ポケットモンスターSM Episode Lila 作:2936
【前回の要点】
自分とリラの過去をクチナシ達に話し終えたヒノキは、ビッケから彼女のデスクに飾られた写真の話を聞く。
その後、クチナシから彼らの知るリラの過去を聞く。
アローラ地方第四の島、ポニ島。
島の面積の実に99%が未開地であるこの島の中央に広がる荒野には、その日、三人の人間の姿があった。
「──こちらクチナシ。・・・ああ。」
左耳の
「そうだ。少し手間取ったが、836も000も無傷だ。・・・分かっている。」
やがて、50m程先の小高い丘の上で彼は足を止めた。
そして、その場所から苦しげに上下する小山のような巨体を見下ろして言った。
「ちょうど今、終わるところだ。」
◇
その時、その生き物の傍には二人の人間が立っていた。
「・・・本当に、殺しちゃうの?」
片割れである赤みがかった茶髪の少女が、隣の男に訊ねた。彼女はその小柄な身体が完全に収まる、大きな黒い傘を差していた。空は雨の気配はない代わりに陽が射すとも思えない、完璧な曇天である。
「ああ。こいつはこの世界では生きてはいけない生き物。元の世界に戻してやれない以上は、こうするしかないのだよ。」
この世界では生きてはいけない。
それは単純にこの世界にその生態を維持できる環境がないという意味なのか、それともこの世界の秩序を守るためにその命が生きる事自体が許されないという意味なのか。
クチナシと共にこの場に遣わされたもう一人の捜査官、No836は、自らが口にした言葉の意味を正確に把握することができなかった。
「・・・そうなんだ。」
それだけ呟くと少女は巨体に歩み寄り、あまりにも青白い手で黒い皮膚をそっと撫でた。彼女の傍らに立つグレッグルは、既にその息の根を止めるのに必要なだけの力を溜めきっている。そこで836はちらりと腕の時計に目をやった。
「さあ、時間だ。離れ──」
そこで、彼の視界は転回した。
「・・・・・・?」
右の肋が砕ける衝撃と激痛に顔が歪んだ時には、既に身体は宙に浮いていた。
眼下には、もう二度と開く事のないはずの巨大な闇が大口を開けて待っていた。
この一瞬に何が起こったのか、まるで分からない。
だが、もうそれを知る必要もないのだろうなと彼が本能的に悟ったその時、見覚えのある赤色が眼下を過った。
『ガァグゥイイイイィ!!!!!』
凄まじい断末魔に、鼓膜がびりびりと音を立てて震える。
真下の闇の入口が、どす紫の血潮に塞がれてゆく。
そこで彼の意識は途絶えた。
◇
──ドスッ
キリキザンが巨大な死肉に刃を入れる音で、彼は意識を取り戻した。
──ドンッ!
解体された肉塊をワルビアルが脇に放る音で、目が開いた。一度目を閉じ、少しずつ周りの明るさに順応させてから、改めてその光景を捉えた。
かすみがかった視界の真ん中で、クチナシが居なくなった者達を捜していた。
とうに脱ぎ捨てられたコートも上着も、今も背中にへばりついているワイシャツも、全てが紫の返り血で染まっていた。
削がれてゆく巨大な屍の上で吠えるように彼らを呼んでは肩で息をつくその姿は、まるで修羅だった。
ギャアギャアと騒ぐ声につられて目線を上へ向けると、空の高いところでバルジーナ達が円を描くように周回していた。この強烈な血肉の臭いを嗅ぎ付けてきたらしい。実際、この荒野はむこう一ヶ月はこの辺りの
そんな凄絶な光景を、836は地にへばりついたまま、ただ眺めている事しかできなかった。
そんな状況が動いたのは、荒野の奥に見える峡谷の更に奥に陽が隠れ始めた頃だった。
「っっ・・・!!」
突然胸ぐらを掴まれ、836は無理矢理その場に立たされた。はずみで右脇腹に走った激痛に、膝から崩れ落ちそうになる。が、彼を立たせたその人物はそれを許さなかった。
「クチナシ・・・」
鬼気を帯びた赤い瞳が、真正面から彼を睨めつけていた。背筋が凍るような、気の弱い生物ならその威圧感だけで死んでしまいそうな
「ぐぶっ」
右の頬が彼の拳を受けた。
言葉はなかった。
しかしその渾身の一撃に、思いの丈は込められていた。
──この、馬鹿野郎が。
新たな頬の痛みと、再三の脇腹の激痛。その先に、また地面が見えた。
(もう、どうにでもなれ。)
しかし、836に
目の前のクチナシの足の間から見える、解体されて切り開かれた夥しい量の肉塊、臓物、そして皮。
それでもクチナシは、そこから彼らの指一本見つけることは出来なかったのだ。
身体と心に走る激しい痛みに涙を溢れさせながら、836は立ち上がった。
◇
「お前はそこで待ってろ。時間はかけない。」
荒野を後にした二人が島の荒磯に寄ったのは、クチナシが潮水で身体を拭きたいと言った為であった。
「分かった」
836は短く応えた。あの荒野の奥、あの生物が潜んでいた
既に陽は落ち、灯りのない磯辺は夕闇に包まれていた。比較的平らな岩に腰を下ろした836は、荒磯の名に相応しい、砕けるような波の音を聞きながら、ぼんやりと今後の事を考えていた。
おそらく、まずは本部の病院へ入院することになるだろう。そしてその間に、今回の件についての処分が下されることになるだろう。いや、事が事だ、懲戒委員会はきっと既に──
そうしてこの先自分を待ち受ける未来に彼が目を瞑ろうとした、その時だった。
「・・・・・・?」
視界の隅、二十メートルほど離れた岩場の陰で、何かが動いたような気がする。
(・・・ポケモン、か?)
