ポケットモンスターSM Episode Lila   作:2936

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「彼女」のその言葉は、今も昨日のことのように憶えている。


 次に金のアビリティシンボルを賭けてきみと戦う時。
 その時のぼくはきっと、今とは違う強さを身につけていると思う。
 そして、その強さできみに勝ったそのあかつきには──


「きみに、伝えたい事があるんだ。」


 いつも涼しいその顔にほんのりとさした赤みが、ひどく眩しかった。


 しかし、その約束は果たされることのないまま、十年の月日が流れた。
 

 遠く離れた世界で、それぞれの痛みを抱えながら、二人は大人になった。


 そして今、運命が彼らを再び引き合わせる。


 失ったことを教えるため、そして失ったものを取り戻させるために。


 これはかつて少年と少女であった二人のポケモントレーナーによる、もうひとつの太陽と月の物語。


 


序章 大人になった少年
1.時間と空間を超えて


 

 

──リィィィ・・・・・・・

 

 その響きが全身に広がり、沁み渡ると、ヒノキはまず両足に冷たい水の流れを感じた。

 そこに、景色、音、匂い、さらには味までもが現れた。

 そしてそれらが成すものに気づいた時にはもう、彼は風光明媚な清流の真ん中に据え置かれてしまっていた。

 

 どこまでも心地よいせせらぎに、きらきらと輝く水面、きりりと澄み通った甘く軟らかな水。

 陽の光にその葉を明るく透かす岸辺の木々と、その葉の間を楽し気に通り抜ける風。

 そしてその風が運ぶ、深い深い緑の匂い──。

 

 そうして彼の五感が鮮やかに覚めていったところで、清流に一本のアナウンスが流れた。

 

『ご乗船の皆様にご案内いたします。当便は間もなく、メレメレ島フェリーターミナルに到着いたします。どなた様も、お忘れ物のなきようご注意ください。本日も高速連絡船ニュー・タイドリップをご利用いただき、ありがとうございました。』

 

(着いたか。)

 

 ヒノキは目を開け、ゆっくりと座席を起こした。そこにあるのは秘境の碧空ではなく、連絡船の客室の白い天井と、仄明るい丸いライトだった。

 

 正面の壁のデジタル時計は、8時55分を示していた。これはちょうど12時間前に、彼がホウエン地方のカイナ港からこの船に乗船した時刻にあたる。

 列島では最も近いホウエンからも約3500もの海里を隔てており、かつ未だに空の玄関口を持たないアローラの諸島への渡航は、カイナ港から出ている唯一の連絡船、ニュー・タイドリップ号を利用するのが一般的だ。

 これは、先述の3500海里の間に中継に適した島がほとんどなく、ポケモンによる移動では単純に空路・海路ともにトレーナーへの負担が大きいことによる。

 

──当便の船内放送のチャイムには、テンガン山に生息するチリーンの『いやしのすず』を採用しているため、船旅によるいかなる状態変化もとい体調不良のお客様にあられましても、到着時には必ず心身ともに爽快なコンディションのもと、お旅立ち頂けます──。

 

 船内パンフレットのそんな文句を見た時は特に思うこともなかったが、現実にその効果を体感すると、これはなかなか気の利いたサービスだと感心した。

 実際、ほとんど座り通しの12時間であったが、仙骨の辺りが少し痛む程度で心身の調子はすこぶる良い。特に瞼は寝起きとは信じ難いほどに軽かった。

 彼は決して寝起きは悪くない。が、こうした環境の変わり目には寝つきが悪くなりがちで、それが目覚めに影響するということはままある。

 ちなみに周囲の会話や様子によれば、眠気の他にも船酔いや足の痺れにも効き目があるらしい。

 

(そうか、今からまた月曜の朝なんだな。)

 

 充電ケーブルを抜いた拍子に明るくなったスマートフォンの画面を見て、ふと気づいた。

 アローラより19時間進んでいる列島から来た彼にとっては、「今日」は翌日ではなく、むしろ昨日にあたる。

 文字通り時間も空間も超えて、ヒノキ・カイジュは7度目の冒険の舞台へとやってきたのだ。

 

 

 ◇

 

 

 乗降口に向かって伸びる列は混んでいたが、誰一人苛立っている様子はなかった。

 若いカップルも、精悍なバックパッカーも、にぎやかな家族連れも、裕福そうな老夫婦も。

 その表情は一様にこれから滞在する南国の楽園への期待に満ち溢れて晴れ渡っている。例外はヒノキ一人だ。

 

(やれやれ。浮かれられないのはオレだけか。)

 

 そんな調子でよそ見していたものだから、わずかに列が動いた拍子に、隣の人の荷物を軽く蹴ってしまった。

 

「あ、失礼。すみません。」

 

