ポケットモンスターSM Episode Lila 作:2936
「彼女」と対面したリラは、再び言葉を失った。
目の前に佇む、美しい一体のキュウコン。
その身体は半透明に透け、既に肉体が失われていることは明らかである。が、リラが真に戸惑ったのは、その点ではなかった。
──去れ。
その念は、カゲボウズ達の餌食となる怨恨の類いではなく、もっと別の感情を思わせた。
もっとも、この聖域に足を踏み入れた自分に対する怒りは確実にある。が、どうもそれだけとは思えない。
何かもっと、切実な困惑が怒りの形を借りて現れているような、そんな印象が拭えないのだ。
そしてその事は、カゲボウズ達がこの洞窟を離れてタワーの方に現れたのは彼女の霊に何らかの異変が起きた故とみた彼の推測が正しかったことを意味していた。
「・・・ぼくはきみに危害を加えるつもりはない。ただ、ずっときみの恨みを食べていたカゲボウズ達がきみの元を離れたその理由が知りたくて来たんだ。恨みに代わる感情が胸を占めるようになった、その原因を。」
しかし、キュウコンはそのリラの問いには答えず、ただじっと彼を見つめている。生身の眼球を失ってなお、その瞳の緋の深さは褪せていないようだ。
(窺われているのか。)
リラは彼女の沈黙をそう結論づけ、行動を起こす覚悟を決めた。たとえそれが勘違いであったとしても、このまま見つめ合っていたところで状況は何も好転しないのだ。
「コンパン!『ちょうおんぱ』!」
『ちょうおんぱ』は、その周波数を調整することにより、相手を混乱させることもできれば、反響から得られる情報で視覚に頼らずとも物体の位置や地形を把握することもできる。いわゆる
その超音波探知の効果は、間もなく現れた。ちょうど背後の祠の真裏に、何かがあるらしいことが判明したのだ。
ちらりと傍らのコンパンと視線を交わす。
少しだけ、時間を稼いでほしいという意図を込めて。
「『かなしばり』!!」
はたして幽霊に金縛りが効くのかという疑念はあったが、彼はその賭けに出た。そしてその瞬間にキュウコンの幽体が怯んだのを確認すると、踵を返し、一目散に祠の裏へと回った。
そこには一見、ただ暗がりが広がっているだけの空間だった。
しかし、それはあくまで
地面に這いつくばり、必死に辺りをまさぐる。そうして間もなく、自分の目にはただ空間でしかないそこに、確かな肉の感触を感じた。
「!これは・・・」
その瞬間、彼の前にその姿を晒したのは、表にいるキュウコンの幽霊とは完璧に対なる存在──すなわちロコンの赤子であった。周りにタマゴの殻の破片が散らばっていることを踏まえると、どうやら生まれて間もないらしい。
(そうか、このロコンを守るために張った『ふういん』が魂の浄化と共に解けていってー)
二年前、彼女はローレルとの戦いで、じきに孵るであろうタマゴをここに遺したまま、命を落としてしまった。しかし、霊体の身では生まれた赤ん坊を育てることはできない。
生まれたことすら分からぬまま死んでゆくわが子の運命を憂慮した彼女は、今の自分が唯一してやれる事として、そのタマゴに『ふういん』を施したのだ。しかし、その『ふういん』と彼女の存在を支える「未練」もまた、カゲボウズ達に喰われる事により日に日に弱まってしまった。そして彼らにその未練を食い尽くされた今、いよいよその存在が保てなくなってきている──おそらくはこんなところだろう。
その小さな小さな身体を、リラはそっと抱き抱えた。それは戸惑うほど柔らかく、温もりも呼吸もあるものの、かなり弱々しい。一刻も早く、きちんとした環境で保護してやる必要がある。
彼がそこまで考えを巡らせた時、頭上の岩壁にぶつかった青い『かえんほうしゃ』が辺りを明るくした。どうやら、コンパンの『かなしばり』が解けてしまったらしい。もう、迷っている時間はない。
その風前の灯火のような命をしっかりと抱え直し、リラは祠の陰から一気に駆け出した。表では、キュウコンの繰り出す炎をコンパンが『ねんりき』で必死に逸らしていた。しかし、地力の差からみてそれももう限界だろう。
「よくやった、戻ってくれ!」
走りながらコンパンをボールに戻すと、リラはまっすぐに帰路に立ちはだかるキュウコンへ向かって走った。彼が腕にわが子を抱えている事を知ったキュウコンは、その双眸に妖しい光を宿す。しかし、目を合わせる事なく彼女まで迫ったリラは、すれ違い様にポケットから一枚の紙切れを取りだし、その幽体に貼り付けるように置き去った。
(ごめん!!)
