「ウチにしかない……強さ……?」
聞き返された言葉に、私は大きく頷いた。
「自分より他人のために全力で動いてくれる強さ。一人一人周りに目を向けて、全力でサポートする。壁にぶつかった時は一緒に乗り越えようとしてくれる。そこに裏表もなく、ただ純粋にだれかを助けようとしてくれる。キャプテンだからって中々できることじゃない」
「…………」
「真奈さんは、いつも暖かくみんなを包み込んでくれてるんです。試合中だって私達は真奈さんの優しいオナラに包まれてる」
これが、私の思いだ。素直な思いを口にしただけ、真奈さんの悩みの解決にはならないかもしれない。
でも、どうしても伝えたかった事。
真奈さんは、私の言葉には何の言葉も返さず、止めていた足を動かし始めた。
だが、去り際に一言だけ。
「ありがとう」
真奈さんの小さな声は風に乗って私の耳に運ばれた。
☆
出嘉子と真奈が体育館を飛び出した後、その場に取り残された男は感嘆の声を上げる。
「これは……!!」
男は驚きに目を見開き、衝撃に体を動かせずにいた。
『千豊真奈の出すオナラ』
その存在に、男は興味を持った。いや持たざるをえなかった。
――――――その残り屁を感じるため、男の鼻が大きく開かれていたことは誰も知らない。
月谷先生
……虎白高校バスケ部の顧問。天才的な物理学者でもあり、出嘉子の高校時代からの恩師。出嘉子のおっぱいが固まりスランプに陥ってしまった時に、助言を与えた。(過去篇の後の話です)
一話、二話、十話の会話の中で少し登場しています。黒幕です。