ポケットモンスターSM Episode Lila 作:2936
15年前、エニシダにポケモントレーナーとしての素養を見込まれ、バトルタワーの完成記念イベントであるバトル・レセプションに招待されたヒノキ。そこで彼はタワータイクーン・リラと出会う。
バトル・レセプション三日目の朝。
いつものように七時に起床したリラは、身仕度を済ませて厨房に朝食の配膳を依頼すると、そのまま部屋を出た。
(今日も良い天気だな。)
窓の向こうの地上七十階の青空に目を細めながら、廊下の突き当たりへ向かって、ゆっくりと歩を進める。朝の日差しが満ちたその光の道は、本当に暖かく気持ちがいい。
やがて、真鍮の長い取っ手が光る重厚な扉の前に着いた。全身を使ってその扉を引き開け中へ入ると、彼はすぐ前にある一台のPCを起動した。そして軽やかな手つきでキーボードを叩き、この機関室の向こうにある空間の設定にひとつの変更をかけると、PCの隣にあるワープ・ポートにその姿を消した。
彼には、毎朝食事の前に必ず行う日課がある。それは、このバトルタワー最上階の第一の空間であり、来る未来に彼が腰を据える予定のバトルフロンティアの玉座ーすなわち
◇
見渡す限りの、二色の青。
その境目である水平線が、朝日を受けて遥か彼方で輝いている。
そこは、四方の壁と天井が【MODE:TRACE】によって完全に透写された、文字通り天空の闘技場であった。ここに、客席というものは存在しない。その代わりに場内のあちこちに設置された数十台の小型カメラが第三者の目であり、彼らはこのカメラを中継することによってのみ、その戦いの全貌を知ることができる。名実ともに、挑戦者と
ーここに最初に現れるのは、一体どんな
朝日に包まれた、まだ一度の戦いも知らない決戦の場。その真ん中に一人佇み、未だ見ぬ挑戦者に思いを馳せていると、小さな胸は日々の様々なわだかまりから解放され、清廉な気持ちで満たされる。ささやかな、しかしかけがえのない時間だ。
そうして、今日も頑張ろうと思えた彼が闘技場を後にしようとバトルフィールドの外のワープ・ポートへと歩き出した、その時であった。
(・・・・?)
突如発生した背後の存在感に、リラは反射的に身を翻した。
「よお、おはよ。あ、あと初めましてだな。」
今の今まで、誰もいなかったはずのバトルフィールド。そこに、一人の少年の姿があった。
朝日の逆光と目深にかぶったキャップのせいで、表情はよく見えない。しかし、その声と悠長かつ掴みどころのない口調には覚えがあった。昨日の施設案内の際にこの七十階を見たいと挙手した、ジョウトのエンジュシティから来たレセプション参加者、ヒノキ・エニシュだ。
「・・・何か?」
リラはとっさに、胸に湧いたあらゆる言葉の中からもっとも冷静で簡単なものを掴んで声にした。
「ん、いやなに、ちょいと試合前のウォーミングアップの相手を探してたら、たまたまここに出たもんでさ。」
気軽な調子でそう言ったヒノキの傍らには、エスパーポケモンのユンゲラーの姿がある。どうやら、ここには彼のテレポートで飛んで来たようだ。
「つー訳で、今からオレたちと勝負しよーぜ。もちろん
もはや不遜ともいえる彼のその飄々とした態度に、リラの揺らいだ心から苛立ちが少しこぼれてしまった。
「きみは、ここがタワーのどこかー」
「知ってるよ。七十階だろ。」
目の前の少年はこともなげにそう言うと、変わらぬ調子で付け加えた。
「ついでに、おまえが誰かってこともな。」
そう言ってにっと笑った彼に、リラの心は再びその真意の掴めなさに揺れた。しかし、今度は波立った感情をぐっと踏ん張って堪えてみせた。
「・・・なら話は早い。昨日の見学の時に、オーナーに言われただろう?ここは、七十の予選を勝ち抜いた者だけが来られる場所であり、戦える場所だ。そして今のきみは、その資格を持っていない。」
水平を取り戻した理性で、注意深く言葉を選びながら話した。
「や、まあ、それももちろん知ってんだけどさ。でもそれって、ここが正式にオープンしてからの話だろ?そして今は、そうじゃない。」
それは紛れもなく屁理屈であったが、そのくせ一理を含んでいた。そしてその相反する二つの所感に折り合いをつける間が、目の前の少年に「それにだな」という二の句を始める隙を与えてしまった。
「どっちにしろ、オレはタワータイクーンとかのおまえにキョーミはない。そんなんじゃない、
警戒色のように鋭さを増した薄紫の瞳で、リラは目の前のデニムキャップの少年をじっと見つめた。
きみが何を言っているのか分からない。
そう切り捨ててしまえばすむ話だった。
しかし、それをするには彼にはあまりにも思い当たる節を抱えすぎていた。
「・・・残念だけど、それも無理だ。」
全ての尖った感情を飲み込んでリラが静かに放ったその一言が、初めて二人の形勢を逆転させた。