先ほど、カゲボウズ達をヒノキから引き離すためにタワーの倉庫から失敬した「きよめのおふだ」。それを、念のために一枚忍ばせていたのだ。完全な足止めはできずとも、多少の時間稼ぎにはなるだろう。
比較的平坦な一本道といえど、一つの命を抱えて走るには決して楽な道のりではなかった。腕が不自由な為に速く走れないばかりか、ちょっとした地面の起伏にも体勢を崩して転びそうになる。それでも足を休める事なくひた走った結果、やがて彼は懐かしい海の気配と、その方角に広がる、淡い闇の穴を確認した。
(出口だ!これでー)
自分もロコンも助かる。
その一心でその淡い闇へと飛び込んだ瞬間、リラはふっと全身が予定外の感覚に包まれるのを感じた。
(!!しまった・・・!)
間もなく、彼はとんでもなく重大な事実を思い出した。
無事に出口を目指すことに気を取られるあまり、その場所がほとんど足場のない岩壁の出っぱりであるということを忘れていたのだ。しかし時既に遅く、彼の身体は今や海上十メートルはあろうかという宙空のただ中にあった。
「・・・・!!」
胸の中のロコンが、よりきつく抱きしめられた苦しさでもがいている。
それでも、まだ何の免疫も抵抗力も持たないその身体が海水に侵されるのを少しでも阻むには、そうするしかなかった。
ー本当は、このロコンは置いてくるべきだったのではないか。
信じがたいほど長い一瞬の間に、リラはそんなことを考えた。
その場の感情を堪えて一度あの場を離れ、大人たちに事情を話し、万全に準備を整えた上で再び向かう。
そうした手順を踏んでいれば、少なくともこんなことにはならなかっただろう。
そして仮にそのためにロコンが手遅れになっていたとしても、キュウコンは最初に立ち去れと言った手前、その責任を自分に追及してくることはなかったはずだ。
それこそが、タワータイクーンたる者の判断だったのではないか。
(やっぱり、
優しさは迷いを生み、迷いは戦いにおいて命取りとなる。
だから、戦いにそれを持ち込んではならない。
それは、戦いの前にバトルフィールドの外に置いてくるべきものなのだ──。
常日頃、エニシダやローレルに言われ続けていた事だった。
(だけど)
リラは思う。
もし、この世界そのものがひとつの広大なバトルフィールドであったとしたなら。
その時は、何処にそれを置いてくれば良いのだろう──?
そこで、リラの思考は途絶えた。
「・・・・?」
誰かが、自分の名前を呼んだ気がしたのだ。
(空耳・・・?)
最初はそう思った。
この島で自分のことを名前で呼ぶのはエニシダただ一人であるが、その声には彼の呼び方とは決定的に違う響きが宿っていたからだ。そして
(・・・?)