昨日までの彼なら、その程度の平凡な
「ぐうぅっっ・・・!!」
わずかな動きで激痛を発する脇腹を庇いながら、彼は慎重に立ち上がった。岩壁を支えに、ゆっくり、ゆっくりと進む。
やがて半分ほど距離を詰めたところで、夕闇の暗さに慣れてきた目が、目指すものの正体を彼に教えた。
それは、人間の足だった。
「・・・・・・!!」
一抹の期待が、身体の内側に骨が刺さる痛みさえ忘れさせた。
おぼつかない足取りながら、気が付けば岩陰は目の前に迫っていた。そして──
「おい!どこ行った!?海にでも飛び込んだか!?」
吠えるようなクチナシの呼び声に、836は我に返った。そして、出せる限りの声で彼を呼んだ。
「クチナシ!頼む、来てくれ!!人が倒れているんだ!!」
間もなくクチナシが駆けつけた。身体に纏っていた血の臭いは、海の臭いに替わっていた。
「こいつは・・・」
生憎、二人にはこの場を明るく照らすことのできるポケモンはいない。しかしそれでも、今目の前で倒れている人物が彼女ではない事は十分判った。
「・・・う、」
二人の視線が注がれる中、端の切れた唇が微かに呻いた。顔立ちと身なりから見て、十代前半の少年らしい。やがて、その小さな動きは少しずつ全身に広がった。指先、肩、膝、足、頭、目尻。
二人は顔を見合わせた。そしてクチナシが慎重にその身体を支え、836が僅かに開いた瞳に向かって問いかけた。
「きみ、大丈夫か?見たところ、大きなケガはないようだが。なぜこんなところで倒れている?」
しかし、まだ状況が掴めていないせいか、少年の口から出たのは答えではなく問いだった。
「ここは・・・ホウエン、ですか・・・?」
勘違いにしても見当が違い過ぎる土地の名に、クチナシと836は再び顔を見合わせた。しかし彼が今着ている衣服は、確かにこの南国の気候と風土にはそぐわない。
そんな少年に、今度はクチナシが訊ねた。
「おまえはホウエンの人間なのか?」
こくん、と右手の上の頭が小さく肯く。
「そうか。ここはな、そのホウエンからずーっと南の先にある、アローラ地方だ。アローラは分かるか?」
小さな頭が今度は横に揺れる。ただでさえ虚ろな瞳に、確かに翳りが射すのが見えた。
「・・・そうか。ところでおまえさん、名は?」
「リラ、です。・・・?」
その頭を支えていたクチナシは、掌に感じた僅かな動きから、彼の異変を覚った。
「リラか。それはきっと下の名だね。できれば、姓の方も教えてもらいたいのだが・・・」
そこまで言いかけた836を、クチナシが眼で制した。どうも様子がおかしい、と。
事実、少年は確実に動揺していた。
しばらくはクチナシに支えられたまま目を不安定に泳がせていたが、不意に身を起こすと、腰にひとつだけついていたモンスターボールを掴んで放った。
「お、おい!急にどうした!?」
現れたのはねんりきポケモンのフーディン。しかしその彼もまた、高度な知能の持ち主らしからぬ虚ろな目をしていた。
「落ち着け!私達はきみに危害を加える気はない!」
836は少し強い口調で言ったが、少年の耳には入らなかった。
フーディン。もうずいぶん長い間一緒にいる、大切な相棒。それは分かる。だけど。
「・・・分からないのか?」
クチナシの言葉に頷く代わりに、少年はびくりと身体を揺らせた。同時に、呼吸が速く、浅くなった。
「分からない?自分の名字がか?それじゃあまさか、この子は──」
その時、クチナシとハンサムは同じ事を考えていた。一年前、やはりこの島で倒れていたところを保護し、そして今日の昼に消えてしまった、あの記憶を失くした少女の事を。
「なあ。おまえ、もしかして空に開いた穴みたいなものに入らなかったか?」
クチナシは自分の声が緊張しているのを感じた。
アローラ以外で「それ」が出現したという話は未だ聞いたことがない。だが何ヶ月か前、ホウエンの本土から遠く離れたバトル施設で不審な点の多い事故が起きたという噂は、確かに耳にしていた。
「そら・・・あな・・・。」
少年は気になった言葉を繰り返してみた。確かに、何かが引っかかる感じはする。しかしそれは爪の先すらかけることができない、あまりに小さなとっかかりだった。
少年は傍らのフーディンを見た。
再び猛烈な違和感が胸を占め、思わず顔が歪んだ。
「分かり・・ません。何か、あるような気は、するけれど。」
違う。
フーディンを目にした時には、いつももっと何かを感じていた。
見えるのは彼だけではなかった。
この胸を明るく温かく満たすものがあったはずだった。
「そうか。大丈夫だ、気にするな。なら、おまえ自身の事でも何でもいい。とにかく、覚えていることを──」
クチナシがそこまで言いかけた時、少年の喉の奥からひゅっと奇妙な音が漏れた。そしてそのまま、再びクチナシに頭を抱えられた。
「おいきみ!しっかりしろ!!」
自分の身に何があったのかは分からない。
失われてしまったものが何だったのかも分からない。
そんな彼に分かったのは、この胸にただただ広く深い穴が空いてしまったという、その事実だけだった。