 反射的に謝ったヒノキに返ってきたのは、彼とは対照的にゆったりとした女性の声だった。

 

「いいえ。私の方こそ大荷物でごめんなさいね。ジャマでしょう?」

 

 その「大荷物」はシルフカンパニー製のサイズもデザインも立派なキャリーケースだった。

 そしてその事は、彼女がそれなりの長期滞在予定者であることを示していた。

 

「あなたもおひとり?ご旅行?」

 

 声の主は品の良い顔立ちと身なりをした老婦人(マダム)で、彼女もまた一人であるらしかった。ヒノキはなんとなく親しみを感じた。

 

「いえ、ちょっと仕事で。」

 

「そう。お若いのに偉いわね。私はね、孫の結婚式のためにカロスから来たんですよ。わざわざこんな遠くですることないのにって思ってたんだけど、いざ来てみるとやっぱりワクワクするものね。」

 

 そういって老婦人は微笑んだ。年の頃は60後半から70前半というところだろうか。笑うとできる目尻のしわが、とてもチャーミングだ。

 

「ああ、それは楽しみですね。良い式になるといいですね。」

 

「ありがとう。あなたのお仕事はどういうご関係?やっぱり観光関連なのかしら?」

 

「いや、コレです。」

 

 そう言うと、ヒノキは腰のモンスターボールをひとつ外して見せた。

 

「保護とか生態調査とか、そういう感じですね。」

 

「まあ、若い研究者さんだったのね。こっちは貴重な種の宝庫だっていうものね。きっと専門家の方からすれば、文字通り宝の島なんでしょうね。」

 

 そうこう話していると急に列の進みが早く感じるようになり、とうとうヒノキ達にも船を降りる番がやってきた。特に何を意識することもなく、老婦人と話しながら乗降口を通り過ぎた彼だったが、その瞬間には思わず声が漏れ、言葉を失った。

 

 それは、アローラという洗礼であった。

 

「!うわ・・・。」

 

 海も、空も、太陽も。

 知っているものとはまるで別物みたいだ。

 彼は決して慣れ親しんだ土地のそれらに不満を感じたことはないが、なんというか、その輝きが違う。存在感が違う。

 なんと眩しく、美しく、それでいて優しいのだろう。

 そして果物と花の香りのする南風は、言葉もなく立ち尽くす二人の間を得意げに吹き抜ける。

 

 潮風をはらんだ帆のように、ヒノキの期待は一瞬で膨らみを取り戻した。

 本当に「いざ来てみるとやっぱりワクワクする」ものだ。

 たとえその渡航目的が、異世界から来た未知の生命体との対峙であったとしても。

 

 

 ◇

 

 

「じゃ、僕はここで。」

 

 話好きな老婦人との会話は結局、彼女の宿泊するホテルの玄関まで続いた。ボーイが足早にやってくるのを確認してヒノキがその大きな荷物を彼女に返すと、引き替えに右手を差し出された。

 

「道連れにした上に荷物まで運んでもらって、本当にごめんなさいね。なんだか孫と一緒に来たみたいでとっても楽しかったわ。お仕事も大切でしょうけど、体には十分気を付けてね。」

 

 ヒノキは快く握手に応じた。上品な白い手袋越しにでも、その手の暖かさは十分伝わってくる。

 

「いや、僕も一人でちょっと複雑な気分だったから、むしろ助かりました。本当にありがたかったです。」

 

「そう言っていただけると嬉しいわ。」

 

 二人の手が離れるのを待って、すでに控えていたボーイが彼女からキャリーケースを預かり、ホテルの中へと運んでいった。ヒノキもサングラスを取り出そうと、しゃがみこんで背中のリュックを中を漁り始めた。しかし、彼女はまだそこを離れない。

 

「?どうかしました?」

 

 老婦人の気配が消えないことに気づいたヒノキは、手は止めずに顔を上げた。

 それでも彼女は少しの間迷っていたが、やがて意を決したという風に、ゆっくり、しかしはっきりと切り出した。

 

「うん・・・あのね。私、船の時からあなたのお顔、何だか知っているような気がするって思ってたんだけど。気のせいかしら?」

 

 一瞬、ヒノキのリュックをまさぐる手が止まった。が、すぐに底からサングラスを引っ張り出した為に、彼女はその小さな動きに気づかなかった。

 

「そうですね。」

 

 サングラスをかけながら、彼は先ほどまでの会話と少しも変わらない調子で応えた。

 

「僕は、奥さんのお顔は今日生まれて初めて知りましたから。きっとそうだと思いますよ。」

 

 そう言って、もう誰だかよく分からない顔でにっこり笑うと、覚えたばかりの現地のあいさつで彼女に別れを告げた。

 

「アローラ!良い式と旅を!」

 

 そして再び一人になった彼は、市街地を後に一番道路の先へと向かった。

 

 

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