もうひとつ、奇妙な事があった。
いくら絶望をはらんだ一瞬は長く感じると言えど、いくら何でもこの一瞬は長すぎる。
いや、それどころか、むしろこの感覚は──。
そこでリラは固く瞑っていた目を思いきって開いた。
そして、徐々に遠ざかる暗い海面に、自分の感覚が間違っていなかったことを悟った。
──もしかして。
瞬く間に鼓動が加速する。
胸に広がる温かさが、目頭までも熱くする。
そうして一瞬の内に両目に溜まった涙がこぼれないよう、とっさに顔を上げた先に、彼らはいた。
「おい、リラ!大丈夫か?」
岩壁の上からヒノキが身を乗り出し、自分に向かって手を伸ばしていた。
その傍らには、念の力で自分達を彼の手へと運ぶユンゲラーがいる。
空中でロコンを片手に抱え直すと、リラもまっすぐに手を伸ばした。
そうして間もなく、自分にはない強い力で岩壁の上へと引き上げられた。
「・・・あ」
しかし、彼が礼を述べるより早く、ヒノキが先に口を開いた。
「大体の事情は
ヒノキにそう言われたリラが正面を向くと、そこには暗い洞窟の入り口を背景に闇の中に浮かぶ、あのキュウコンの姿があった。
「・・・このロコンは、あのキュウコンの霊の子どもで。彼女が死んでしまってから生まれて、ひどく弱っている。」
だめだ。ちゃんと説明したいのに、頭の中がごちゃごちゃで肝心な情報が全く盛り込めていない。
「あのキュウコンは島を開発した人間に恨みを持っている上に、ほとんど拐う形でぼくが連れてきてしまったから、とても怒っていると思う。だけど、それでもぼくはこいつを助けてやりたい。だから──」
もう、こんな自分じゃ分からないから。
教えてほしい。
「本物の男の子」なら、こんな時、どうするのかを。
「助けてほしいんだ。」
そう言って、頭を下げるように項垂れた。
もしかしたら、それはタイクーンには許されぬ行為かもしれない。そんな思いが声と瞳を震わせたのが、自分でも分かった。
しかし、そんな不安を文字通り頭からはたき落としたのは、程なくして髪から伝わった、ぽふっ、くしゃりという感触だった。
「おっしゃ、任せろ。でも、あいつはもう怒っちゃいないよ。」
「え?」
みろよ、とヒノキにあごで促された先のキュウコンを見て、リラはたちまちその意味を理解した。
「お前が落ちる時にチビを庇ってたのを見て、そういうことだって理解したらしいぞ。」
いつの間にかその瞳から怒気は消えており、本来の穏やかな優しい表情に戻っている。
「ま、ただ、それならそれで、大事な我が子を託せるほどの
ヒノキの問いに、傍らのユンゲラーが頷いた。
どうやら、ユンゲラーが念によって交信の仲介をしていたらしい。
「それってー」
「もちろん、これによって、さ。」
そういってヒノキは、腰からモンスターボールを取り外してみせた。リラは頷き、腕の中の小さな身体を一度母親の元へ返す。そして、改めて彼女と向き合った。
つくづく美しいキュウコンだ。
儚い幽体故にどうしても非現実的な雰囲気はあるが、それでも豊かな金色の毛は在りし日の輝きを褪せることなく湛え、怒りの消えた深い緋色の瞳は、足元の我が子を愛しげに、切なげに慈しんでいる。
リラは腰のコンパンの入ったモンスターボールを手に取った。
そしてその手を、何の前触れもなくヒノキが取った。
「な、なに!?」
突然のことに戸惑うリラに、ヒノキは事もなげにその手からボールをもぎ取って言った。
「おまえ、シェフにそいつをなるべく傷つけずに返すって約束したんだろ。だから、交換してやるよ。」
そして、傍らに控えている自分の相棒を指して言った。
「キュウコン相手にコンパンで傷つけずに勝つって、ぶっちゃけムズいからな。そいつなら、多少焦がされても構わないって言ってるから。
その言葉に、ユンゲラーがこちらを見て頷いた。
「でも、きみはコンパンのことー」
「知ってるに決まってるだろ。近所のしぜんこうえんでしょっちゅう
傍らで訝しげに目を点滅させるコンパンをわしゃわしゃとなでながら、ヒノキは笑って言った。
「・・・わかった。」
リラもようやく表情を和らげて頷いた。
じんわりと、なにかが胸を温かくする。
「それじゃあ、よろしく頼むよ。」
リラはユンゲラーに声をかけ、頭の中で彼の戦いをイメージした。
ヒノキの予選の決勝で見た技は四つ。
テレポート、かなしばり、ねんりき、スプーンまげ。
これらを駆使してヒノキとコンパンとともに戦い、あのキュウコンに自分達がロコンを安心して委せられる人間であることを証明する。
彼の心臓が再び、どくん、と大きく波打った。
相手を倒すことが目的じゃない。
だけど、絶対に負けられない。
守るべきもののために、誰かとともに戦う。
こんな戦いは初めてだ。
「っしゃあ、行くぜぇ!!」
その腕にまだロコンの温もりを感じながら、リラは先程の自問に自答した。
どこにも置き場がないのなら、胸に抱えたまま戦えばいい。
というより、そうするしかない。
それ自体を、揺らぐことのない強さに変えて。
駆除とは言いながらも捕獲されたコンパンは基本的にはウバメのもりに放されたり、ジョウト各地のむしとり少年達に里子に出されたりしています。