「む、なんでだ。ただのポケモントレーナーとしてなら、七十勝とかカンケーねえだろ。」
対照的に口を尖らせた少年に、リラは落ち着いて続けた。
「そういう事じゃない。そうじゃなくて、ぼくは
「?」
「持っていないんだよ。きみたちのように、自分のポケモンというものを。」
まだ分からないという風に眉根を寄せる彼のために、リラは続けた。
「昨日、オーナーの案内で聞いただろう?このタワーの三十五階の事を。」
そのリードで、ヒノキはようやく思い出した。七十階建てのタワーの、ちょうど真ん中にあたる三十五階。そこはバトルタワーで使用される全てのポケモンを管理する部屋がある為、この塔で最もセキュリティの厳しいフロアであると、確かに昨日エニシダが施設案内の際に話していた。
「それじゃ、あの試合でおまえが使ってた、四つ足の青いドラゴンとかもー」
「みんな、タワー所属のエリートトレーナー達が鍛えた共有ポケモンさ。彼らに特定の主人はおらず、普段はあのフロアで厳重に管理され、連れ出す事ができるのはトレーニングか試合の時だけと決まっている。それはタワータイクーンであるぼくも同じだ。だから、タイクーンではないぼくというのは、ただのポケモントレーナーですらないんだよ。」
彼のその説明に、少年はようやく合点がいったという風にデニムキャップを取り、灰色がかった銀色の髪をくしゃくしゃと掻いた。
「・・・なるほどな。そーゆーことならしょーがねえ。ユン、もどろーぜ。」
そして帽子を被り直し、別れ際に放った一言が再び二人の形勢を元に戻した。
「ま、でも。それでおまえがやっぱすげーやつだってのは分かったよ。」
予想外のその言葉に、リラの心はまた大きく揺さぶられた。そして返す言葉を見つけられない内に、彼にその最後のターンを終えられてしまった。
「じゃーな。タイクーン。」
そう言って現れた時と同じように、彼はユンゲラーと共に一瞬の内に光の中から消えた。しかし、彼らが去ってもなお、リラは自分に宛てられた言葉達を抱えたまま、長い間そこに佇んでいた。
◇
バトルフロンティア宿泊施設一階のカフェテリア。
地方特産の果物から搾られた色とりどりのジュースで満たされたサーバーが並ぶビュッフェスペースの一角で、シェフレラはグラスに鮮やかなブラッドオレンジ色のジュースを注いでいた。
「シェフ、それオレにも一杯いれて。」
背後から急にそう声をかけられた彼は、危うく右手のグラスを落としそうになった。
「ヒノキ!早くからどこに行ってたのさ?ぼく、七時半に部屋に行ったんだよ?」
振り返ったシェフレラは、両手に料理を山盛り乗せた皿を携えた友人の背中に問いかけた。
「朝メシ前の散歩だよ。オレの日課なんだ。」
何食わぬ顔でそう答えると、ヒノキはきょろきょろと辺りを見回した。どうやら席を迷っているらしい。そんな彼の背に、シェフレラは呆れたように眉根を寄せ、鼻で短いため息をついた。
「よくいうよ、昨日はぼくにたたき起こされるまで爆睡してたくせに。それより、はいこれ。」
そう言って両手のふさがった彼のために自分の隣の椅子を引いてやると、頼まれていたザロク・ジュースと共に、一枚の紙を手渡した。
「
トーストを食わえながら、オウム返しのごとくヒノキが訊ねてきた。そんな彼に、シェフレラは胸の中で再び呟いた。よくいうよ、と。
「今日から始まる全員参加のトーナメントの組合わせ表だよ。ほら、早く食べないと。九時前にはタワーのホールに集合してなきゃいけないんだから。あと四十分しかないよ。」
シェフレラは、朝食前の散歩というヒノキの言葉をまるきり信じていない訳ではない(もっとも、日課という点に関しては別であるが)。しかし、それが純粋なただの散歩ではなくむしろ別の目的のためのものであり、かつその目的がトーナメント戦に関する何かであるということには、ほとんど確信を抱いていた。
「ふーん。」
そんなシェフレラの推し測りなどまるで知らないヒノキは、組合わせ表を眺める内に、参加者一人一人の名の下に割り振られている番号に気づいた。その数、ちょうど七十。
「へー。このイベントの参加者って全部で七十人だったのか。知らんかった。」
「今さら何言ってるの。最初の日の挨拶で、オーナーのエニシダさんがちゃんと言ってたじゃない。今回招待した僕らの人数は、バトルタワーの七十階にちなんで七十人に決めたんだって。」
どれほど呆れていても几帳面なシェフレラの説明に、もぐもぐと口を動かしながらヒノキは満足げに頷いた。
「ふうん。てことはつまり」
そこで左手のトーストをザロクジュースに持ち替え、口の中の物をのどの奥へと流し込んだ。
「ここまで行けば、『バトルタワーで七十人抜きをした事になる』って訳だな。」
そう言って彼は、トーナメント表の一番上にある、たった一本の線を指先でくるくると囲った。
何か、良い悪だくみを思いついたと言わんばかりの得意気な笑顔で。